永劫のアナスタシス(通常版) 第三章 Ⅰ

1.

明け方に空を覆っていた雲は過ぎ去り、雨露に濡れた草を木漏れ日が照らす。梢から落ちる雨垂れが、不意にレネとモルテの頭上へと滴った。

フォスとの戦闘から、一夜が過ぎた。あの晩、睡眠薬が完全に抜けてからレネは身支度を整え、無残な姿に変わり果てたフォスの遺体を埋葬した。モルテは遺体など放っておけばいいと反対していたが、一人黙々と地面に穴を掘るレネの姿を見て渋々手伝った。
作業が完全に終わった頃には周囲が明るくなっていた。一睡もせずに疲労が蓄積していたが、瓦礫の山と化していた民家で休息する気にもなれない。二人は、行く当てもなく川の上流を目指していた。

道中、いくつかの家に遭遇した。家というよりは、小屋と言った方が近いだろう。どれにも人が住んでいた形跡はあるものの、これまで同様にやはり中は無人だった。
家を発見しては足を止め、休憩を兼ねて室内を探索する。生存者に出会うことができれば一番いいのだが、せめて日記帳などがあればリヴァーディアの呪いと生存者に関する情報の一つでも見つかるかもしれない。淡い希望を抱いていたが、そこまで上手く事は運ばなかった。

そうして何軒目か、数もあやふやになってきたころ。やはり家より小屋と呼ぶにふさわしいその室内でモルテが本を漁っている傍ら、レネは外を眺めていた。

右目の視え方・・・が、戻っている。

リヴァーディアで最初に戦闘した、赤いたてがみの魔物。あれが纏っていた黒い魔力を思い出す。戦闘中でしっかりと視る余裕はなかったが、あの黒い魔力は鬣の魔物とその周囲を取り囲んでいるように見えた。それは敵の魔力が強大ゆえに、あたりを霧のように覆っているものだと、レネは判断していた。


しかし、今右目で視ている光景は違う。周囲に魔物などいないのに、今も視界全体が霧のように黒く覆われている。あれは魔物の魔力だけでなく、この国全体が纏っている波動らしい。魔物の接近をいち早く察知できるかと期待していたのだが、これでは大して役に立ちそうもない。
レネは小さくため息をつき、眼帯を再び装着した。

前日の夕刻までは、自分のこの呪いにやっと別れを告げることができると思っていた。しかし、一晩経って呪いは解けるどころかかえって進行してしまっている。右頬を覆っていた紋様はわずかに範囲を広げ、右耳と顎にまで浸食していた。今は服で隠されているが、右腕と右胸も範囲が広がっている。

――呪いが解けるなんて話、嘘だったのか。

フォスの真意を明白にすることは叶わなかった。魔物化する直前の彼女はまさに錯乱状態で、「皆を元に戻す」という彼女の主張と目的がどこまで本当だったのか最早分からない。フォスはレネの血液を欲していた。あれは力を得るためだったのか? 

探索を終えたモルテが、考え込むレネの顔を見て、尋ねる。
「レネ、フォスの話どこまで信じる?」
「……」
返答に躊躇した。

彼女によれば、この国は侵略者によって呪いを撒かれ、民が魔物に変わり果てたという。彼女は自分の使命について、「苦しんでいる人たちを、魔物化の運命から解放すること」だと言っていた。その話をどこまで信じればいいのか。そして、これからどこへ向かえばいいのか。レネには分からなかった。

「明確な根拠には乏しいんだが」と前置きし、レネはつぶやく。
「ほぼ全部、本当のことだったのかもしれない……そう思うんだ」
「そうかな? あいつ、僕たちのこと騙してたんだよ?」
「結果的にはな。だが、最初に侵略のことを教えてくれた時の目……あれは本気の目に見えたんだ」
生存者の救済を誓う彼女の眼差しは、人を騙すようなものに見えなかった。もしかしたら無意識に、レネ自身がそうだと思っていたいのかもしれないが。

