小説「Wild Rat Fireteam」第9話・第10話

第9話

晩秋。

大気はキンと張り詰めた冷たい厳しさを、日に日に強めていく。
新兵達はかじかむ手を懸命にあたためて、白い息を吐きながら、冷え切った鉄の武器を振りかざす。

そんな訓練の日々が続いた。

***

初雪の季節まで、もう少しというある日の夕方。

その日は、「式典」のためにアルファルドの王城だけではなく、城下町の民までもがせわしない一日を送っていた。

アルファルド王国の王女、テセラ。
その日は、彼女の誕生日であった。

国王、王妃、王女の毎年の誕生日には城下町中が祝福の空気に包まれる。
今年とてそれは例外ではない。むしろ、今年は「特別」な歳でもあった。

テセラは今日、16歳を迎える。
それは彼女がこの国で成人と認められる、そんな特別な意味があった。

***

王国の姫君が成人する。
そんな大切な日に、何も起きない訳がない。

王国軍は、城下町中に兵を配備し、敵国の襲撃にそなえていた。

だがそんな心配をまるであざ笑うかのように、式典は、何事もなく終わった。

城下町中に配備されていた兵は場内へと戻り、日が西へ沈む頃には、城下町は普段通りの光景へと戻っていった。
だが、城内はそうは行かなかった。

特別な来訪者がいたためだ。

***

アルファルド王城、一階エントランス付近。
あたたかな斜陽に照らされて、人だかりの中央にその2人はいた。

青年と少女。
2人とも、水色の髪に薄紫の瞳。
アルファルドでは極めて珍しいその色……そして、尖った耳、華やかで質の良い礼服。
彼らは、エルフの国――エレクシアの王子と王女であった。

隣国からの来訪者を護衛するべく、城内の兵士たちは緊張を緩めてはいなかった。

王子、王女いるところに兵士あり。
彼らの周囲には、常に数多くの兵士たちが囲っていた。

***

「……あれじゃあ逆に目立っちゃうよね」
「まるで『どうぞ我々を襲って下さい』って言ってるようなものよねぇ」

サムエルとソフィーは、3階の通路から中庭を見下ろしていた。中庭の中央を、エレクシア御一行様がゆっくりと歩いている。
護衛の中には、顔を知っている自分たちの上官もいた。

警戒態勢のなか、忙しく動いているのは上級兵たちが主だ。
自分たちの様な下っ端中の下っ端は、王族の護衛など任せられるはずもない。

昼間は自分たちも城下町の一部区域を警護していたが、それも式典が行われていた昼間だけの話。
日が傾きかけるこの時間帯には既に仕事が終わり、暇を持て余していた。

王城全体が、お祭り騒ぎの様な、それでいてどこかピリピリしたような、そんな奇妙な空気を漂わせている。
普段は厳しい上官たちも、今日ばかりは王族の警護に気を取られていて自分たちの管理までは頭がまわっていない。
それは、「普段できないようなことも今日なら出来るかもしれない」という、背徳的な解放感すら漂わせていた。

エストはそんな状況をさっそく利用するべく、食堂へ足を運んでいる。
ソフィーとサムエルの見積もりでは、今頃食堂のご馳走をこっそりと持ち帰ってこちらに向かっている頃であるはずだった。

「おーい、サムエルー!ソフィー!!」

予想どおり。
いや、予想よりも少し早いか。

背後から、よく見知った姿が近づいてくる。
両手には会食の余りものだろうか、料理が無秩序に、そして豪快に盛り付けられた皿を抱えている。
エストは満面の笑みだ。すでに少しつまみ食いしたようで、口角がわずかに汚れている。

