永劫のアナスタシス(通常版)  第四章 Ⅰ

1.

やわらかな風が、レネの髪とマントを優しく撫でた。帰路の歩みを少しだけ止めて、風上の方向を見る。
静謐な湖畔の水面が、斜陽に輝く山脈をくっきりと反射していた。時折風がそよいで水鏡が揺れ、光がきらきらと波状に煌めいている。ここはちょっとした穴場なのだと、三日ほど前に酒場の主人が話していたのを思い出した。

美しい光景を眼前にしても尚、レネの心は晴れなかった。誰かが見聞きしているわけでもないのをいいことに、独りで深くため息をつく。
一人で旅に出てから、もうずいぶんと長い年月が経っている。いつしか大きくため息をつくことも、日常と化していた。

訪れていたのは、魔石を祀るとある村。交渉に交渉を重ねてなんとか魔石を見せてもらおうとしたが、「部外者には見せられない」と一点張りの姿勢を崩せなかった。村の奥地に眠っている巨大な魔石の情報は得られず、そして自身の呪いにたどり着く情報も得られず、二日を費やした苦労は水の泡と消えた。

次は何処に行こうか。村全体を覆うほどの強大な力を放つ悪魔の噂、砂塵に埋もれた遺跡に眠る魔器の噂……。呪いに繋がる有力そうな噂はないが、ひとつひとつ虱潰しにあたっていくしかないだろう。
思案しながら歩いていると、遠くから声が聞こえた。

「返して! 返してよ!」
高く幼い、緊迫した声だ。思わず振り返る。
木の陰から垣間見えたのは、三つの人影。二人の屈強な男、もう一人は紺色の長髪を三つ編みにした子供だった。子供の髪は、屈強な男の一人が乱暴に掴み高々と持ち上げていた。子供のつま先は地面から離れ、動きを拘束されている。

――山賊か?
幹に身を隠し、視線だけ三人を追う。村へ発つ前に、この近辺は山賊がうろついていると聞いていた。
腰に提げた武骨な短剣。それになによりも子供へ乱暴に掴みかかっているところを見ても、そうとしか思えない。山賊とおぼしき男は、剣を抜いて子供のものらしい鞄を取り上げていた。
あまり猶予がある状況には思えない。幸いなことに、三人ともこちらには気づいていない。周囲を確認するが、他に人影は見当たらなかった。

レネは音を立てないよう慎重に、長剣を鞘から引きぬいた。間合いを見定め、静かに地面を蹴る。
男は二人いるが、先に狙うべき方は明白だった。子供の髪を掴んでいる方の背中へ駆ける。男が振り返る瞬間よりも先に、レネは切っ先を振り下ろしばっさりと背を切り伏せた。
男が脱力し子供を解放する。仲間が斬られた瞬間を目撃したもう片方は、小さい悲鳴を上げて子供の荷物をもったまま逃げ出した。

「待て!」
「あ、ちょっと!」
山賊から解放された子供がこちらを呼びかけるが、レネは気にとめず追跡した。

もう一人の山賊は、右手に鞄を持ったまま全力で逃走している。しかし、脚の早さならばこちらの方が上だ。
暫く走ると徐々に間合いが詰まる。刃が届く距離まで来たことを確信すると、躊躇うことなくレネは地面を踏み込み跳躍した。剣を振り上げ、そのまま落下の勢いに任せて斬りかかった。山賊は倒れ、その拍子に鞄の中身が転がり出る。
分厚い本だ。茶色の表紙に金の装飾があしらわれた、重厚な装丁が宙を舞う。放り出されたそれは中の頁をさらけ出し、開いた状態で地面に落ちた。

山賊は痛みにうめきつつ、二人とも地に伏せている。これ以上襲撃はしてこないだろう。レネは剣を軽く拭い鞘に納めた後、子供の荷物と本を拾った。
頁には複雑な陣形と解説文がつづられている。魔導書のような印象だ。中身が目に入ってしまったが、人のものをまじまじと読み込む趣味はない。
手早く本を閉じて土埃を払っていると、後ろから先ほどの子供がやってきた。