「まあ、生き残りがいてもいなくても……僕たちのやることは変わりないよ。レネはその呪いの解除方法を探す。僕はリヴァーディアに眠る、希少鉱石オウルムを探す」

「ひどいな、協力してくれないのか」
冗談まじりにレネは笑った。魔法への探求心の強さは、相変わらずだ。
「不本意だけど、協力せざるを得ないみたいだ。ようやく当たりに出会えたよ」
やはり冗談まじりに返しながら、モルテは古びた本を開いて差し出した。

文面に目を通す。日記のようだ。読む傍ら、モルテが補足する。
「ここから北に王城があるんだって。この書き手は鉱石の採掘員だったみたい。招集のくだりが、後ろの日付に書かれてたよ」
日記帳をパラパラとめくる。斜め読みだが、確かに採掘や召集のことが書かれていた。
そして、あるページで目を止める。

「こいつ……この家で療養していたのか」
「採掘時の粉塵を吸引して、肺病にかかる例って少なくないけどね。作業環境が劣悪だとこうなるんだけど、この国もどうやらそうだったみたい」

長年にわたって苦しめられた咳。咳が招く不眠と、体力の消耗。更に手指の痺れ。書き手は王城周囲の断崖で鉱石採掘に従事していたが、先の症状に苦しめられ、市街地から離れてこの家で療養していたらしい。
しかし症状はあまり快方に向かわなかった。生計に苦しみ、不本意ながら復職の要請に応じたようだ。

「復職の条件として、王城の治癒師による治療を受けさせることを約束……か」
「フォス、《治癒師》を名乗ってたよね。この日記と同一人物かな」
モルテの問いに答えず、更に情報がないかと後続のページをめくっていた。しかし数枚めくったところで、白紙が続いている。それ以降の記述はなかった。

日記帳を閉じる。
治癒師がフォスと同一人物かどうかは分からない。が、同じく治癒師であるフォスが呪いの解除へ取り組んでいたことは、おそらく事実だ。そう思いたかった。
仮に日記の治癒師とフォスが同一人物でなかったとしても、王城であれば何らかの情報が記されている可能性は高い。少なくとも、ぽつりぽつりと現れた民家の内部を一軒一軒あさるよりかは、質の高い情報が得られるだろう。

「……確かめに行けばいい。目下の目的地ができたな」

北の王城。
鉱石と、治癒師。一本の細い蜘蛛糸のような情報だが、それでも今の二人には救済の道筋に思えた。

2.

地図にない王国、リヴァーディア。
秘匿のヴェールに覆われた文化や風習に全く興味がない、と言えば嘘になる。他人の生活を覗き見するような仄かな後ろめたさはあるが、日記に書かれた文章の端々から習俗を読み解いていく作業は純粋に面白い。
情報が欲しかった。まだ自分たちはリヴァーディアについて、何も知らない。

焚き火から立ち上る揺らめきを明かりにして、レネは日記帳を読み返していた。ページをめくり、時には前に戻りながら何度も日付を反復する。
書き手は一人暮らしの男性だった。闘病の記録が多かったが、日記の最初の方は他愛もないことが書かれている。今日はこの食材を手に入れた、今日は友人が見舞いに来た、今日は転んで足を擦りむいた……

呪いのことなど、何一つ書かれていない。まだこの時は、リヴァーディアは平和だったのだろう。
文章から視線を外し、目の前の焚き火を一瞥する。夕食の準備のためにお湯を沸かしているが、沸騰までにはまだ時間がかかりそうだ。
家屋内にもくりやはあった。しかし一部が倒壊しており、そのまま室内で火をつけるのは危険だった。それに――

「咳は止まったか? モルテ」
「おかげさまで。代わりに眠気と戦ってるよ」
欠伸の後、モルテはおもむろに寝転がる。睡魔への敗北は目前のようだ。

二人の疲労は限界だった。
目標ができたことで無意識に安心したのか、レネもモルテも日記帳を見つけた家から動く気になれなかった。何しろ、前日は一睡もせずに戦闘と埋葬に専念したのだ。疲れていないわけがない。
日没を待たず早めに休息をとることにしたのだが、埃まみれの室内に長時間いたせいか、モルテの咳が止まらなくなった。
屋外へ避難させて休ませる。その間に、自分は寝室の埃を払った。くりやは使えず、このまま外で食事も済ませたほうがモルテの肺にも良いだろうと判断し、今に至る。