「見ろよコレ! 大収穫!」
「わあエスト、凄いねこれ! 運んでくるの大変だったんじゃない?」
「食べ物のことなら任せろ!」

サムエルとエストのやり取りをみて、ソフィーは喉元まで出かかったツッコミの語句を無理やり押し込めた。
こいつらに今さら何を言っても無駄だ。

入隊して、問題児2人組の凶行に巻き込まれてから、はやふた月。
すっかりソフィーはこの空気に慣れてしまった。

「ソフィーも食べるだろ?」

にっこりとした笑顔でエストは料理を勧めてくる。
正直食欲が湧くような盛り付け方では無かったが、実際小腹は空いていた。

「そうね、じゃあ少しいただくわ」
そういうと、皿の端に乗っていたパンをつまむ。

普段食べないような柔らかい食感と香ばしい小麦の香りを味わいつつ、ソフィーは再び中庭の方へ視線を落とした。

エレクシア王族はまだ中庭の端にいる。
ふと反対側をみると、そちらからはテセラが歩いてくるのが見えた。
脇には侍女と兵士が1人ずつ控えている。

テセラはエレクシアご一行と合流し、そのまま会話をし始めたようだ。
何と言っているかは流石に聞き取れない。
だが、表情は何とかここからでも見えた。

じっと中庭の方を食い入るように見つめるソフィーを見て、エストとサムエルも視線を追う。
隣からエストが身を乗り出して、中庭を見下ろす。
口には……おそらく鳥の足だろう、こんがり焼かれた肉を咥えている。
「はれかいんのふぁ?」
「食べるか喋るかどっちかにする。……テセラ様と、隣国の王子が話しているわ」

エストも視力は良いはずだ。おそらく彼にも見えているのだろう。
エレクシア王子とテセラの、笑顔で会話する表情が。

王子と王女。
お互いに、戦火に置かれた自国の未来を託された尊い存在。
だが、王族である以前に……2人は、若い男女でもあるのだ。

ソフィーの、女としての勘が、警鐘を鳴らしていた。
……まずい。何がマズイか具体的には説明できないけれど、何かがマズイ。

そんな危機感を覚えている間に、王子とテセラは周囲から離れ、2人きりで何処かへ歩き始めた。
少し後ろから、護衛と思しき兵士が2名ついてくる。

「な、なんで2人で!?」
ソフィーは身を乗り出していた柵へいっそう体重をかける。
今にも転落しそうな勢いだったためか、慌てたエストとサムエルに制止された。

「ソフィー、落ち着けよ! 別に2人でいたっておかしくないだろ」
「落ち着いてる状況じゃないでしょ! なんでアンタはそんなに冷静なの!」

駄目だコイツ、分かってない。
ソフィーはいらだつ心でそう思うと、廊下を全力で駆けだした。

目指すは1階へつづく階段。
あの2人を何としても追わなければ。

驚く男性陣の方へくるりと振り返ると、
「2人を追うの! 早く!!」
とまくしたてた。

エストとサムエルはお互いの顔を見合わせ、そして、仕方なくソフィーの後を追いかけた。

***

夕日はすっかり西の山脈へと顔をうずめ、東の空はもう薄暗くなり始めていた。

王城の東棟を1階へ降りて外に出ると、そこには武器倉庫がある。
普段使われない武器や攻城兵器をしまっておく場所のため、あまり人気の無い場所でもある。

そこにテセラと王子はいた。

王子が護衛の兵士の方を向き、手でなにかの仕草をした。
それと共に、それまで2人を囲んでいた近衛がさっと身を引く。
人払いの合図なのだろう。

テセラは王子の顔をみる。
その表情は、彼女が今まで見たことがない…真剣な眼差しだった。

自分の年齢を間違えて、間違えた本数の薔薇を送りつけてきたのはいつだった?
あのときの王子と、今の彼が同一人物だとはとても思えない。

「僕が話したいことが何なのか、貴女なら想像がついているでしょう」

テセラは頷きもせず、ただ黙っていた。

「僕は貴方たちと年の取り方が違うが、この国で16歳を迎えることがどんな意味を持つのか…それくらいは心得ている」

16歳。それは、この国ではある種の境界だ。子供と大人の境界、禁酒と飲酒可の境界、そして…婚姻不可と可の境界。
今日、彼女はその境界を超えた。
今まで「未成年」という名の境界に守られていたが、もうそれはない。

「もともと、アルファルド王国とエレクシア王国は一つの巨大な国だった。それが内戦によって分裂してから数百年。ルグレスと相対している今、2つの国は昔のような強固な力を取り戻すべきだ」

