永劫のアナスタシス(通常版)  第四章 Ⅱ

5.

意識の深層で、深く息を吸う。
――自我の奥底に揺蕩う、無意識と意識の境界線。
――深海のように深く、青く、静かな場所で、その子供は膝を抱えていた。

――目の前には、横たわるもう一人の自分・・・・・・・。その瞼はかたく閉じている。

「ねえ、起きてよ」
――眠りの中にいるもう一人の自分に、呼びかける。
「モルテ、起きて」
――震える声で、もう一人の自分の名前を呼ぶ。だが、目は覚めない。
「ねえ、モルテ。起きてくれないと……」
――赤い瞳から、涙が零れた。うつむいて、目尻をぬぐう。

「ぼく、どうしたらいいのか分かんないよ」
――涙が止まらなかった。ぬぐってもぬぐっても溢れる涙は、両手を濡らしてこぼれ落ちる。

「ねえ、起きないなら、目が覚めないなら……せめて、」
――か細い声で、眠ったままの自分へ乞う。嗚咽でうわずった息を絞り出し、その子供……〈カナール〉は、モルテへ願った。

「ぼくも、連れて行ってよ。モルテ」


ずっと、きみに出会ったときから願っていた。
もし、静かで穏やかな場所で眠れるなら。そしてそのまま二度と覚めなければ。
その眠りは、どんなに、どんなに素敵なのだろう。

覚めない眠りをくれるのなら。ゆっくりと〈ぼく〉を終わらせてくれるのなら。こんな肉体、いつでもきみに差し出すよ。

出会った日に、そう言ったじゃないか。
なのにどうして、きみが先に眠ってしまうの?

どうしてぼくを眠らせてくれないの、モルテ……?

6.

カナールは、本名ではない。

本当の名前で呼ばれた記憶が、カナールには無い。そんなもの、はなから存在しなかったのかもしれない。
カナールの名前は、自分が押し込められた家鴨あひる小屋が由来だ。両親は、小屋の家鴨も自分もひとまとめに扱って呼んでいた。家鴨カナールと呼ばれ、家鴨あひるを育て、家族が食いつなぐための卵や肉を捻出する。それが自分の役割だった。

二十羽の家鴨が絶えずひしめき合う狭い小屋の中で、家鴨と同じ寝床で寝て、家鴨と同じ餌を食べる。家鴨用の水盥みずだらいを掃除し、藁を整え、産んだ卵を母屋の玄関に置いて納品する。それの繰り返しで、カナールは育ってきた。
給餌は日に二度。親が小屋の戸を解錠して、入り口から餌をばらまく。それも家鴨がものすごい勢いでつつきあうので、カナールは餌がばらまかれたと同時に両手でそれを鷲掴みにして、立ち上がって、家鴨のくちばしが届かないところで急いで口の中に放り込むしかなかった。

骨に皮を張った、水分の抜けきった肌。
肩口で乱雑に切った、ぼさぼさの濃紺の髪。
磨く道具がないゆえに、黒くまばらに残った乳歯。
家鴨の羽と糞の痕がこびりつき、布切れと呼称した方がより正確なほどボロボロになった衣服。
あまりにも貧相な身なりだったが、カナールはどうでもよかった。

――いつか大人になったら、ぼくも母屋で暮らせる。明かりのついた部屋で過ごして、父さん母さんと同じものを食べて、寒い夜でもぐっすりと眠れて、そして、父さん母さんに抱っこしてもらって。頑張れば、ぼくだって愛してもらえるんだ!