雨がぶり返す予兆はない。レネは頭上を見上げ、昨日よりわずかに痩せた三日月に添えられた星空を眺める。
森林に覆われたリヴァーディアの空は、決して広いとは言えない。しかし街明かりの光に邪魔されない暗闇の中、梢の隙間に敷き詰められた星々は、かけがえのない絶景だ。

寝転がった姿勢のまま、モルテがつぶやく。
「星、綺麗だね」
リヴァーディアの地に足を踏み入れてから、戦闘続きだった。レネは相棒の言葉に静かにうなずき、二人で穏やかな夜を過ごせることの有難さを噛みしめる。

「そういえばさ。その日記、どうして何回も読んでるの?」
「読み返したら、何か気づけることがあるかもしれないだろう」
資料を読み返すのは当然のことだ。逆に、なぜそんな質問をするのか理解できない。
「……ああそっか、普通の人はそうなのか」
一瞬の間が開く。その間にモルテは何かを理解したようだ。寝ころんだ姿勢から起き上がり、勝手に一人で頷いている。
「レネが興味ありそうなところだと、十二頁目の記述とか。きのこを見間違えて毒にあたって、三日間お腹下してるでしょ」

レネは頁をめくって確認した。たしかにその記述は覚えがある。しかし、これは紙と革を綴じただけの簡素な帳面で、頁数など書かれていない。数えながらめくると、件の記述は確かに十二枚目にあった。

「僕としては、母親の急逝で大樹へ埋葬に行った下りが興味深いけどね。二十五頁目の上から四行目」
正しく、二十五頁目。指摘通り四行目の途中からその文章が現れた。
日記帳はモルテから受け取ってから、今この瞬間までずっとレネが持っている。モルテは一度しか読む機会が無かったはずなのに、まるで今もその手の中にあるようだ。

「お前、記憶力どうなってるんだ……?」
「忘れたくても忘れられないんだよ。何なら前に街で僕とレネが喧嘩したときの台詞、一字一句そのまま再現してあげようか?」
にい、と悪戯っぽく笑っている。
レネは目を丸くした。知識としてそういった特技をもつ人間がいるとは聞いていたが、まさか本当に遭遇するとは思わなかった。

「忘れられない相手に、あまり話す気になれないかもしれないけどさ」
得意げな笑顔が消える。モルテにしては珍しく少し躊躇って、口を開いた。
「レネの両親のこと、詳しく教えてくれないかな。フォスが言ってたことも気になるし、僕も知っておいた方がいいと思うんだ」

心が、ちくりと刺されたような気がした。
「……ああ、そうだな」
肯定の意思を返す。しかし、まっすぐなモルテの瞳を見つめ返すことができず、思わず視線が伏せた。

いずれ訊かれるのではないかと思っていた。
魔物に変化したフォスが口走った名前――イードルと、イリオス。自分を愛して七年間育ててくれた、レネにとって最も愛おしい人たちの名前だ。そして同時に、レネがこの旅を始めるきっかけにもなった、最も辛く苦しい名前でもある。

モルテに話さずに済むのなら、そうしたかった。記憶の奥底に封印して、ぼやけた状態で眠らせたままにしておきたかった。二人を思い返し、記憶の中で生き返らせて、瞼の裏であの表情を再生するのは……今でも苦しい、ことだから。

フォスは確かに自分の両親の名前を呼んだ。互いに知り合いだったことは間違いない。それどころか、初対面であれば年下の人間モルテにも敬語を使うフォスが親しげな口調で呼ぶほどに――とりわけイリオスとは深い関係だったと推察される。

レネの両親が、この国の侵略と呪いに直接つながるのかは分からない。しかし、今はあまりにも情報が少なすぎる。少しでも糸口を掴むため、二人のことも共有すべきだ。
それは、理解している。

「……長い話に、なるぞ」

記憶を呼び起こす。
痛みを伴う愛おしい日々の封を、丁寧に丁寧に、開けていく。

3.