「怪我はないか?」
振り返り、鞄と魔導書を返却する。子供は受け取り、こちらの返事も忘れて魔導書の状態を確認した。ぺらぺらとめくり目立った汚損がないことを確認すると、安堵したように胸に抱えた。
「よかった……大事な物だったんだ、これ」
子供はこちらを見て、夕焼け色の瞳を細めて微笑んだ。赤から橙を経て金色へ至るグラデーションが美しい。
「取り戻してくれて、ありが――」
言葉の途中で、微笑が曇る。何かに気がついたように、笑顔が一変して真剣な面持ちになった。
「ねえ、それ! オウルム!?」
「は?」

聞きなれない単語に、レネは顔をしかめた。どこを指して『それ』と言っているのかも見当がつかない。対して、子供は前のめりに顔を上気させて、こちらへ詰め寄ってくる。
「その金色の耳飾り! よく見せて!」
どうやら、『オウルム』と形容した対象は左耳の耳飾りらしい。幼いころから着けていた、父と母からの贈り物。よく見ようと、子供がレネの左側に回り込む。
「……やっぱり本物だ……」

なんなんだこいつは、とレネは喉まで出かかった。おおかた魔導師というのは好奇心が服を着て歩いているような奴が多いが、この子も例外ではないらしい。子供はまじまじとレネの左耳を凝視つつ、手を口元に当てて熟考していた。

「オウルムが実在するなら、リヴァーディア・・・・・・・は本当に……」

――リヴァーディア?
聞き間違いではない。はっきりと、リヴァーディアと、この子はそう発言した。それは、父が最期の日に口走った単語。人名なのか、病名なのか、地名なのか、何も分からずにずっとレネの心にし掛かっていた魔の単語だ。

――こいつはリヴァーディアについて、何か知っているのか?

レネがつけている耳飾りと、リヴァーディアに何らかの関連があるのなら。レネの呪いや両親が発した言葉とも、関連がありそうだ。訊き逃すわけには行かない。これは、好機だ。
「「リヴァーディアについて、何か知って……」」

気が付いて、二人とも口をつぐむ。まったく同じタイミングで、まったく同じ言葉を口にしていた。

***


それが、モルテとの出会いだった。
大森林の奥に潜む、幻の地――リヴァーディア。数冊の文献に記されたその地には、魔術の触媒として有用な希少鉱石「オウルム」が眠っていたとされている。

モルテはオウルムを求めて。
レネは呪いのヒントを求めて。
リヴァーディアという呪われた王国が、奇しくも二人を結びつけたのだ。

2.

左腕と両脚は、悲鳴を上げていた。
アネモスに噛みつかれた四肢は深い咬傷が刻まれていた。治癒魔法を使えるモルテは目覚める兆しがなく、今もレネの背中で深い眠りに落ちている。

イスキオス・アネモスを弔う時間はない。服を手早く乾かしたのち、レネは王城へ向けてすぐに発っていた。負傷した箇所の処置すらも行わず、相棒を背負ってがむしゃらに北を目指す。痛みなど気にする暇はなかった。それどころではない。

――どうして、どうしてモルテが。
呪いを受けるいわれなんて無かったはずだ。モルテはリヴァーディアとは無関係だ。
第一、国の侵略が起こったのは俺が生まれる直前の話だ。どう見ても自分より年下のモルテは、この国が滅んだ後に生まれたはず。おかしい。あり得ない。

――モルテが呪われるなんて、そんなこと、絶対に……!
怒りと焦燥で、足だけが前へ行く。雨は止んでいたものの、倒木や濡れた草葉で足場の悪い森林は、レネの足を何度ももつれさせた。ブーツの底が滑り、がくりと体勢が崩れる。なんとか踏ん張り、モルテが落ちないようにだけ注意を払ってしっかりと姿勢を正した。
モルテは目を覚ます様子がない。はやく呪いを解除しないと。早く王城へ向かわないと。
――このままじゃ、モルテの身体が……!

正したつもりの姿勢で歩き始めて数歩、激痛に喘いだ両脚から力が抜けた。意図せずレネは膝をつき、転げるように地面へ倒れこむ。モルテは背中から放り出され、横向きに落ちた。
幸いなことに石や倒木に当たった様子は無い。しかし、モルテは尚目を固く閉じたままだった。慌てて抱き起こそうと手を伸ばしたとき、鞄から魔導書が飛び出ているのに気がついた。湿った草木に、魔導書の表紙が触れている。

四つん這いの姿勢のまま、あまりの情けなさにレネは項垂うなだれた。
自分の呪いを解くどころか。相棒の異変にも気づけず、身体も、生命も、何も守れていない。ましてモルテの大事な魔導書すら、こうして地面に投げ出してしまっている。