根拠など無い、ぐらついた希望だけがカナールを支えた。
たとえ人間として扱ってもらえなくても、カナールにとっての父は父で、カナールにとっての母は母だ。親の腕に抱かれて眠る日を、カナールも欲していた。裏切りも、絶望も、憎しみも、カナールは知らなかった。まだ、幼すぎたのだ。

愛される未来を夢見て、カナールは来る日も来る日も一人で家鴨たちの世話をした。今は愛してもらう資格などないけれど。いつか、いつかきっと愛してくれる。

「そうだよね、皆」
縋るように呟いた小さい声は、家鴨たちの鳴き声にかき消されていくのだった。


***


寒い、冬の日だった。

この日の給餌の時間がやってきた。母親のものと思しき、せかせかした足音が近づいてくる。家鴨たちもそれを聞きつけてにわかに小屋内が騒がしくなるが、カナールは違った。

立てない。指先から体の芯まで、不自然な熱気が体内にこもっている。高熱にうかされた意識は微睡まどろみの世界を行き来し、気だるさが身体に蓋をしていた。
どうやら風邪にかかったらしい。薬どころか、必要十分な食事すらとれていないのだ、一晩で容体は急激に悪化していた。

それでも、どうにかして小屋の戸口に近づかないといけない。ここは小屋の隅だ。あまりにも遠すぎるから、戸口からばらまかれる食事のひと切れもつかめない。
這うようにして重たい身体を動かす。家鴨に踏まれそうになるが、なんとか振り払った。

いつものように、乱暴に戸が開けられる。残飯が入ったバケツを持って、母が立っていた。痩せこけて頬骨が目立つ顔は険しく、ぎょろりと大きい目がカナールを見下ろす。母さんと目が合うなんて、いつぶりだろう。嬉しさに思わず破顔する。
「かあさ……」
言い終わる前に、腹に重い衝撃が走った。一メートルほど吹っ飛んで、敷いてあった藁に身体ごと投げ出される。
痛みで胃が暴れまわる。カナールは床に這いつくばったまま、黄色い胃液を吐き出した。

咳き込みながら、理解する。
――母さんが、ぼくを蹴った。
「こっちを見るんじゃないよ」
久々に聞いた母の声は、信じられないほど冷たかった。
母は手に持ったバケツを振りまいて、中の食餌を家鴨にやる。ガアガアと騒々しい音が重なって、家鴨たちはめいめいに食事にありついた。
吐いても尚気持ち悪い。腹への衝撃だけではなく、心を抉るような視線が脳内にこびりついて、ぐるぐると渦巻いていた。
母は、確かに自分に冷たい。けれど、殴ったり蹴られたりなんて、一度もなかった。会話をする機会こそ年に一度あるかないかくらいだが、それでもこんな仕打ちを受けたのは初めてだ。

「母さん、どうして」
動けない。もう一歩も動けない。その間にも家鴨たちはくちばしをせかせか動かす。床の食事が、御飯が。みんなに食べられていく。
「黙りな! こっちに近づくんじゃない。あんたは家鴨の世話をしてればいいんだよ」
床の食事が、減っていく。欠片も残らず、消えていく。胃液を出して空になった胃が、体内で叫んだ。

7.

――お腹がすいた。食べたい。
生物としての本能が叫んでいた。胃液で刺激された口腔内が、唾液で潤っていく。まだ、母の持っているバケツには少量の食餌が残っている。ひとつかみでもいい。少しでいいから。

「なんだい、この汚い小屋は。掃除さぼってるんじゃないだろうね」
――ひと口で良いんだ。ぼくにもちょうだいよ。

家鴨あひるの世話もできないなんて」
――その中身を、ちょうだい。

「本当にお前は、役立たずだ」
――ちょうだいよ。

「カナール! 聞いてるのかい!?」
――よこせ。
「おいカナール、
「よこせ!!」
自分でも信じられないような大声を張り上げ、カナールは吠えた。

その瞬間、強烈な緑色の閃光が自分の周りを包む。あまりの眩しさに目を閉じると、鋭い轟音が鼓膜を刺した。突風をいくつも重ねたような風切り音が鳴り響く。
視覚も聴覚も奪われ、目の前の事象が理解できずにうずくまった。理解が追いつかずに混乱し――

数秒が経過し、突然、閃光と轟音がふっと止んだ。水を打ったような静けさが戻り、先ほどの事象など最初からなかったかのように、無音の世界が訪れる。

「え……?」
静かすぎた。カナールの声が、小屋の中に響くほど。
そこにいたはずの家鴨たちも、母も、二度と喋ることはない。小屋の戸口には赤黒い血液がべっとりと滴り、床と壁を覆いつくしていた。