空の果てまで繋がる水平線。素足へさらさらと触れては還っていく、穏やかな波。

潮騒を子守唄代わりに聞きながら、レネは育った。家の戸を開けて真っ先に見えるのは海。そこは小さな港町のはずれだった。

漁師だった父はレネに魚の取り方や泳ぎ方を教え、たまの休日は欠かさずに遊んでくれた。母は料理を教え、町への買い出しにたびたび連れて行ってくれた。
二人とも明るくておおらかな性格で、良くも悪くも特筆することのない両親だった。レネの成長を共に見守り、喜び、あたたかく穏やかな暮らしを送っていた。

今思えば、父と母は〈レネが生まれる前〉の日々を、決して語ることはなかった。現在や未来のことを話すことはあれども、二人から昔話を聞いた記憶は全くない。しかし両親の過去を気に掛けるほど、当時のレネは大人ではなかった。二人が自分を愛して、育ててくれる。それだけで十分だった。
満ち足りた、家庭だった。


それがあの日、一気に崩れ去った。


七つの誕生日をすぎた夏の日だった。
いつもと変わりない一日の始まり。ベッドから起きて、挨拶をしたところで母の表情が曇ったのをよく覚えている。
鏡に映る自分の顏は、右目だけが赤くなっていた。白目の部分は何も異常が無い。目の怪我なんじゃないかと言った両親は、深刻に気にする様子はなかった。痛みや痒みが何もなかったので、自分もそのうち気にしなくなった。数日経てば元通りに治るだろうと、家族の誰しもが思っていたのだ。

しかし、数日が経過しても一向に瞳は治らなかった。
そろそろ医者に連れて行こうか、と母が父に切り出したところで、父の顔色が突然変わった。母との会話の途中で一気に顔が青ざめ――それは何か、とてつもない絶望に気がついたような表情だった。

「……リヴァーディア」
一言だけ、父が呟いた。当時はその単語が初耳だったので、幼いレネには人名なのか病名なのか地名なのか、分からなかった。しかし、レネの母は知っていたようだ。その単語を耳にした途端、母も父と同じ絶望の表情を浮かべた。

そこからの光景を、忘れることはないだろう。

蹴飛ばすような勢いで椅子から立ち上がった父は、レネを床に押し倒し勢いよく首を絞めた。
父の太く逞しい指が、細い喉に食い込む。気道が絞まり呼吸できない。やめて、と言いたくても、細い嗚咽が口から漏れ出るだけだ。
突然のことで、信じられない。目の前で自分に覆い被さっている父は、本当の父なのか? これは間違いなんじゃないか?
目の前の父は両目を見開き、こちらを睨みつけている。それは紛れもない、殺意だった。


「怖くないよレネ、苦しいのは今だけだ。今やらないともっと苦しくなるんだ」
父は吐き出すように一気に話す。手は緩むどころか、一層強く押さえつけてくる。
「大丈夫、お父さんもお母さんもすぐに一緒のところへいくから。こうすることが正しいんだ、だからレネは安心していいんだよ」
字面こそ穏やかだが、その口調は荒く震えている。

父の言葉の意味が分からなかった。呼吸ができず意識が朦朧としていたのもあったが、何故〈こうすることが正しい〉のか、全く理解できない。

母に助けを求めようとした。声は出ないが、視線を母に向ける。母は床に座り込み、泣きながら「ごめんなさい」と連呼していた。父を止める様子はない。
――誰も。誰も、助けてくれない。

視界がちらついてきた。
酸素が足りず、首を絞める父の手を払う力も出ずに、レネの意識はかすんでいく。殆ど失神していた。虚ろになったレネの目を見て、父の表情が一瞬だけ、後悔の念に揺らぐのが見えた。

本能的に、緩んだ父の手を振り払った。ゴホゴホと激しく咳き込んだ後、幼い身体は無意識に父の体を押しのけて逃げ出していた。逃げなければ、離れなければ、殺される。死んでしまう。

ふらつく足を懸命に前へ出し、玄関へ繋がるドアに手をかけた。そのときだった。
「イリオスっ!! やるんだ、外に出すな!!」
父の怒号に、後ろを振り返る。すぐそこに母が追いついていて、悲鳴と絶叫が混じった雄叫びを上げながらこちらにナイフを振りかざした。

