
1.
頬に布が触れている。柔らかく暖かい感触に任せているうちに、自分が横になっていることを認識する。
「……?」
レネはゆっくりと目を開けた。
目の前で自分の頬をくすぐっていた布は、ベージュ色のシーツだった。身体の上にも、軽い手触りの布がかけられている。そっと外して、身を起こした。
周囲を見渡すと、そこは見覚えのない小さい一室だった。部屋の中央には木製のテーブルと椅子があり、その奥には質素な机がある。そこに向かうようにモルテが腰掛け、本を読んでいた。
ベッドの軋む音に気がついたのだろうか、読書をやめて相棒が振り返った。
「おはよう、レネ。気分はどう?」
気分は悪くない。失神する前にあれほど鳴り響いていた頭痛も、すっかり治まっていた。その前の光景を思い出す。大型の魔物と戦闘し、自分が血まみれで倒れたことを。
「あの魔物は?」
「とどめはさせてたと思うよ。君の手当てのためにすぐあの場を離れたけど、追ってくる様子はなかった」
手当て、という単語に反応する。自分の血にも、魔物の血にも塗れていた自分を、手当てしたのか?
「触れたのか、俺に」
「だって、そうするしかなかったから」
モルテの表情はあっけらかんとしていた。その行動が、さも当然であるかのような口ぶりだ。しかしレネは違う。レネの体液は、傷や粘膜に触れた者の命を奪う。それは相棒に、何度も言い聞かせていたことだった。
「あれほど言っただろう……! この呪いは進行してるんだ! もしかしたら、そのうち普通に触っただけでも」「その心配は無いよ」
レネの言葉を遮り、モルテは机の上から手鏡を取り上げた。鏡面がレネに向かう。
「え……?」
自分の顔と対峙して、レネは反射する光景に目を疑った。

この右目は、呪われている。瞳は生来の青緑から赤く変わり、いつしか白目の部分も真っ黒に染まっていた。はずだった。しかし、今の光景は違う。両目とも、元通りの青緑だ。右頬に濃く刻まれている紋様もまだ残ってはいるが、心なしか範囲が狭くなっている。
「なん、で……」
頬に手を当てる。信じられなかった。あれほど欲していた光景が、いまここにある。手鏡をモルテから受け取り、左手に持つ。瞬きを繰り返していると、部屋の奥から声がした。
「お体の具合はどうですか」
声の主は、ドアの向こうからゆっくりと歩いてきた。若い女性だ。柔らかいプラチナブロンドの長髪をなびかせ、薄水色の瞳が優しく微笑む。纏っている衣服は白地に金の装飾があしらわれた瀟洒なものだ。肩に羽織っているケープから察するに、神官のような役職に就いているのだろう。
「レネの手当ても、呪いの応急処置も、ぜーんぶこの人がやってくれたんだよ」
モルテは台詞とは裏腹に、どこか不機嫌そうな顔をしていた。
頭痛はない。あれほど痛かった背中もどこかしこも、まったく痛くない。身体を確認するが、包帯のひとつも身に着けていなかった。手当てと先ほどモルテが言ったが、ただの手当てではなかったのだろう。治癒魔法の類であると想像できた。モルテの魔法はあれほどかけても効かなかったのに。どうして。
「あなたは何者なんだ?」
「フォス、と申します。ここ、リヴァーディア神聖王国の治癒師を勤めておりました」
「リヴァーディア……神聖王国?」
モルテが聞き返した。リヴァーディアという地名はモルテから聞いていたが、神聖王国の字面はレネも初めて聞く。しかし、ここがただの集落ではなく王国だというのもうなずけた。巨大な魔法障壁を張るほどの高度な魔力を持ち、また、その障壁が必要であるほどの資源を有する集団。フォスの高貴な服装をみても、ここは普通の街や村ではなく国であるという方が自然だ。
レネは一瞬思考を巡らせた後、フォスに向き直り、口を開いた。
「……勘付いているとは思うが、俺たちは障壁の外側から来た。敵対するつもりはない」
小さく頷いたフォスをみて、今度はモルテが続けた。
「レネの目が覚める前にも伝えたけど、彼は呪いを解くためにここへ来たんだ。知っていることを、教えてくれないかな」
「話をさせてくれないか。あなたのような人をずっと探していた」
「……ええ」
レネの表情をみて、フォスも察したようだった。椅子に腰掛け、レネの顔を見つめる。
「何から……お訊きになりたいですか」
そう訊かれて、レネは一瞬困惑した。
訊きたいことは山ほどある。今まで自分が受けてきたもの、失ったもの、この国に着いてから視てきたもの。自分の中に浮かんでいる様々な思考と仮説が絡み合って、頭の中でもつれていた。
そのもつれをほどくために、どうしても一番先に訊いておきたいものがあった。
「俺の、この呪いは」
言葉が喉につかえる。一度でも声に出してしまえば、もうそれは戻らない。それでも、確かめたい。明らかにしたいことがある。
「この呪いは……これは、人を魔物に変える呪いなんだろう?」
2.