宙には羽根が舞い飛び、音もなく床の赤に白を落とす。切断を免れたバケツが、べこべこに凹んだ状態で戸口から外の方向へ転がっていく。緩やかな坂を下りて石にぶつかり、カラン、という音が静寂を打った。

高熱と乱れた呼吸で意識が霞む。抵抗する理由はない。身体の防衛本能に素直に従い、カナールはそこで眠った。


***


――今日、ここで、ぼくは死ぬんだ。

家鴨小屋の片隅で父に殴られながら、カナールはそう思った。
父の暴力に、カナールは一切の抵抗をしなかった。されるがままに髪を掴まれ、腹を蹴られ、頬を殴られた。
全身いたるところに痛みを感じ、もはや感覚が麻痺しても尚、重い衝撃が身体を突く。それでよかった。そうされるべきだと、カナールは思っていた。

それは、父が自分を殴る理由が明確だったからだ。
家族が、給餌に行ったままいつまでも戻ってこない。案じて様子を見に行くと、家鴨小屋は赤い血液にまみれていた。二十羽の家鴨は母と共にずたずたに引き裂かれ、全滅している。そんな凄惨な現場でカナールだけが無事なのだから、犯人はカナールに決まっていた。

――愛される? そんな資格、なかったんだ。

家鴨を育てる。その役目も果たせず、愛すべき家族も衝動で殺してしまった。
愛される理由が、どこにある?
愛を受ける資格が、どこにある?

ない。そんなもの、最初から存在しなかった。
母の、めつける様な瞳。父の、筆舌に尽くしがたい罵声。
それが真実を物語っていた。

愛されない、醜い子供。それが自分。
それならば。自分の衝動もコントロールできず、周囲を殺戮の波に沈めてしまうのなら。それならば、自分なんて死に絶えたほうがみんなのためだ。

父が、髪を掴んでカナールを持ち上げる。同じ高さで目線が合うが、血走った父の目は憤怒の念で吊り上がっていた。何発目かもう分からない拳が振り上げられる。目を瞑るのも面倒になり、カナールは茫洋とその拳を見つめていた。

しかし、その拳はいつまで経ってもカナールに触れることなく、おもむろに脱力して垂れ下がった。拳だけではない。カナールの髪を掴んでいた手も脱力し、父はカナールごと床へ倒れこんだ。

「え?」
身を起こして、父を見る。背中がばっくりと切り開かれ、赤い鮮血が飛び散っていた。顔をよく見ると、青白い色をして固まっている。

――死んでいる。でも、どうして?


8.


「安心していい。これは君の所為じゃない」

頭上から、しわがれた声が降ってきた。
咄嗟に見上げると、父の遺体の背後に、老人が立っていた。褐色の肌、白い髪、痩せこけた頬。母とは違い、頬骨の上に象られた瞳は優しい微笑を湛えている。
「最初に確認しよう。この小屋は、君がやったのか?」
穏やかな話し方。今まで聞いたことのない優しい声に、カナールは思わず頷いた。
「気が付いたら、こうなってた」
「そうか。それは……それは、よかった」
老人はカナールの返事を聞き、心から満足したように何度も頷いている。

――なんなんだろう、この人は。
カナールは首をかしげて訝しむ。優しそうな雰囲気だが、あまりにも場にそぐわない事ばかりを言う。服装を見るに、この地域の人ではない。腰から短剣を提げ、大きな麻袋を背負っている。旅人だろうか。

老人を凝視していると、彼は続けた。
「私はね、君のような人を探していたんだよ。君はまだ若い。残された時間もたっぷりある」
「時間?」
「そう。私は、モルテ。モルテという」

モルテ。死神。
――変な名前。
カナールはそう感じた。自分の呼ばれ方もたぶん変だが、自ら死神なんて名乗る老人は確実にもっと変だ。死神だから、この血みどろの小屋を見ても驚かないのだろうか。そこまで考え、カナールは気が付いた。