分かっている。その先に紡ぎ出されるはずの言葉が何かも、もう分かりきっている。

「…今のは、僕ではなくて僕の父親の言葉なんだけれどね。しかし、君の父親もほぼ同意見なのだと聞いている」

彼女は肯定も否定もできず、目の前に相対する青年へ問うた。
「貴方は、どうお考えなの?」

王子はその問いに、微笑しながら否定した。
「僕が話すより先に、貴女の方から話すべきだろう」
「なぜ?」
「君の視線を見れば分かる」

水色の眼差しが、まっすぐにこちらを見る。
迷って、動揺していることは、とうに知られている。

「君には選択の権利がある。父の言葉を受け入れるも、別の道を歩むも、君の自由だ」

そういうと、目の前に手がすっと差し出された。

ずるい。

彼女は思った。
自分からは考えをハッキリとは述べず、動揺している私に完全に判断を委ねている。
なのに、手を差しのべるなんて。
口では優しく問うているのに、行動はまるで「この手を取ってくれ」と言っているようではないか。

テセラは王子から差し出された手を見つめ、そして、どうすることも出来ずにそのまま動けずにいた。

この手をとれば、自分の未来は決まってしまう。
エレクシア王子の妻として、自国と隣国の未来を両肩に担う存在となるのだ。

もし、この手を振り払ってしまえば、どうなる?
……色々な未来が、テセラの脳内を駆け巡った。

本来ならば、エストのことなど完全に忘れ、この手を取るべきなのだろう。
差し出されたこの手を握るだけでいいのだ。

その簡単で単純な動作が、
どうしても、
テセラにはできなかった。

「ごめんなさい……」
そう呟くような声で言うと、彼女は王子の元から駆け出した。

後ろから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
その声はだんだんと遠ざかり、しまいには聞こえなくなった。

***

武器倉庫裏。
投石器の裏にかがんで、この一部始終を見ている3人組がいた。

エスト達3人はしばらく、ことの運びが急展開過ぎて言葉を失っていた。

王子が言わんとすること。
それは、つまり、テセラへの求婚。
耳を疑うような内容の会話に、3人はどう反応していいのか分からなかった。

「…ど、どうするこれ」
唖然としつつも、エストが沈黙を破る。

テセラが走り去った方向は覚えている。
道のりさえ気を付ければ、王子に姿を見られないように彼女を追うことも可能だろう。

「決まってるよ」
「早く追いかけなさい」

ソフィーとサムエルはそういいながら、エストの背中を軽く叩く。
どうやら「立て」と言いたいらしい。

2人に煽られるがままにエストは立ち上がるが、ソフィーとサムエルはその場にかがんだままだ。

「……おい、もしかしてオレ1人で追えっていいたいのか?」
「当たり前でしょ」

ソフィーはけろりとした顔で頷いた。

「なんでだよ! オレとテセラに何があったか知ってるだろ!」
怒るエストの前で、サムエルがスッと立ち上がった。

「だからこそ、エストが追わなきゃいけないんだよ」
「サムエル……?」

「エスト。本当にこのままで良いの?
もしかしたら、テセラ様はこのままエレクシアの王子様のところへ行っちゃうかもしれない」

エストはその言葉を聞いて一瞬狼狽したが、すぐに反論した。
「どうしたってテセラの勝手だろ。オレのすることじゃない」

「そうかもしれない。けれど、さっきのテセラ様の顔をエストも見たでしょ?
……あんな顔、テセラ様にさせたままで良いの?」

エストは先刻のテセラの顔を思い出す。
差しのべられた王子の手を見て、逡巡し、狼狽し、沈黙するテセラの顔が、脳内に蘇る。

「テセラ様は、3年前の結界のことでまだ自分自身を責めてる。全部自分が悪い。
だから、エストに会っちゃいけない……そう思ってる。
エストは、テセラ様がそんな悲しい気持ちを抱えたままでいいの?」