勢いよく振り下ろされた切っ先はレネの右肩を抉った。激痛と出血で床に倒れ、赤い飛沫が自分の顔にかかる。焼けるような痛みと、両親の表情。痛くて、悲しくて、もう逃げる気力はひとかけらも残っていなかった。
父が、転がる自分の上に再度覆い被さった。先ほどの緊迫した表情ではなく、悲哀と絶望に歪んだ顔をしていたが、眼差しは本来の優しさを取り戻している。涙で濡れている父の顔を、見上げた。

――ここで死ぬんだ。
レネは、そう確信した。何か、きっととんでもない間違いをしてしまったんだ。だから右目も治らなくって、お父さんたちは怒ってるんだ。幼い心には、そうとしか解釈できなかった。
父が両手をさしのべる。また首を絞められる、と反射的に身を強ばらせたが、大きくて暖かい両手はレネの頬を優しく包んだ。

「ごめんな、レネ」
母に追撃を命じた声とは全く違う、聞き慣れた声がした。
「その右目は、お父さんたちにもお医者さんにも……治すことはできないんだ」
「どうして……?」
「お父さんたちは間違いをしてしまったんだ。本当はそうするべきじゃないって分かってたんだ……けれど、そうしなかったら、レネはきっと生まれてくることができなかった」

間違い? お父さんたちが一体何を間違えたのか、分からない。見当もつかない。
「レネを……お母さんを、皆を、守りたかったんだ……本当なんだ、レネを殺したい訳じゃないんだ……」
父は目を伏せた。掠れるような声と涙がぽたぽた、降りかかる。
こんなに悲しそうに泣く父の顔は、初めてだった。この右目が赤くなったことは、すごく悲しいことなんだと察知した。
「ごめんな……皆を守るくらい、俺が強かったら……こんな、こんな事には……」
「イードル」
母が、父の名を呼んで肩に手を置く。母の目も涙で濡れていた。

父はゆっくり目を開き、母とレネを見る。悲しくも、優しい微笑がそこにあった。
「お父さん」
「……先に行って、待っててくれないか? お父さんたちもすぐに追いつくよ」
掌が、レネの柔らかい髪を撫でる。

父はよく頭を撫でてくれた。普段はあまり丁寧な撫で方ではなくて髪がぐしゃぐしゃになる。しかし、今日のこの撫で方はとても優しくてゆっくりとしていた。

4.


「すぐに行くからな。……愛してる、レネ」
父はそう言い、レネの頬に口づけた。頬は右肩の傷から飛び散った血液で汚れていたが、気にする様子はなかった。
そして、今度こそレネの首を絞めようと手を伸ばした、その瞬間だった。

勢いよく、レネの顏に温かい鮮血が降りかかる。父が吐血した。咳とともに真っ赤な血液が止めどなく溢れ出し、瞬く間に目や鼻からも血が流れ出した。
母は短い悲鳴とともに身を引く。レネも母も、父の突然の変化に理解が追いつかない。

「がは、」
短い声は、喉を逆流した血液の音でゴポゴポと濁っていた。止まるどころか、泡を立てて口角より勢いを増していく。呼吸がままならず、いびきに似た喘鳴ぜんめいとともに父は青白い顔を天へ向け――脱力してレネの上に倒れた。

大きい体躯がし掛かる。しかしレネも絶句して、頭が真っ白だった。押しのけることも声を出すことも、頭から消え去っていた。
「……イ、イードル! イードル!!」
父を揺さぶる母の悲鳴で、我に返る。
まだ温かい体は、ぴくりとも動く様子がない。母が仰向けに転がすように父の体をレネからどける。真っ白い顏と、口からこぼれ出た血で、紅白の鮮烈なコントラストを描いていた。

