6.
「ああ……イリオス」
中央の仮面の口元が動く。そこから発せられる声は、紛れもないフォスの声だった。安堵と悲哀が混ざったような、静かな声が響く。
「イードル隊長はどこ? みんな、みんないなくなってしまったの……」
――イリオス、イードル。
レネは眉をひそめる。あまりにも聞き覚えのある名前だった。レネにとっては懐かしくて、途方もなく遠くなってしまった人たちの名前だ。それを、何故フォスが呼ぶのだろうか。
「どうして、その名前を……」
「知り合い?」
隣のモルテの問いに、レネは答える。
「俺の両親の名前だ」
レネはリヴァーディア出身ではない。そもそもモルテに教えられるまで、この単語が地名だという事すら知らなかった。なのに何故、リヴァーディア人であるフォスとレネの両親が知り合いなのか?
フォスは空中に浮かんだまま、こちらのやりとりなど気にせず話し続ける。
「ねえイリオス。答えて。どうしてみんないないの?」
「俺はイリオスじゃない! イリオスもイードルも、何年も前に死んだんだ」
「……死ん、だ……?」
フォスの声がわなわなと震える。
「うそ……うそよ、戻すって決めたの…… みんなをもとに戻すって、イスキオスとアネモス、フォティアとも誓ったのに……」
「また変な名前が出てきたよ。知ってる?」
「いや……初耳だ」
「もどらない 死んだら、もうもどらない……」
フォスの声はさらに落胆の感情に震える。仮面を中心に伸びていた翼は次第に折りたたまれ、フォスが嘆いているのが見て取れた。その次の瞬間、異形の身体を包むように淡い光が浮かび上がり、数秒を経て段々と強さを増していった。
何かを察知したモルテが、息を呑んだ。上半身だけ起こしていたレネの身体を押し倒し、咄嗟に叫ぶ。
「伏せて!」
霹靂と見まがうような閃光が、頭上から降り注ぐ。フォスから発せられた無数の光は、槍となって家や周囲の木々を突き刺した。破壊されすでに役目を終えた天井に当たり、木材を焦がし、燃えた破片がこちらへ落ちてくる。
『障壁!』
モルテの咄嗟の詠唱は間に合っていたようだ。二人の頭上に水の膜がはられ、フォスの攻撃を防ぐ。光の槍は水に吸収され、わずかな水蒸気と共に消えた。
「あいつ、僕たちを始末する気だよ。動ける?」
モルテの防御魔法に守られながら、レネは思案した。正直なところ、まだ頭はふらつくうえに脚に力が入らない。疑いもなくフォスの説明を鵜呑みにして、薬を飲んだ自分を恨んだ。しかし、どれだけ後悔してもこの事態は覆らない。
「動けないが、何とかするしかないな。モルテ、弓を」
動けなくても弓矢は打てるだろう。モルテから弓と矢筒を借り、レネは試すように軽く番えた。腕は力が入りそうだ。対象もあれだけ大きいのだから、少しくらい照準がぶれても当たる可能性は十分にある。
しかし。否定の言葉が脳裏をよぎる。フォスと出会う前に戦闘した大型の魔物とはわけが違う。今のフォスに理性は感じられないが、知性はある。魔法を行使する未知の異形に、果たして勝つことなどできるのだろうか。
「目玉を狙う。……モルテ、防御を頼めるか?」
「誰に向かって言ってるのさ」
自信に満ちた相棒の声が、返ってきた。普段は鬱陶しいとすら思うその声が、とても頼もしく思えた。
「……任せるぞ」

7.