「何を……やってるんだ、俺は……」
地面に置いた拳を固く握りしめた。深く息を吐き、かぶりをふって起き上がる。悔しがっている暇は無い。早く魔導書を拾って、モルテをまた背負わないと。

そのとき、耳に草木が揺れる音が届いた。
ただの風では無い。明らかに一つの方向から、大きくがさりと草が揺れた。獣が近づいているときの音に似ている。
あたりを見渡すと、薄桃色の細長い何かが草の間を張っていた。立ち上がって短剣を抜き、右手に構える。蛇と動きが似ているが、それにしては珍しい色だ。
そのとき、薄桃色が草の間から姿を表して先端をもたげた。

それは人の腕ほどの直径をもつ大きな蚯蚓みみずであった。薄桃色の先端はなめらかに丸く処理されており、湿った光沢に包まれている。あまりにも長い体長は草の影に隠れ、見えない。
蚯蚓はレネと対峙し、不意にモルテの魔導書の方へ進む。レネの短剣が振り下ろされるよりも先――そのまま魔導書を己の体で器用にくるむと、目にもとまらぬ早さで後退した。

「待て!」
剣を持ったまま、レネは追いかける。しかし蚯蚓の動きはあまりにも早かった。視界から見る見るうちに遠ざかり、瞬く間に影を消してしまった。


***


両脚は疲労と痛みで思うように力が出せず、呆然と立ち尽くす。

魔導書を、奪われた。
明らかにただの蚯蚓みみずではなかった。大きさもそうであったが、動きに明確な意図があった。だとすれば、あれは魔物ということになるのだろうか。
フォスも、アネモスも、イスキオスも、怨嗟や悲哀の感情は自分に向いていた。モルテではない。どうして自分ではなく、モルテの、それも魔導書を狙ったのか分からなかった。

――もしかして、俺達を呼んでいるのか?
レネは下を見つめて、そう考えた。地面の草にくっきりと残された、蚯蚓が這った痕。摩擦で倒れた草は、蚯蚓が去った方向を明確に描写していた。これをたどれば、容易に魔導書の追跡も可能だろう。

特定の場所におびき寄せるための強硬手段として持ち物の強奪を選んだのなら、この行動にも説明がつく。蚯蚓の身体でも持ち去ることができ、代替の利かない貴重な物――それに合致するのは、モルテの魔導書くらいだ。

――罠、なんだろうな。
短剣を鞘に納め、俯いた。特定の場所に呼び寄せ、自分に有利な場所でじっくりと復讐する。父と母に裏切られたリヴァーディアの騎士ならば、そう行動したとしても不思議ではない。
だが、罠だと分っていても進まなければいけない理由があった。モルテと最初に出会ったとき、魔導書を奪還した時の仕草が記憶に焼き付いていた。大事そうに胸に抱え、夕焼け色の瞳で微笑する、あの仕草が。

このまま、奪われたままにはできない。

レネは横向きに倒れたままのモルテを抱き起こし、近くの樹にもたれかかるように座らせた。頬についた、濡れた草木を指でつまんで取り除く。
脈も呼吸も乱れはない。モルテは生きている。まだ、生きている。

深く息を吐いた後、レネは閉じられたモルテの瞼を見つめて、言った。
「モルテ、行ってくる。お前が大切にしているものを、取り返してくる。もし、俺が――」
途中まで言いかけて、口をつぐんだ。その先の〈もし〉まで口に出してしまえば、それが現実にやってくるような気がして、怖かった。

けれどこの先、自分が戻ってくる前にモルテの目が覚めたら。
一人で大丈夫、と言わんばかりの姿勢を見せるが、それが本当の顏ではないことをレネは知っている。相棒は、こいつは、本当はもっと弱くて繊細な奴だ。目覚めたときに一人なら、不安がるだろう。

少し迷ったが、レネはモルテの右手に小さい紙片を握らせた。家の中で拾った日記帳の、空白の頁を拝借したものだった。
そっと手を添え、モルテの小さい指を曲げる。これで目が覚めたときに、気が付くだろう。

「……行ってくる」
レネは立ち上がり、振り返らずに歩き出した。
たとえこの身が呪われていようと。相棒の未来すら呪われていようと。


――俺達には、まだ抗うだけの時間がある。

3.