長くて白い睫に覆われたフォスの瞳が、一瞬うつむいた。悲哀の表情を浮かべ、レネに投げかけられた問いに答える。
「……はい」
それは、肯定だった。
「あなた方が倒したあの魔物は……もともと私たちと同じ人間でした。ある日両目が赤くなり、全身に紋様が浮かんで、魔物へと姿を変えてしまった。ちょうど、あなたのような経過です」
フォスの視線がレネを指す。言葉と事実が突き刺さり、レネは思わず視線を伏せた。あの大型の魔物と対峙したときに視た、自分と同じ波動の魔力。モルテの魔法が効かなかったのも、これで合点がいく。もともと魔法というのは、人間が編み出した、人間へ利益をもたらすためのものだ。普通の治癒魔法は、魔物には効果を発揮しない。
自分は、とっくに外れていたのだ。人間の世界から、はじき出されていたのだ。
――自分は、すでに人ではない。
言葉に詰まるレネの横で、モルテがたずねる。
「そんな呪い、どうして……」
「ここは、外部からの侵入者を阻む障壁に囲われた、平和な王国だったのです」
「『だった』?」
「ええ。害獣が街に入り込むことはありましたが、それ以外は豊かな森に囲まれた王国でした。あの……黒き禍殃に侵略されるまでは」
禍殃。厄災を指す表現を、フォスは震える声で発した。声色に眠る彼女の畏怖を、レネとモルテも感じ取る。
「まさに、黒い嵐を引き連れた災害でした。それは突然障壁を通過してリヴァーディアに侵入し、焔を撒いて、去って行った」
フォスの白く細長い指先が、膝の上で固く握られる。
「黒い焔が国を焼き、民は次々に魔物へと姿を変えられていきました。その様はまさに呪いで……。瞬く間に、国中に蔓延したのです」
しばしの沈黙が流れた後、伏せていたフォスの顔が上がった。
「私は生存者です。あなたのように、呪いに蝕まれて苦しんでいる人たちがここにはまだいます。私の使命は、その方々を魔物化の運命から解放することです」
「解放? そんなことができるのか?」
レネは疑問に思った。この呪いを解く方法を探して、ずっと旅をしてきた。魔術に明るい人間を訪ねては首を横に振られ、呪術に詳しい人間を訪ねてはこの性質を利用され、結局何も進まずにここまで来た。呪いの始まりがこの地にあるのならば、解除の鍵もここに眠っているかもしれない。しかし、フォスの言う《黒き禍殃》が撒いた呪いを、そう簡単に解除できるのだろうか。
「そのお顔が、証拠になるかと。それは私の施した処置ですが、あくまで応急的なもの。もう少し時間と魔力をかければ、解除できる望みはあります」
フォスの視線は、レネの右目を見つめていた。元の色に戻った右目は、魔力を視ることもない。取り戻したかった視界を、今こうして手に入れている。確かにこれは、フォスの能力を示す何よりの証拠だ。
「今夜、機会をください。あなた方がこの地まで来た決意と覚悟を、無駄にはしたくないのです」
胸に手を当て、フォスは凛とした声を張った。その瞳に迷いは感じられなかった。
信じてみよう。この女性が背負っているものに、賭けてみよう。
「……わかった」
高鳴る鼓動を抑えて、レネは深く、頷いた。
3.