死。ようやく、その文字が脳に浮かぶ。
どうして? こんなのおかしい。夢だ。これは、悪い夢だ――

「レネ」
母の呼び声が、錯乱に陥る寸前のレネを引き戻した。父の返り血が擦りつけられた顔をこちらに向け、悲しく微笑んでいる。
「忘れないで。これは……これは、あなたのせいじゃない。お父さんとお母さんが、全部悪いの……」
全部悪い? どうして。今朝まで、みんな普通に暮らしていたのに――
「お母さんたちは、何をしたの……?」
母はかぶりを振った。
「レネ。私たちのことなんて忘れて、《その日》まで幸せに生きなさい。こうすることでしか、お母さんたちはあなたに謝れないから」
「よく分かんないよ。《その日》って何?」
身を起こし、母を問い詰める。返答はない。
代わりに、優しい抱擁が返ってきた。母の温かい身体に包まれて、すこしだけ緊張と恐怖がほぐれる。

ゆっくりと抱き返した。ずっとこうしていたい。母の胸の中でなら、この惨憺たる光景も生臭い血の匂いも、全部忘れて否定できるような気がした。
しかし、甘く優しい接触は長く続かなかった。おもむろに母は息子の身体を離し、左右で色の違う両目を見つめて微笑んだ。

「レネ。愛してる。どうか……幸せに」
額に口づけされた。先ほどの父がしたことと全く同じように、母は愛を伝えた。
そう、口づけの直後に息絶えた父と、同じことをした。

「おかあさ――」
既に、遅かった。母は父と同じようにレネの目の前で吐血して、うずくまったまま二度と動くことはなかった。


***


――誰か、助けて。お父さんとお母さんを治して。うちを、元に戻して。

気が付けば、玄関の戸を開けて外にいた。
誰かに助けを求めようと、街の方向へ歩く。涙が止まらなくて、嗚咽で呼吸が乱れていた。それでも歩みを止めてはいけない気がして、おぼつかない足を前へ前へと進める。
赤黒く汚れた脚。痛む右肩。自分はきっと、今血まみれなのだろう。
そう思った瞬間に、気がついた。

自分に誰かが触れたら、きっとその人は――

止まる。父も母も、この血に触れて倒れたのだ。この血は、この体は――

――だめだ。誰にも触れてはいけない。誰かに触れたら、きっと殺してしまう。
止まっていた踵を返す。街の方向に行ってはいけない。触れたら、触れられたらきっと、また同じことが起きてしまう。

一人でやらなくちゃいけないんだ。父と母を助けてくれる人を。自分を助けてくれる人を、一人で見つけなくちゃいけない。

七歳の夏の日。
レネは血に染まった家を出て、そして、二度と戻らなかった。


***


「レネ、愛してる」
両親の最期の言葉が、今も心に刺さって抜けない。

愛を示す口づけが。
自分と触れあうことが、人の命を奪うのなら。
自分は愛など受け取ってはいけない。愛されてはいけない。触れてはいけない。
誰かの命を奪うなら、愛なんて要らない。

杭のように刺さった愛の言葉が、心からずっと抜けない。

だが、この両手はそれを引き抜こうと、今でも必死でもがいて、


空を切っている。


5.

一通り話し終えたレネは、モルテの前で苦笑していた。

モルテと出会って一緒に旅を始めたころは、この過去を話すつもりなど到底なかった。幼い子供に話すには凄惨すぎる。それにこの願望は、他人から見ればあまりにも当たり前すぎるから。

人に触れられない。しかし、本当は誰かと触れ合うことを、愛されることを、まるで赤子のように欲していることなど、口に出すのは気恥ずかしかった。
だが、もうここまで来てしまったのなら最後まで話すべきなのだろう。フォスの術を受ける前、モルテに訊かれたあの問い――〈ここで呪いが解けたら、やりたいこと〉の答えを。

「……昔、両親と過ごしていた頃のように……」
あの日々はもう戻ってこない。自分の血に触れ、父も母もとうの昔に絶命した。それでも、昔のような生活を、再び送ることができたのなら――
「誰かを愛して愛される、そんな生活に……戻りたいんだ」
そう呟いて、自分を見つめる相棒の顏に気が付く。この話を切り上げるつもりで、小さく首を横に振った。

「すまない、くだらない願いだろう?」
苦笑が漏れ出る。目の前の相棒が、自分と出会う前にどんな人生を送ってきたのかレネは知らない。だが、自分自身を誇りに思い、心に確固たる芯を持つモルテの姿勢は、他者からこれまで愛を受け取っていなければ身につかないものだ。
そんな相棒は、愛に飢えてもがいている自分をどう見るのだろうか。