「モルテさん。ぼくを迎えに来たの?」
――ぼくは死んだのか。父さんに殴られて、そこでようやく死んで、この人はぼくの魂を刈り取りに来たのか。
老人は、否定しない。穏やかな目を細めて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そうとも言える。きみは、死後の世界に魅入られているようだね?」
魅入られているわけではない。だが、生者の世界に居たくないのは事実だ。イエスかノーかでいうなら、イエスの部類に入るのだろう。俯いて、カナールは老人の問いに肯定する。
「……ぼくは、もういない方がいいんだ」
「僥倖だ。私は君の願いを叶えることができるようだね」
老人は呟くと、麻袋から分厚い本を取り出し、差し出した。茶色の地に、金の装飾があしらわれている。古そうな本だが綺麗だ。

「この本を、君に托そう。受け取ってほしい」
意味が分からなかった。これから死後の世界に行く人に、本なんか渡してどうするというのだろう? それに、自分は文字が殆ど読めない。本なんか貰っても意味がない。

「この本は、君の願いを叶えるものだ。これは私の核にして魂。死神の魂を受け継ぐ依り代として、君の身体は昇華する」
「……どういう、こと?」
「瞬く間に、穏やかに、眠るように、君の存在は消える。君の魂は解れ、身体は私の血肉になる。もし君が消えたいと願うなら、穏やかにこの世を去ろうと思っているのなら。この本を受け取りなさい」

細い褐色の指が、本を握っている。カナールへ差し出されているそれは、魂を穏やかに消し去るのだと、モルテは言った。
さっきから、この老人の発言は信じられないことばかりだ。けれど、嘘か誠か証明できない甘言すらも、今のカナールには魅力的だった。

――消えることができるのなら。穏やかに眠れるのなら。
――それなら、どんな毒だろうと受け取れる。
「……分かった」
カナールは息を飲み、本を手に取った。ずっしりと重みを感じる。おもむろに表紙を捲ろうと指を伸ばした瞬間、金色の光が本から溢れ、カナールを照らして飲み込んだ。


***


気が付くと、カナールは藍よりも深い蒼の空間に立っていた。海の底よりも暗く、夜明け前の空よりも静かな、穏やかな眠りに似た静謐な空間だ。

その空間の目の前に、自分がもう一人立っていた。鏡では無い。背丈も、髪型も、顔つきも同じ。ただ唯一違うのは、カナールは赤い瞳であるのに対しもう一人の方は金色の瞳であることだ。その金色の瞳を見開いて、狼狽した様子でもう一人の自分はこちらを見つめていた。

「どう、して」
動揺で、声色が揺れている。
「どうしてお前は消えないんだ……? まさか、それほどまでに、魔力が」
もう一人の自分は、奇異の視線をこちらに投げかけている。どう見ても外見は自分なのに、そこから紡がれる言葉はまるで別人のものだ。この語り口は、先ほどの老人にそっくりだ。もしかして、これが〈モルテ〉なのだろうか?

カナールは首を傾げた。モルテは、本を受け取れば穏やかに魂が消えると言ったはずだ。なのに、自分はまだここに存在している。
――ぼくは本を受け取って、消えたんじゃなかったの?

「抵抗しているというのか? おとなしく私に吸収されろ!」
モルテの目がきっとつり上がり、こちらに近寄る。威圧感に思わず身を引いて、首を横に振った。
――違う。抵抗するつもりなんてない。
「なにも、してないよ。抵抗もしない。君に全部あげるから……ぼくは、ぼくなんて消えた方がいいんだ」
言葉に偽りは無い。心から、そう願っていた。死神に身を預け、魂を刈り取られて、それで終わると思っていたのに。どうやら、死神にも想定外の何かが起こっているらしい。

「こんなこと、初めてだ……。私を手にすれば、所有者の魂は消滅し吸収されるはずなのに……」
モルテは押し黙った。困惑と熟考が混ざった複雑な表情をして、しばらく口を閉ざしていた。やがて、言葉を選ぶように、慎重にモルテが語り始める。
「……非常に遺憾だが、君の魔力は私の制御を超えているらしい。私は禁忌の書だ、所有者の魂を消し去り身体を自らのものとする性質を持つ。……しかし、どうやら君は例外らしい」