フォスとの会話を終えたときには、もう日が傾いていた。大型の魔物と戦闘した時も夕刻だったが、あれから丸一日も経過していたことになる。
洗濯を終えて乾ききっていた衣服に袖を通し、レネはモルテと共に外へ出た。術の準備をするフォスの邪魔になりたくなかったのと、リヴァーディア国内のほぼ全域で食料になる動植物が採れると教えてもらったからだ。剣に損傷がないことを確認し、左腰に吊った鞘へ納める。弓を手に持ったモルテがこちらを見ていた。
「もう歩いて大丈夫なの?」
「ああ。頭痛ももうない。これ以上寝てたら体が鈍る」
川の方向へ足を進めながら、レネはモルテに話しかける。
「仮に、俺の呪いが今晩ここで解けたとして、モルテはどうするんだ?」
「もう少しこの国に残らなきゃいけないね。初めて会った時に言ったけど、僕はこの国の魔法と希少鉱石に興味があるからここにいるんだ」
自分の左耳で揺れる耳飾りに、レネは意識が向く。
思えばこの耳飾りがリヴァーディアへ向かうきっかけだった。モルテが話すに、この国には魔術の触媒として有用な希少鉱石――オウルムが眠っているらしい。この国を覆う魔法障壁も、モルテにとってはさぞかし魅力的な対象に見えているのだろう。
「レネこそ、呪いが解けたらどうするのさ。どこかに落ち着くの?」
「そうだな……フォスへの恩返しもしたいし、リヴァーディアの生き残りのために協力するのも悪くはないと思っている。それに、魔物が跋扈しているところにお前ひとりだけじゃ、危なっかしくて気が気じゃないからな」
「もう転ぶなんてへまはしないよ」
モルテは視線を外してむくれた。そういった仕草は実に子供らしくて、レネは微笑する。
「どうだか」
「でも……そっか」
相棒はそう呟き、少しの間言葉を止めた。
「レネともう少し一緒にいられるなら、心強いかな」
夕焼け色の目を細め、モルテは微笑んでいた。こちらを見てはいなかったが、その眼差しは安堵と安らぎを見出すような、穏やかなものであった。

モルテはかなりの自信家だ。笑顔と言えば、威勢を張ったような高慢な笑みの記憶が強い。初めて見る顔に、レネは驚きの感情をおぼえた。
――こいつはこんなに優しく笑えたのか。
「なあに? そんなにじろじろ見ないでよ」
モルテと視線がぶつかった。すまん、と一言詫びてレネは目を逸らす。こちらに非は全くないが、いつも通りのモルテが持つ強い眼差しにたじろいでしまった。
「話を戻すけどさ。僕が訊きたいのは、レネが何をやりたいかだよ。この国に残るのは使命感とかであって、レネがやりたいことじゃないでしょ。無いの? そういうの」
「やりたいこと……」
無いわけではなかった。しかし、話していなかった。
今までそういう会話をする機会がなかったし、自ら進んで話すような内容でもなかったからだ。呪いを解くことがまず大前提であって、それが旅の目的であった。あくまでモルテは、旅の同行者。そこまで話す必要はないと思っていた。
――話すべきだろうか。
レネは逡巡する。決して憚られるようなことではないのだが、モルテに話して理解してもらえるだろうか。
喉まで出かかる。
――俺の、やりたいことは。
「……無くはないが、話すことじゃないだろう」
言葉を押し殺した。人が人として生きる上で当たり前のこと。それ故に、「そんなこと?」とモルテに言われるのが、怖かった。
呪いが解けたら。呪いが解けて、普通の人間に戻ったら。
七歳のあの日に喪った、両親と共に過ごした温かい家庭。あの日々はもう戻らないが、それでも、誰かを。
――誰かを愛して、愛されて、共に生きることができるのなら。
4.