エストは、友人の言葉に何も言い返せない。
テセラが自分を責めていることなど、エストは百も承知だった。
だが、それをどうすることもできない。

下手に手を出せば、彼女を余計に傷つける。
だから、自分は身を引いたのだ。

「オレに何ができるんだよ……。今更すぎるだろ」
「そんなことないよ」

サムエルは首を横に振って、続ける。

「告白しろ、なんて僕は言わない。だけどね、自分自身を責めちゃってるテセラ様を少しでも救ってあげられるのは、エストだけなんだよ」

「救う、って……」

「ねえ、エストはあの人にどうなってほしい?
少しでも笑って、笑顔でいてほしい、って……そう思わない?」

そのとき、エストの脳内にテセラのあの表情が浮かんだ。

3年前。
城を逃げ出したテセラは、ずっと思い悩むような暗い顔を浮かべていた。
そのテセラが、最後の最後に、笑ったのだ。

自分に向けられた、あの柔和な笑顔を、エストは忘れられない。

……テセラに、笑っていてほしい。
あの笑顔を、守れるような存在になりたい。

そう思った瞬間、エストは決心した。

「……サムエル、ソフィー。
 少し帰り遅くなる」

そういうと、彼はテセラが走って行った方角へと身を向けて、走り出した。

……嫌われたっていい。
……これが最後の会話になったって構わない。
あの笑顔を、もう一度見るために。

エストは、テセラを追いかけて、走り出した。

第10話

走り疲れたテセラがふと周りを見渡すと、そこは先程の場所とは遠く離れたところだった。

周囲を囲む城壁が、王城の明かりをわずかに反射している。
息を整えて深呼吸すると、遠くから微かに馬の嘶く声が聞こえた。
畜舎が近いのだろう。

……戻らなくちゃ。

まっ先にそう思ったが、脚は動かない。
王子はきっと心配しているだろう。彼の報告を聞きつけた近衛たちが、今頃自分を探しに来ているかもしれない。

このままでは大きな迷惑をかけてしまう。

……だが、脚は石のように固く動かない。

今更、戻ったところで彼になんて言えばいいのか、テセラには思い浮かばなかった。

戻ったら、まずは逃げ出した無礼を謝らなければいけない。その次に彼は何と言う?
婚姻の話を避けては通れない。
彼の前で決断を迫られたら、私はどうすればいい?

よしんば今日の返事を保留にできたとしても、いつかは返答をしなければいけないのだ。
それはいつ?
王子の追及を免れたとしても、父は何と言うだろう?
そして、ぐずぐずと返事を先延ばしにしようとする私の態度を見て、どんな罵声を浴びせるのだろうか?

鉛の様な重い想像が、テセラの心にのしかかる。

……戻れない。

ぎゅっと身体が縮こまる。

遠くにぼんやりと見える城の明かりから目を逸らしたそのとき、畜舎の方から馬ではない別の動物の唸るような声が聞こえた。

グルルル……と低く響くその声の主は、塀の向こうからするりとテセラの前に飛び降りた。

狼だ。
くすんだ灰色の体毛を逆立てて、狼がこちらに向かって威嚇している。

「……!」

野生動物が王城へ侵入するのは、珍しい事では無かった。
番兵の目をかいくぐり、野犬や狼が城内を闊歩しているところを、テセラは何度か見たことがある。

だが、それは「傍に近衛がいる」という状況下だ。
今は、そばに守ってくれる人は誰もいない。

テセラは狼の方に向き直り、ちらりと横目で右後ろの壁を見やる。
立てかけてある武器は長剣が3、短槍が2。

距離にして3~4メートル。

狼から一瞬でも視線を逸らし、武器を取りに行くか。
それとも数十秒、魔法詠唱の時間を稼ぐか。

逡巡し……そして、狼に背を向けて短槍の方へ駆け出した。

ガアッ、と短い威嚇の声を背に聞きながら、テセラは右手に槍をとる。
振り返った瞬間、息をのんだ。

狼は地を蹴り、テセラの頭上で獰猛な歯を見せながら今まさに食らいつかんととびかかってきたのだ。
思わず、槍を構えた腕を固く縮こめる。

ああ、間に合わなかった。

強くつむった瞳の奥でそう考えたとき、鈍い音と狼の弱弱しい鳴き声が聞こえた。
そして、なにかが地面をこすった様な音と共に静寂が訪れる。

テセラは目を開ける。

そこには、槍を構えて狼をにらむエストの姿があった。
地面に叩きつけられていた狼は、軽くエストを一瞥すると一目散に逃げだしていった。

「……逃げたか」
そう言うと彼は軽く息を吐き、槍を肩に担いだ。
そして、驚きのあまり硬直するテセラの方に向き直る。

「バカ! なにやってんだこんなところで!」

「え、あ、あの」

エストこそ、こんなとこで何を?
私、助かったの?
あの狼を追い払ってくれたの?