例外、と言われても困る。好きで例外になったわけではない。魂を消し去ってくれるのならそうしてほしいのに、どうやら意図しない重複が起こってしまったようだ。
「……ぼくは、どうすればいいの……?」
眉尻をさげて尋ねるカナールに、モルテは返答した。
「時間をくれ。我々の目的は一致している。時間がかかるが、必ず君の魂を消滅させ、穏やかに眠らせてやる」

その言葉に、カナールは心から安堵した。
魔力なんていらない。いのちも、からだも、魂ももういらない。このモルテという変な本が欲しているのなら、喜んで全部差し出すつもりだ。

この生に、きっと意味などなかった。
父と母を裏切った。母も父も、自分を疎んでいた。家鴨の世話という義務も果たせず、いたずらに殺めてしまった。
そんな存在に、なんの意味があるのだろう。

「わかった。そのかわり……すこし、眠らせて」
カナールはその場に座り込み、膝を抱えた。両脚に額をのせ、うつむく姿勢で目を閉じる。ここで静かに最期の時を待つことができるなら、そうしたい。
「モルテ。よろしくね」

――いつか。いつかきみがもっと強くなったら。

――ぼくを眠らせて、二度と醒めないようにして。


――もう、何も要らない。何も要らないから、全部、あげるよ。

9.

カナールは目を開けた。
静かな森林の中で、樹を背もたれ代わりにして座っていた。冷たい風が頬を撫ぜ、長らく眠りの世界に落ちていた意識を現実へ呼び戻す。
――風だ。
久々の感覚だった。モルテに身体を委ねてから、基本的にカナールは意識の奥にいた。モルテが不調になってから瞬間の単位で自分が表にでることはあったが、こんなにゆっくりと己の身体で、風を、空気を、音を、匂いを感じ取ることなんて久しぶりだった。
たしか、気を失う前はモルテが小さい教会の吹き抜けで大蜘蛛と魚の群れを倒していたはずだ。しかし、今は一面に広がる草と森が広がっている。記憶にない場所だ。

――モルテ。モルテ、聞こえる?
カナールはもう一人の自分に問う。しかし、応答はない。
絶望するほどの静けさが返ってくる。いつまでたっても、モルテの気配を感じられない。出会ってからずっと、この身体を牽引してくれていたモルテが、とうとう、倒れた。倒れてしまった。

――モルテ。ぼくを見捨てないで。
リヴァーディアに踏み込んだあたりから、時々モルテの意識が途切れて自分が表に出ることはあった。今思うと、リヴァーディアの魔法障壁を通過したあたりから、少しずつ呪いが自分たちも蝕んでいたのだと思う。

フォスを葬った後くらいからだろうか――モルテの様子が変化しつつあることを、カナールは察知していた。モルテは決してレネには見せまいと意地を張っていたようだったが、この数日で遂に限界に達したらしい。表に出ている時間が長かったせいか、それともモルテが人間ではないからなのか……モルテはカナールよりもレネよりも、ずっと早い速度で身を削られていたようだ。
モルテは、自分を「見捨てた」わけではない。二つ目の魂が途絶えたことで、魔導書を入手する前の状態に戻っただけだ。それは頭では理解している。だが、自分の消滅と眠りを導いてくれる存在が、どれだけ有難かったか。まるで、心に大きな空洞ができたようだった。空の心がぎゅっと縮んで、胸を締め付けた。
カナールの目に涙が浮かぶ。涙をぬぐおうとしたところで、自分の手の中に何かが握られている感触を覚えた。
小さい紙だ。レネの筆跡で、文章が書かれている。

***

「お前の大切なものを取り返してくる。
もしもお前がこれを読んでいて、俺がそばにいなかったら、俺のことも呪いのことも、オウルムのこともすべて忘れて今すぐに来た道を引き返してほしい。

まだ、お前の呪いは初期状態だ。俺の紋様はリヴァーディアに入ってから加速度的に広がったが、裏を返せば、リヴァーディアを離れさえすれば進行が緩やかになるはずだ。

お前がどんな過去を持っていて、どんな未来を望んでいるのかも知らない。だけど、俺みたいに未来が呪われる前に、どうかここを離れてほしい。
巻き込んですまなかった。本当は俺一人でここに来るべきだったんだろう。お前の聡明さを利用して、ここまで連れてきてしまったのを本当に後悔している。
できることなら、お前のことをもっと知りたかった。ここまで一緒に来てくれてありがとう」

10.