蚯蚓みみずが這った草の跡を追うと、森を抜けた。久々に樹木以外の風景を目にしたが、そこは低い崖と草木で隠れた、小さい洞窟の入り口だった。土にくっきりと残された這い痕は、たしかに洞窟の中へと進んでいる。

確信する。蚯蚓の魔物に、意図的に誘導されていると。
だが、レネの決心は揺らがなかった。ここで引き返すなど、ありえない。モルテの魔導書を奪還するまでは、踵を返さないと決めているのだから。

中へと足を進めると、中は奥に行くほど狭くなっていた。手持ちの小型ランタンが、むき出しの岩石をか細く照らしている。徐々に低くなっていく天井に注意しながら進むと、一気に開けた空間に出た。
「なんだ、これは……」
明るく、広い空間だった。先ほどまでの、土と岩石で覆われた壁は何処にもない。代わりに四方を覆っているのは、赤々しく潤んだ、肉だった。
生暖かく湿った空気にせ返る。天井も、壁も、床すらも、血色の通った肉の内壁で囲まれている。胃袋の中を彷彿とするような空間だった。いつの間にか巨大な生物に丸ごと食われたかのような、そんな錯覚に陥りそうだ。

内壁の四方に、先ほどの蚯蚓が這っていた。一匹ではない。足元も、横も、上すらも、数えるのも嫌になりそうな大量の蚯蚓が奥へ体を伸ばしている。太さがまばらな蚯蚓たちをこの狂気の空間で見ると、まるで蠢く動脈を見ている気分になる。
彼等が這う先は、空間の奥のある一点へ集結していた。数多の蚯蚓がそこで束ねられて合流し、一本の太い組紐の様相を呈している。組紐の中心部から上半身を突き出したかのようにして、その人物は漂っていた。

長い黒髪の人物だ。顔面は横方向にひびが割れており、両目があるべき部分に青い亀裂が走っている。薄い唇から象られた微笑が目立った。
血の通わない白い皮膚、あばらが浮き出る薄い胸板。そして、ぼこぼこと隆起した腹部は下へ行くにつれ白色から薄桃色のグラデーションを描いて、蚯蚓の集合体へと変化していた。人物の両手に、モルテの魔導書がある。こちらの視線など気にも留めずに、長く病的に細い指で内部の頁をおもむろに繰っていた。

その指が、ふと、止まる。
「……初めまして。いや、おかえりのほうが良いかな?」
低く、感情の起伏のない男声だった。静かな声色だが、あたたかくも冷たくも感じる、不思議な喋り方だ。
おかえり。その挨拶は自分に相応しくない。こいつも自分と母を間違えている。
「違う。俺はイリオスじゃ……」
「知っているさ」
レネのため息混じりの言葉を遮り、男は続けた。

「君はイリオスとイードルの忘れ形見だ。君と、君の母親の髪色は、リヴァーディアでは特異なんだ。同じ色の髪を靡かせている姿を見て見間違えるのも無理はない。仲間の無礼をどうか許してくれないか」
正直、意外だった。これまでの魔物はどれも理性が正気から逸脱し、眼前の事象を正しく認識できていないようだった。黒い厄災の呪いは、対象の身体だけではなく心や認識も歪めてしまうのだと、そう思っていたが。
――話の通じる魔物も、いるのかもしれない。
「……その本を返してくれないか。それは相棒の、大切なものだ」
「大切な物? そんなに回りくどい言い方をしなくても良いだろう。素直に言えばいいじゃないか……これは、」
男の口元が、薄ら笑いの形に引かれる。勿体ぶった間の置き方をして、男は静かに、そして信じられないことを口にした。

「この魔導書は、相棒の魂そのものだ、とね」

「何……?」
「ああ失敬、君は知らなかったのか。意思を持つ魔導書――聞いたことはないか?」
意志を持つ武器の噂は、これまでの旅で何度か耳にしたことはあった。しかし実物に遭遇したことはない。御伽話や伝説の一種だと思っていた。その魔導書がモルテの魂そのものだなんて寝言、素直にそうですかと信じられるものか。

「適当な嘘を言うな。根も葉もないことを吹聴して何になる」
「実際に、見て確かめてみるがいいさ」
男はそう話すと、下半身から伸びる蚯蚓の一本に魔導書を託した。細長い身体は魔導書をくるんでレネの方へ伸びる。レネは魔導書を軽く引き抜いて、ゆっくりと表紙を開いた。
遊び紙を捲り、目次を繰る。本文へ行く前に、目次の段階から、すでに様子がおかしかった。