色々な「?」がテセラの脳内をぐるぐると駆け回り、一向に文章としてまとまらない。

明らかに混乱している彼女をよそに、エストは喋りつづけた。

「あの狼はなんだよ? まさか、あの王子に嫌がらせされたのか!?」
「ち、違うの! あれは偶然よ! 王子は何も……」
「なんだ。なら、戻るぞ」

す、と差し出されたエストの手を、テセラは躊躇した表情で見つめる。
エストは首をかしげる。

「……どうした?」

どうしたもなにも。

テセラは手を取れず、槍を握ったままだ。

どうしたもなにも、私、あなたにあんなに酷いことをしたのに。
何もなかったかのように、手をとれるわけ、無いじゃない。

「……私」
そう言いかけたテセラの表情を見て、やっとエストは察した。

「あっ……」
出した手は、ゆっくりと引っ込まざるを得なくなる。
そして、沈黙が場を包んだ。

冷たい夜風が静かに吹く。
馬の声が遠くから聞こえ、ようやく2人は動いた。

「テセラ、その槍戻せよ」
「あ、そ、そうね」

テセラは、ずっと握りっぱなしだった槍を壁に立てかける。
そっと、優しく槍から手を離し、彼女は思った。

このままではいけない。
……エストのことも、ちゃんと区切りをつけないと。
……このままでは、3年前と私は何も変わらないままだ。

「エスト。ごめんなさい……。戻る、戻る、から……
ちょっとだけ、あなたと2人でお話しさせて」

***

畜舎の方へ少し歩くと、そばに木箱が積み上げられている場所があった。
高さにして約2~3メートルほど。
エストはよじよじと木箱に上ると、一番上に積み上げられているところで座り込んだ。

……相変わらず、高いところが好きなんだから。
テセラは少しだけ苦笑する。

3年前、民家の屋根から飛び降りてディーナと自分の前に躍り出た光景をテセラは思い出した。

テセラも、運動神経が鈍いわけではない。
このくらいの木箱を上ることくらいは簡単だ。

ドレスの裾に気をくばりながら、テセラも木箱をよじ登る。
あえてエストの隣ではなく、90度横になるような位置に座った。右を向かなければエストの身体が見えない。

テセラは風にたなびく草へ視線を落としながら、ぽつりと訊いた。
「エストは……3年前の急襲のこと、どう……思っているの?」

視界の右横で、わずかにエストの顔がこちらを向いたのに気が付く。
だが、あえて自分は彼の方を向かずにいた。

数秒の後、返事が返ってくる。
「スラムの事は、正直……悔しくてたまらない。
あの日、結界がもう少しスラムの方まで届いていれば……父さんや弟は助かったかもしれない、って思うと、さ。
……でも、テセラだって悪意を持ってやったわけじゃないってことはわかるし……。
……整理がつかないんだ。気持ちが、ぐるぐる回ってるみたいでさ」

「……うん」

予想は合っていた。
自分は彼の家族や故郷を奪ったのだ、悔しい気持ちや悲しい気持ち、恨む気持ちがあって当然のことなのだ。

……やっぱり、私は彼の傍にいてはいけない。
身分も、立場も、罪状も……何もかもが、彼と違いすぎる。

それが分かっただけで、十分だ。

テセラは決心した。
エストに別れを告げようと、口を開いた瞬間……エストは木箱の上で立ち上がった。

エストはテセラの方ではなく、城壁の向こう側を眺めている。
「けれど、」
そういって、エストはテセラへすっと手を差し出した。

今度はエストの手をとり、テセラも木箱の上へ立ち上がる。

城壁を超えた眼下には、城下町の明かりが広がっていた。
いつの間にか日は落ち切って、山脈の端からわずかな残照が消えかかっている。

暗い橙がすうっと消えて、濃紺の空へと綺麗なグラデーションを作っていた。

そして、その空の下には、城下町の家々や街路灯から漏れている何百もの明かりが広がっている。

数十年前。炎魔法の整備により、この城下町は夜でも眠らない街となった。
何度も、自室の窓から眺めた街明かり。
窓ガラスを介さずに直接明かりを眺めたのは、久々だ。

「テセラはあの日……この街明かりを守ったんだよな」

眼下に広がる明かりに見惚れていると、そんなエストの言葉が来た。

思わず、彼の方を向く。
エストは街明かりから、ゆっくりとこちらを向いた。
その表情はテセラの予想に反して、とても穏やかで優しいものだった。
「城の人たちを、この景色を、守ったのはお前だよ」