矢じりを持つ右手に、ぐっと力をこめる。右肘を奥へと引き絞り、フォスのリングに浮かぶ目の一つへと狙いを定めた。彼女は宙に浮かんだまま、殆ど静止している。高度もさほど高くない。
――いける。
瞬きを終えた瞬間、指を離す。放たれた矢はまっすぐにフォスへと飛び、巨大な瞳孔へ突き刺さった。
「ギャアアアアアア!」
悲鳴が上から降ってきた。次の瞬間、先ほどと同じ光の槍がレネ達めがけて落下する。
「同じ攻撃が効くわけないでしょ! 《障壁》!」
頭上へ掲げた小さい掌の直上に、水の層が再び現れた。フォスの槍は再び吸い込まれる。攻撃が無力化されたと同時、モルテは魔法を解除した。防壁を張った状態では、こちらの矢がフォスに届かない。
モルテは魔導書を小脇に抱えて民家の屋根を上り、仁王立ちの状態でフォスに話しかけた。
「『皆を戻す』ってどういう意味だ!」
「戻さなきゃいけないの…… わたくしがやらないと…… なのにいなくなってしまった……」
まるで聞く耳を持たず、フォスはぶつぶつと呟き続けている。こちらの声は、彼女には届いていないようだ。
その間にもレネは次の矢を番え、放った。一本目の矢が刺さった目と反対側の目に当たり、赤紫色の体液と涙が同時に飛び散る。
「いたい! お願いやめて……」
「僕たちを散々傷つけておいて、今更やめて? 随分と都合のいい話だね」
モルテは魔導書を開き、詠唱を始めた。先ほどの障壁の詠唱とは違う頁を読み上げる。
『投石!』
モルテの眼前の空間が一瞬揺らぎ、いくつもの大きな石が姿を現す。それらは一直線にフォスめがけて飛び放ち、中央の白磁の仮面へ次々に激突していった。
仮面に無数の罅が入り、欠片が剥がれ落ちていく。モルテからでは見えないが、地面に膝をついていたレネは気が付いた。
仮面の奥に、何かが隠れている。ひび割れの下からわずかに、白地に黒いまだら模様が見えて――
「……!」
番えた矢をいったん外し、屋根の上の相棒に向かって叫ぶ。
「モルテ! その魔法を繰り返すんだ!」
「え!? これ牽制用なんだけど!」
「構わない! 奴の弱点は目じゃない、仮面の下だ!」
仮面の下から覗いたもの。それは、黒く変色した横顔だった。見覚えのある顔だ。長い髪をなびかせ、悲嘆の表情で涙を流す。
――仮面の下に、先ほどの女性の姿のフォスがいる。あれが彼女の本体だ。
モルテの前から出現した石が、フォスの仮面を砕いていく。鶏卵の殻に罅を入れていくように、乾いた音を立てて脆い仮面が砕かれていく。
やがて仮面のすべてが破片と化し、中のフォスが完全に姿を現した。その瞬間を、レネは見逃さなかった。
青緑の双眸がフォスを捉える。固く引き絞った矢じりを離し、
矢は、彼女の左胸を突き刺した。
***
異形の天使は、断末魔をあげて力なく墜落していく。
地面を背に落ちる彼女の視界は、天を仰いでいた。遠ざかる星空。あざ笑うかのように浮かぶ月。視界が赤紫色に濡れ、ぼやけて滲んでいく。
痛みと後悔が心を貫く。フォスの意識は沈み、追憶の中へ深く深く、落ちていく。
――わたくしを、ゆるして。
8.
フォス。《光》を意味する言葉を名に背負う彼女は、確かにリヴァーディアの光だった。光で、あろうとした。
***
その日も、フォスは治療にあたっていた。
アネモスの脚に治癒魔法をかける日々が、もうどれくらい続いたのだろうか。毎日決まった時間に魔法をかけ、彼の動かない脚に変化がないかを確認する。それはもう長い事、フォスとアネモスの日課になっていた。
淡い光が、アネモスの脚を包む。車輪付きの椅子に座っている彼は、いつしか治療の時に読書をするようになっていた。治療を開始したばかりの頃は興味津々にフォスの魔法を眺めていたが、もうそれも見飽きてしまったらしい。

「はい、今日はこれで終わりよ。具合はどうかしら?」
「……変わりありません」
手元の文字から目を離し、一瞬だけフォスの方を見て、アネモスは答えた。変声期を迎えていない彼の高い声は、最初はいたいけに喜びと感謝の色を帯びていた。しかし、今となってはその色はもう感じられない。
「ありがとうございました」
本を畳み、アネモスは一礼した。
違うでしょう。フォスは心の中で、彼の挨拶を否定する。
――本当は、私に感謝なんてしていないのだわ。
感謝されるほどのことなんて、できていない。アネモスの無感情な声を聞くたび、フォス自身の内なる声が、責めるのだった。
アネモスが座る、車輪付きの椅子。それを押すのは、彼の兄の役目だ。フォスは立ち上がり、別室で控えるアネモスの兄に今日の治療終了を報告した。
イスキオス。名前は弟と似ていないが、顔立ちはよく似ている。特に、眼差しとストレートに揺れる金髪は兄弟でよく似ていた。
「ごめんなさい。今日もあまり変わらないわ」
「いいんだ、フォス。いつもありがとう」
アネモスは、何か失礼な言葉を向けていなかったかい。イスキオスはそう続けた。フォスは首を振って否定する。失礼などあるものか。失礼なのは、アネモスに成果を上げられていない、自分なのだから。
イスキオスと挨拶をかわし、フォスは廊下へ出た。次の仕事が待っている。
自分の足音に混じって、イスキオスとアネモスの会話が聞こえた。
――さあ行こう、アネモス。今日は何が食べたい?