変わり者。
それが、カナールがレネに対して抱いた第一印象だった。モルテが探し求めている「オウルム」を長年身に着けていながら、リヴァーディアのことを何一つ知らなかった男。隙が無くて、淡泊で、他人にあまり興味を持たない男。

レネは、今までのモルテの同行者とは一線を隔していた。今までの同行者は勝手にこちらを「仲間」や「相棒」と呼び、親切なふりをして搾取してくる大人たちばかりだった。モルテは彼らを一切信用しなかった。少しでも不審なそぶりが見えたら、容赦なく魔法で切り捨てる。仲間が増え、裏切られ、切り捨てて、一人になって。モルテはそんな残酷なサイクルを繰り返して、旅を進めていた。

だから、最初はモルテもカナールもレネのことを信用していなかった。リヴァーディアに関する情報を一通り聞きだされたら、どうせまた搾取されるのだろうと思っていた。しかし、レネはそんな態度を一切見せなかった。
こちらとつかず離れずの距離を保ち、自分たちをただの同行者と割り切って接してきた。彼がなぜそんな態度をとったのか、理由が分かったのはリヴァーディアに入ってからだった。

――レネは、きっと、怖かったんだ。
大切な人ができるのが、怖かった。呪いが大切な人を傷つけるのが、怖かった。大切な人が喪われるのが、怖かった。亡くすくらいなら、最初から生み出さなければいい。だから、レネは自分たちと距離を置いていた。

フォスを葬った翌日の夜、星空の下でレネが語った過去。凄惨な話を、モルテもカナールも聞いていた。喪う怖さを内包しながらも、心の奥底では、大切な人を求めている。愛を求めている。だから、「呪いが解けたらどうしたいか」とモルテが訊いた時に、「愛して愛されるようになりたい」と答えたのだ。

愛なんて要らない。レネはそう話していた。
かつて、母が死んだ家鴨小屋で父に延々と殴られていたカナール自身も、同じことを考えた。衝動的に暴力を振るってしまった自分を恨んだ。こんな自分は愛される資格など無いと、本気で思っていた。
ただ、それでも。それでも、魂の奥底では愛を求めていた。父の手のぬくもりを、母の優しい眼差しを、レネもカナールも求めていた。愛なんて要らない。それでも、愛してほしい。愛せるように、愛されるようになりたかった。

レネも自分も、同じだった。必死にもがいて、何もつかめない手が空を切って、それでもあがくことをやめたくなかったのだ。

――ぼくたちは、愛を求めてもいい。
――ぼくも、ぼくも同じなんだよ。レネ。

***

「なに…… なに、これ……」
カナールは、レネの手紙をぐしゃりと握りつぶした。

――忘れる? 何を言ってるんだ。 ぼくはともかく、モルテが「忘れる」ことなんてできないって、言ったじゃないか。そんな無理難題を、ぼくたちに押し付けないで。まるで今までの旅を全部否定するようなこと、言わないでよ。

「嫌だ……」
忘れるなんて、嫌だ。引き返すなんて、嫌だ。
ここで引き返して、一人に戻るなんて、
「いやだ……!」
諦めたくない。ここで踵を返して、モルテともレネともお別れするなんて、そんなことしたくない。

だって、まだ伝わっていないじゃないか。レネの過去を聞いたあの夜、ぼくが、モルテじゃなくてぼく自身が言い放った言葉が、レネにはまだ伝わっていない。

自分の夢を否定しないで。諦めないで。
レネは、ぼくは、きっと、愛を求める資格があるんだ。愛されていいはずなんだ。

「……待ってて、レネ」
ぐしゃぐしゃになった手紙を、破り捨てる。空いた右手で涙をぬぐい、カナールは前を見据えた。

その赤い瞳に、決意を湛えて。