この国の夜の訪れは早い。大森林の梢に太陽の光は遮られ、一瞬の夕日が過ぎるとあっという間に帳が下りる。月と星の光だけが照らす屋根の下、レネは部屋の中央に座っていた。床に敷いた敷物の上に胡坐をかいている。家具は別室に片付けられており、そのせいか昼間よりも部屋が広く感じた。壁掛けの蝋燭の光が灯る。赤くささやかに、夜の闇が揺らめいた。
フォスはレネの正面に立ち、錫杖を両手で握りしめた。彼女の決心とわずかな緊張を含んだ視線が、こちらに向けられている。モルテは寝室で読書をしているはずだ。夜の冷えた空気が、二人きりの静かな空間でぴんと張りつめた。
術の前に、あらかじめ上半身の衣服を脱いでおくようにフォスから指示されていた。紋様を確認するためだろう。応急処置で心なしか範囲は狭くなっているものの、濃い紫の紋様は変わらずに刻まれている。
「思ったよりも深い……。けれど範囲はまだ広くありません」
紋様は右腕から始まり右胸を経由し、右脚まで下る。左半身はなんともない。これは《広くない》と形容できる状態であることに、少しだけ安心した。
フォスは、小さい木製の杯を持ってきてレネに手渡した。
「これを」
透明な液体が入っている。
「痛み止めです。多少眠くなります。術は苦痛を伴いますから」
レネは杯を受け取ると、ぐっと飲みほした。舌と喉へ抜けるような清涼感が、いかにも薬らしい。後からほんのりと苦みが広がる。
「横になって」
言われたとおりに床へ横たわった。後頭部で結んでいる髪が邪魔で、一度起き上がって紐をほどく。腰よりも長い髪を整えて、もう一度仰向けに寝た。
敷物のちくちくとした感触が頬をくすぐる。薄暗い天井しか見えない視界の端から、フォスが現れた。
「安心してください。次に目が覚めたときには、きっと昔のあなたに戻っていますから」
囁くように声をかけて、フォスの右手がレネの頬を撫ぜた。手袋越しだったが、彼女の体温が伝わってくる。恥ずかしくなって思わず目をそらした。
フォスはレネの傍らで膝をつき、徐に目を閉じる。ほどなくして、詠唱が始まった。彼女のやわらかで静かな声を聞くうちに、だんだんと音の輪郭がぼやけてきた。
子守唄のような声を聞きながら、物思いに耽る。誰かに優しく撫でてもらうなんて、何年ぶりだったろうか。小さいころ、母に頭を撫でてもらいながら寝るまでそばにいてもらった記憶がよみがえった。
長い一人旅の過程で、しまい込んでいた。懐かしくて温かい時間。こんな他愛もなくて、けれど愛おしい日々が、ずっと欲しかった。だから、こうしてここまで来たんだ。次に目が覚めたら、また、あんな日々を過ごせるんだろうか――
レネは重い瞼に抵抗することなく、ゆっくりと意識を横たえた。

5.
微睡みの中、ちくりと痛みが走った。浅く、しかし焼けつくような熱さが右胸を刺す。気力を振り絞って瞼を上げると、きらりと光る刃が見えた。小さい切っ先の先端は、赤く濡れている。
「なに、して……」
声を出すのもやっとだった。強烈な眠気でよくわからないが、確かにこの痛みは夢ではない。刃の根元を視線でたどり、柄を見る。白い手袋をはめた女性の手によって握られていた。まぎれもない、フォスの手だ。
「大丈夫。毒を取り出しています。安心して眠って?」
これも術なのか――? 鈍麻した思考はそう結論付けようとするが、理性と経験がそれを否定した。
――違う。これは、何かがおかしい。見るんだ、フォスの顔を。
徐に瞬きをして、しっかりと彼女の顔を見る。その相貌は、歪んでいた。口角は猟奇的なほどに吊り上がり、目は恍惚で見開いている。昼間の時とは別人のような、邪な笑みが現れていた。レネは確信する。
――呪いを解くためなんかじゃない。これは……!
声を出そうとしたと同時に、鋭い風切り音が横切った。フォスの顔面すれすれをかすめ、横の壁に突き刺さったそれは、一本の矢だった。
「そこまでだ」
聞きなれた、精悍な声がレネの耳に届く。部屋の入り口から、モルテが弓矢を番えてフォスを狙っていた。
「怪しいと思ってたんだ。部外者の僕たちを、何の疑問にも思わず助けるし。術をかけるのに、わざわざ僕を別室に追いやる理由もわからなかった」
「待って、違うんです! 私は本当に呪いを……」
「じゃあ、さっき僕に差し出した飲み物は何? 外の草に一滴垂らしただけで、見る見るうちに枯れていったよ」
「そんな、はずは……」
フォスの声を遮るように、もう一本、矢が飛んできた。彼女の胸元をかすめて、また壁に突き刺さる。
「君もレネと同じなんでしょ? どうやって紋様と瞳を隠してるか知らないけど、本当の目的は何?」
レネは耳を疑った。飲み物で、草木が枯れた? フォスが、自分と同じ?