「……文字が……」
目を疑った。モルテと出会った日、魔導書を山賊から奪い返したときに、偶然目にした魔導書の中。それにはレネにも読める文字で、はっきりと文章が記されていたはずだった。間違いはない。目に飛び込んだその文章を見て、「これは魔導書だ」と判断したのだから、その記憶に違いはない。

今、レネが手に持つその魔導書の中は、紫の紋様で文字が変化していた。言語が判読できないほどに形をゆがめ、綺麗に整列されていたはずの文字一つ一つがバラバラに頁の中で散らばっている。後続の頁も同じだった。その色調も形態も、レネやモルテの肌に浮かぶ呪いの紋様にそっくりだ。
「どうなって…… 嘘だ、ちゃんと読める本だったはずなのに……」

「小さい相棒が呪われているのを、君は視認したはずだ。そして魔導書も呪いの紋様に歪んでいる。とすれば、この二つの事象を結びつけるのは――なんだと思う?」
魔導書は、モルテである。この魔導書は単なるモルテの所有物ではなく、あの子の存在そのものなのだ。頁に刻まれている紋様が、その残酷な事実をはっきりと証明している。

「……待て。お前はさっき、この魔導書は『モルテの魂』だって言ったな」
魔導書はモルテの《魂》。だとすれば、あの肉体は?
「あの体も、魔導書が作り出したのか?」

男は首を横に振る。
「あの子には、二つの魂が宿っている。一方は意思を持つ魔導書の魂。そしてもう一方は――肉体が持つ本来の魂だ」

4.


二つの魂。
一つは魔導書がもたらす魂で、もう一つは肉体に宿る本来の魂。蚯蚓みみずの魔物の口から紡がれる言葉を上手く咀嚼できず、レネは魔導書を持ったまま呆然としていた。

――魂が二つある、だと?
――そんなこと、あるわけが。だって、あいつはずっと……

声、表情、所作。モルテと出会った日から、今日までの相棒の姿が走馬灯のように駆け巡っていく。魂が二つ。とすれば、モルテは二重人格に近い状態だったということになる。今まで、そんな様子、少しも……

頑なに否定を繰り返すレネの思考回路に、ある一つの光景が蘇った。
リヴァーディアに足を踏み入れて、レネの願いを打ち明けたあの夜。モルテが赤い瞳から涙をこぼし、レネの決心を真剣に聞いてくれたあの顔が、思い出される。

『ぼくの方こそ、でしゃばってごめんね。きっと明日には、いつもの僕に戻っているから』
そうだ。あのとき、自分の心にわずかに曇りをもたらしたあの言葉。普段の「モルテ」が魔導書の意思によるもので、もう一つの魂が「でしゃばってごめんね」と言い残したのだとしたら。それならば辻褄が合う。いや……そうとしか思えない。
翌日の「忘れてくれる? 思い出すだけで恥ずかしい」と言い放ったのは、魔導書のモルテだったのか?

頭の中で、いくつもの違和感がパズルのピースのようにかみ合い、つながっていく。思えば、そんなことが前にもあった。フォスと出会った日の夕方、もし呪いが解けたらどうするかを問うた時のモルテの微笑。今考えると、普段の様子とは違った。あの時も、瞳は赤かったはずだ――

レネの頭上で、蚯蚓の魔物は言葉を続けた。
「君が眼帯を外して、その呪われた赤い瞳でしっかりと相棒をとらえていたのなら気がつけただろうに。君の右目は視えるのだろう? 魔力の波動……金色と、赤色に揺らめく二つの色を」

レネは思わず、自身の眼帯を押さえた。意志を持つ魔導書が、あの相棒の心に自らの意志を割り込ませているのだとしたら、魔力の波動も二つあるはずだ。リヴァーディアに入る前も、入ってからも、眼帯を基本的に外さなかった。特にリヴァーディア内は黒い魔力が霧のように立ち込めていて、視界を遮るから。
――いや、それを差し引いても、俺はあいつを見ようとしていなかった。
もっと早くに気づいていたら。モルテの魔力を確認していれば。あまりにも気が付くのが、遅すぎた。