テセラは何も言えず、そっと城下町の方へ向き直る。
街明かりが揺らめいて、滲んでいくのを、彼女はどうしようもできない。

何かを口に出そうにも、声すら出せなかった。

「自分で守ったものは最後まで守り抜かなきゃいけない。
自分のやったことには責任を取らなきゃいけない。
……だから、辛いからって、逃げ出しちゃダメなんだ」

テセラは、エストの言葉に黙って頷いていた。

……逃げてはだめだ。
……3年前のあの日、私は確かに「選択」をした。
王城を、城下町を守るために、人の少ない地帯を切り捨ててた。
その結果が、この街明かりだというのなら……

私はこの明かりから逃げてはいけない。
この先の未来に待ち受けているであろう選択から、逃げてはいけない。

「……城に戻るわ」

やっとの思いで、声を紡ぎだした。
声は震えているが、もうそんなことは気にしていられない。

王子の元へ戻らなくては。
城のみんなが、待っている。

エストは黙ってうなずくと、木箱を軽やかに降りた。
そしてテセラの手をとって、木箱から降りるのを介助する。

とん、とテセラが地面に着地したのを見ると、エストは手を離した。そして2メートルほど前方を歩く。

おそらく、泣きそうになって変にゆがんだ自分の顔を見ないようにしてくれている配慮なのだろう。

テセラも何も言わず、彼の後ろ姿をついて行く。

3年前、ぼろぼろの服を身にまとって、自分のサークレットを盗んで逃げようとしたあの小さい背中。
当時は自分よりもすこし背が低かった記憶があるが、今ではもうすっかり追い越されてしまっている。
あの背中が、あっという間にこんなに大きくなってしまった。

彼の背を見つめていると、自分はまだ「ステラ」である気がしてくる。
王城を飛び出し、王女という肩書もテセラという名前すらも捨てて、自由の身に憧れた「ステラ」という偽名。
こうしている間だけは。
エストの背中を追って、この夜の影に隠れている間だけは、自分はまだ自由な身でいる気がしている。

だけど、そのままではいけない。
城の明かりの下に戻れば、私は「王女」なのだ。

その前に。
城の明かりに照らされる前に。
「王女」に戻ってしまう前に。

一つだけ、伝えておきたいことがある。

「待って!」
呼び止められたエストが振り返る。

3年前も、そうだった。
城を逃げ出した私を、エストは正しい方へ導いてくれた。
あの日私をかばってくれた背中は……とても、とても大きく見えた。
その背中に惹かれていたのは、いつからだろう。