呪われていた右目は、元に戻っている。眼帯をつけていないが、今のレネに魔力は視えない。モルテの話すことが事実であるとするならば、フォスは何らかの能力を行使して目を塞ぎ、彼女自身の魔力を視えないようにしたことになる。
彼女はモルテを見て怯えていた。身体は小刻みに震え、錫杖を握る右手は力なく床に置かれている。
フォスは襟ぐりに手を入れて、胸元から小さな瓶を取り出した。ペンダントヘッドのように、細い鎖につながれたそれの中身は殆ど空であったが、ごくわずかに液体が入っている。あまりにも毒々しい、赤紫の色を呈していた。
「……あなた方も、私を否定するのね……」
「その色、魔物の体液かな。レネのを絞り出そうとしたんでしょ」
「どうして皆、私のことを分かってくれないの……。こんなにも、呪いを解こうと努力して、勉強して、皆を戻そうとしているのに……」
会話がかみ合わない。モルテの警告など耳に入っていないようだ。フォスは延々と一人で呟いている。
彼女の首から提げられている赤紫の液体。たしかに、大型の魔物が流した体液と色調がよく似ていた。歴史をたどれば、美や精力を得るために他者の血液を取り入れるという話はよく耳にする。モルテの仮説とフォスの態度に、矛盾は感じられなかった。だとすると、今までのことは全部自分の体液を回収するための嘘だったということになる。先ほど飲まされた液体も、単なる睡眠薬――
レネは左手の指を伸ばし、そのまま口の中につっ込んだ。毒を吐き出すのであれば、早い方がいい。可能な限り奥まで指を入れ、刺激による反射に任せて胃の中の薬を吐き出した。呼吸を整えて口を拭う。気のせいかもしれないが、酩酊に似た眠気が少し治まった気がした。
レネの嘔吐を止める様子もなく、フォスはまだ喋っていた。錫杖を床に落とし、空いた両手で自らの頭をぐしゃぐしゃに掻きまわす。
「私のことなんて、皆許してくれないんだわ……そうよ、もともと許される権利なんて、私には、わたくしにはなかったの!」

吐き捨てるように、フォスの怒号が響く。昼間の静かな話し声からは想像もできないような慟哭だった。荒げた息をそのまま深く吸い、彼女は天を仰いだ。
もはや視線は虚ろだった。明らかにレネとモルテのことは意識から外れ、合わない焦点を天井に向けている。口元は笑みの形に開いているが、目元は悲哀と憔悴に染まっていた。彼女は、そのまま、笑いだした。
声量は次第に大きくなっていった。横に開いた口は、より開かれていく。そのうちに口角はめりめりと彼女の頬を割き、顔部分が横にばっくりと割れた。
もはや口と形容できなくなった裂け目の中から、白い何かが頭をのぞかせる。赤紫の液体に濡れながら、彼女の体内からずるずると這いだしてきた。空っぽになった身体は袋状にしなびて折りたたまれ、床に伏せる。這いだした白い何かは飛び上がり、頭上でゆっくりと横に展開されていく。
ここで、レネとモルテはようやくそれが何であるかを認識した。それは、巨大な翼だった。翼の中から現れた金属製のリングが天井を破壊し、中の異形がレネとモルテの上に顕現した。
それはあまりにも神々しく、巨大で、おぞましい。無数の目が四方八方をぎょろぎょろと見渡し、翼の中には白磁の像のような分厚い仮面が鎮座している。先ほどまでの女性の面影は殆どない。彼女はまさしく異形だった。
もはや家としての機能を失った家の頭上で、フォスだった魔物は天に浮いていた。目の前の光景がにわかには信じられず、レネとモルテは絶句しながら見上げるほかなかった。