レネの正面で一言も発さずに座って聴いていたモルテの腰があがる。そのまま無言で前に立ち、座ったままのレネを見下ろした。
相棒の顔を見上げると同時、モルテはかがんでレネと同じ目線の高さで、その赤い瞳をこちらへ向けた。

「……くだらない?」
微かに、震える声。普段の様子とは違った、真剣な声色だった。
「愛して、愛されたいって……そんなの、当然の願いじゃないか……!」
炎の揺らめきが、モルテの頬に伝うものへ反射する。大きな瞳から、涙がこぼれていた。

「自分の夢を否定しないで!」

言葉が出なかった。
レネの予想を遙かに超えた相棒の反応に、なんと返せばよいのか。
「愛して、愛されることは当然の願いだ」と、今確かに相棒はそう言った。それは他ならない、レネのこれまでの旅路とこれからの道筋を肯定する言葉だった。

気がつけば、レネの両頬にモルテの指先が触れていた。フォスに頭を撫でられたあのときと同じく、温かく優しい感触が手袋ごしに伝わる。ぽろぽろと零れる涙を拭くこともせず、目の前の相棒は両手をレネの頬に当て続けていた。
「……分かったから、泣くな」
やっとの思いで返事をして、自分もモルテの指先に触れた。はめている黒い手袋の布地に、そっと触れる。

モルテと出会ったとき、魔導書を抱えるその両手は素手だった。無意識にレネの体液に触れてしまわないよう、万全を期すために相棒へ手袋の装着を依頼したことを思い出す。
誰かが自分に触れないように。誰も傷つけないように。だからこそ、距離を置く。そんな生き方を、この小さな相棒は否定してくれた。

「……ありがとう」
包むように、モルテの手に自分の手を添える。熱くなった目頭をそのままに、レネと相棒は、確かに視線を交わした。

「ううん、いいんだ」
モルテは小さくかぶりを振って、微笑する。
「……ぼくの方こそ、でしゃばってごめんね。きっと、きっと明日には……」
小さい頬へ涙が伝う。濡れた瞳がゆっくりと瞬きし、レネの視線からわずかに外れた。

そして、相棒は続けた。その声は、レネの心にわずかな曇りのような違和感だけを残し、消えた。

明日には、きっといつもの僕に、戻っているから。

6.

モルテの言ったことは正しかった。
一晩が過ぎ、朝日が差し込む室内。挨拶をした相棒は、すっかりいつもの調子を取り戻していた。普段通りの自信に満ちあふれた笑みをたたえ、長く伸びた紺色の髪を手際よく整えながら編み直している。

「……体調は大丈夫か?」
純粋に気遣う意図で声をかけた。しかし、相棒は訝しげな視線をこちらに返す。何のことかと言わんばかりの顔だったが、すぐに気がついたようだった。
「ああ、あれね。ごめん、心配かけた」
「いや、それはいいんだが」
咳き込む様子は辛そうだった。あれから入念に埃を払ったつもりだったが、この室内でちゃんと眠れていたのだろうか。昨晩の表情を思い返し、ひとかけらの不安と心配が積もる。

「忘れてくれる?」
「は?」
「昨日の僕が言ったこと。どうかしてた。レネのこと、困惑させたでしょ」
そんなことは無い。確かに困惑したと言えばしたが、自分としては昨晩のモルテが話したことすべてが嬉しかったのだ。涙とともに、自分の夢を肯定してくれた言葉。頬に触れた指先の温もり。お互いに交わした視線と笑顔。忘れろ、と言われてそう簡単に忘れられるものではないし、本音を言えば忘れたくなど無い。

「モルテ、お前何を言って……」
「思い出すだけでも恥ずかしいの! わざわざ言わせないで!」
そっぽを向かれる。髪をいつの間にか編み終えており、すっくと立ち上がってスタスタ歩き始めてしまった。
「ほらレネ、行くよ! いつまで経っても王城にたどり着かないよ!」
「あ、ああ」
腰を上げた。急かす相棒に、慌ててついて行く。
「何なんだ、全く……」

レネは未だに、この小さな相棒が考えていることが、理解しかねる。