サークレットを外す。
あの日のように。

3年前、「ステラ」という街娘のフリをして、スラムのスリの少年に出会った日のように。

「エスト」
「どうした?」

この言葉に責任を取らなきゃいけない日が来るかもしれない。
これは、茨の道へとつながる言葉なのだと、分かっている。

それでも……私は、彼に言いたい。

「あなたが好きです」

テセラは彼の表情を見据えて、まっすぐに、そう言った。

驚いた眼が見開かれる。そして一呼吸の後に、彼は視線を逸らした。
テセラは、それでもエストから視線を外さなかった。

自分が我侭なのは分かっている。
これは叶ってはいけない恋なのだと、分かっている。

けれど……それでも伝えたかったのだ。

「テセラ、オレ……」
「いいの」
テセラは小さく首を横に振り、続ける。

「いいのよ……。返事は言わないで。あなたが返事する必要は無いの」
伝えられただけで、十分なのだ。
これは叶ってはいけない思いなのだから。

「戻りましょ?」
エストの横を抜け、王城の方へ戻るテセラを……
「待てよ!」
エストが袖をつかんで止めた。

「返事言わなくていいとか、そんな勝手なことがあるかよ……!
オレだって、オレだって……!!」

掴んだ袖をぐい、と引っ張り、エストはテセラを抱き寄せた。
「何のためにオレが兵士になったと思ってんだよ……」
「えっ……」

「オレも好きだ。テセラ」

耳元でささやかれたその言葉を、テセラは心の中で反芻した。

これは叶わない恋。
叶ってはいけない恋。

……だけど。

今だけは。
王城の明かりに照らされていない、今だけは。

この人の恋人でいさせて下さい……。

夜の帳が静かに降りる。
星空の照らす影の中、2人は静かに幸福を噛みしめていた。

Epilogue

どんな夜にも、終わりは来る。
夜は明けて、また新しい日が昇り、アルファルドの城を明るく照らしていく。

昨日の式典から一夜明けて、王城はまた元の平静を取り戻していた。

エレクシア王族の滞在は昨日だけ。
今頃は西のアトラス山脈を越えて、自分たちの国へと戻っている筈だ。

いつも通りの朝。

いつも通りの訓練を終え、いつも通りの席でいつも通りの食事を囲む。

アイザックが食事を終えて自室へ戻ったあと、ソフィーとサムエルは待ち構えていたように好奇の視線をエストへ向けた。

「で、どうだったの!!??」

さすがのエストも、その質問の意図ぐらいは理解している。
身を前に乗り出すソフィーに若干身を引きつつ、飲み物を一口飲んでから……エストは小声で言った。

「……テセラに告られた」

友人2人の表情が止まる。
まるで時間そのものが止まったように、空虚な表情がぽかんとエストの眼前に2個浮かんだ。

「「……は???」」

異口同音。
口調穏やかなサムエルが「は?」なんて言うところをエストは初めて聞く。

「だから、昨日はテセラに」
その言葉を、2人の絶叫に似た声が遮る。
「ええええ!!?? ウソでしょ!?」
「それでそれで!? 受けたの!?」

目を爛々と輝かせる2人に対し、エストはシーッと立てた指を自分の口元に当てる。
ここで大声を出されると困る。社会的に死ぬからだ。
「バッカ、デカい声だすなよ!!」

2人をなだめたあと、エストは言った。
視線は恥ずかしくて横に逸らす。

サムエルとソフィーも状況を察し、ひそひそ声で会話を続ける。
「……で、エストはそれ、受けたの?」

気恥ずかしい。
けれど、ここは正直に答えないと後々面倒なことになりそうだ。
「……当たり前だろ」

次の瞬間、友人たちの表情が燦然と輝いた。
「キャー!!」
ソフィーとサムエルが手を取り合ってぴょんぴょん跳ねている。

こんなに明るい表情を浮かべるソフィーは初めて見た。そして、こんなに生き生きと動くサムエルも初めてだ。

お前ら、いつからそんなに仲良くなったんだよ。

「あああ分かった! 落ち着け、落ち着けって!!」

「これが! 落ち着いて! 居られるもんですか!」
ジャンプのリズムに合わせてソフィーが言う。

良いから着地してくれ。
エストの懇願を表情から読み取ったサムエルが、ソフィーと一緒に着席した。
ジャンプによほど体力を費やしたのか、上がった息を整える。

そして、ふわりと笑いかけた。
「…おめでとう。テセラ様を、幸せにしてあげて」

優しい、あたたかな陽だまりのような微笑み。
心からの祝福の気持ちを、エストは感じ取った。

昨晩の叱咤激励。
橋を使ったバルコニーへの突入作戦。
入隊翌日の侵入。

サムエルとソフィーには、いつも支えられてきた。
だからこそ、テセラに思いを伝えることができたのだ。

「……2人とも」

ありがとう、と言いかけたエストをソフィーが手で制した。
「その先の言葉はまだ聞かないわよ」

サムエルが頷く。
「そうだよ! ありがとうって言っていいのは、エストとテセラ様の仲を皆に公表できるようになったときだよ!」
「あらサムエル、私は婚約のときだと思ってたけど?」

「こっ!?」
婚約の2文字にエストが反応する。

まだ付き合って半日も経ってないのに、もう婚約の話とは気が早すぎるのではないか。

ソフィーの言葉に、サムエルは再び頷いた。
「そうだね。結婚がゴールだよね!」
「そういうこと。エスト、自覚してる?」

自覚って?

話についていけてないエストが口をぱくぱくさせている。
言葉も出ない。

サムエルとソフィーは顔を見合わせ、にっこりと言った。

「「ここからがスタートなんだから、頑張ってね!」」

スタート。ここからが。

エストは言葉を頭の中で繰り返す。
そうだ、昨日やっと始まったばかりなのだ。

これはゴールなのではない。
テセラの恋人としての生活を紡いでいくのは、これからなのだ。

エストは顔を上げる。
燃え尽きた故郷の中で渇望していた生活を、やっと手に入れたのだ。

ここから始めよう。

新しい生活は、いま幕を開けたばかりだ。

End