「……どうして、お前はそこまで知っている? お前は何者なんだ」
「フォスが隠蔽、アネモスが溶解、イスキオスが複製。私は千里眼の力を得ている。リヴァーディアで起きたことは総て見てきた。障壁を通過してからの、君たちの会話も聞かせてもらっていた。……勿論、君があずかり知らないところで繰り広げられていた、相棒同士の会話も。私の名はセリーニ……君のご両親の元同僚で、騎士だった」

蚯蚓の魔物は、セリーニと名乗った。ここに来るまで、蚯蚓が自分を誘い出す目的が判然としなかったが、ようやく合点がいった。
セリーニは、教えてくれたのだ。呪いに窮する自分たちに、真実を。手荒な手段だったのかもしれないが、あの身体では移動もままならないのかもしれない。だからこそ、自分たちをここまで呼び寄せる必要があった――

レネは眼帯を外した。久々に両目で景色を見る。相変わらず黒い波動があたりを覆っており、視界の右側は黒いもやがかかっていた。
しかし、もう眼帯をつけているわけにはいかない。

「ありがとう、セリーニ。俺はあいつのことをずっと視たつもりになっていた」
魔導書と眼帯を仕舞い、レネはセリーニを見上げる。
「きっと二人で……いや、三人で呪いを解く方法を見いだしてみせる」
きっと、まだ時間は残されている。一刻もはやくモルテのところに戻って、本と肉体を引き合わせてやりたい。

そして、今度こそ。今度こそ、二人の相棒と真剣に向き合い、守ってやらねば。

謝意を伝えたレネの頭上で、セリーニは腕を組んでいた。熟考ともとれるその姿勢を崩さず、しばしの間をおいて返ってきたセリーニの返事は――あまりにも簡潔で、そして冷酷な色を帯びていた。

「何故?」

「……え?」
「解呪の必要が、どこにある? 私は永劫に生きる肉体と力を得た。人の肉体を捨て、加護を得たうえで復活できるというのに。態々わざわざ限りある生を歩む必要がどこにある?」
「お前、何を言って……」
レネの言葉を待たずに、セリーニは下半身の蚯蚓を一斉にこちらへ伸ばしてきた。大小さまざまな蚯蚓が敵意を向け、四肢を捉えようと向かってくる。反射的に長剣を鞘から抜き、居合で二、三の蚯蚓を切り落とした。赤紫の体液が足元に飛び散る。

あまりにも分が悪い。レネは後ろを振り返った。この場から一刻も早く逃げなければ、あっという間にセリーニに捕まってしまう。
しかし入口も蚯蚓の群れがとうに塞ぎ、空間は密室に近しい状態となっていた。

この群れを切り落とさないと。一歩踏み出そうとする――が、足が動かない。
足首を細い蚯蚓が捉えていた。切っ先を下に突き立てようと右腕を振り上げるが、その隙に腕も、蚯蚓にからめとられる。
力ずくで振り払おうと、右腕と両足を引く。こちらの腕力をはるかに上回る力で押さえつけられ、もがくうちに左腕も拘束された。右の掌へ這った蚯蚓が力ずくでレネの指を開き、握っていた剣の柄を取りこぼす。肉の床に落ちた剣を蚯蚓の一本が拾い上げ、セリーニの元へ届けた。

セリーニは剣を受け取ると、白く細長い指で抜身の刃をなぞる。眼下で無残にも拘束されているレネを見下ろし、嗤った。

「ここまで教えてやったんだ。情報料を支払ってもらうよ?」
「お前、最初からこのつもりで……
途中まで言いかけたレネの首に、細い蚯蚓が巻き付く。そのままぎゅっと首を絞められ、レネの台詞は途絶えた。

狭まった気道を確保しようと、無意識に天を仰ぐ。見開いた眼が捉える視界は瞬く間にぼやけ、意識が遠のいていく。

――まずい、このまま、じゃ……

失神の直前。獲物が脱力したのを感知したのか、蚯蚓が首を解放した。急激に広がった気道から空気を取り込み、レネは荒い呼吸を繰り返す。息が整わないうちに、蚯蚓は再度レネの首――頸動脈を圧迫するように左右の側面を強く絞めた。

もともと、ギリギリで意識をつないでいた。酸素が足りていなかった脳は、二度目の拘束で再度眠りに落ちる。

「っ……」

抵抗することも、言葉を発することすら叶わず、レネの意識は確実に落ちた。