――兄さん、今日はね……
9.
フォスの朝は早い。王城の窓から差し込む日の出とともに目が覚めて、早朝から自室で読書と勉強に励む。最近はもっと早くに起きて、より勉強に時間を割くようにしていた。
フォスの治癒魔法に頼る者は多い。病を抱えている者、怪我を負った者。障壁は動物には無効ゆえに、外部から侵入した害獣と戦闘し負傷する者は絶えない。それに、最近は鉱石の採掘・精練作業に従事する者の間で病にかかるものが増えている。肺病にかかるものは昔から一定数いたが、最近は皮膚病の患者が増えている。中には、麻痺や幻覚に苦しむ者も。多種多様の症状に対してどうやったら対策できるのか、フォスの悩みの種は尽きなかった。
勉強しなければ。知識を身に着ければ、それだけ救われる人が多くなる――
朝日が机の上に差し込んできた。そろそろ朝食の時間だろう。結っていた髪を下ろし、整えるために、フォスは鏡の前に立った。
「なに、これ……」
目が真っ赤だった。充血かと思ったが、よく見ると違う。白目の部分は何ともなく、瞳の部分だけが綺麗に赤い。両目とも薄い水色であるはずが、どちらも深紅に染まっていた。上下左右を見回して、室内も見渡す。痛みはない。視野も大丈夫。それがさらに不気味だった。しかし、自分の身体をみて、気が付いた。
赤と紫に混じった、黒。もやのような、霞のような、そんな不可思議な煙を、自分が纏っていた。さらに、服を着替える時に気が付いた。身体に、謎の紋様がある。
「どうして…… これ、一体……?」
ただの病では説明がつかない。どの書物にも見覚えがない奇妙な事象が、一度にいくつも発生している。何が、いったい何が起きている?
心当たりがあるとしたら、呪術や黒魔術の類だった。自分はそういった類の魔法に詳しくない。アネモスはどうだろうか? 彼は、攻撃魔法を扱うのだ。黒魔術に多少の知見があるかもしれない。
フォスは自室をでて、城の廊下へ躍り出た。今は早朝だ。なるべく第三者と接触せず、急いで彼に会いたかった。
一歩、一歩ごとに、不安と焦りが募る。これは治るのか? それとも。気持ちだけが前に行くが、どんどんと身体が重くなっていくのを感じた。暑い。早朝なら外気はひんやりと涼しい季節なのに、だんだん体内に熱がこもっていく。
脚がもつれた。バランスを崩し、フォスの華奢な身体は地面に崩れる。
「どうして……」
起き上がるだけの力を振り絞ってみるが、鉛のような上半身を起こすことができない。異様な倦怠感が伸し掛かり、熱に浮かされた意識はどろどろと沈んでいった。
***
どうやらそのまま通路で寝ていたらしい。相変わらず身体は燃えるような熱さだったが、気力を振り絞ってなんとか身を起こす。
喧騒が聞こえていた。より正確に表現するならば、幾重にも折り重なった悲鳴があちこちで響いている。
「何……?」
敵襲か? 念のため周囲に警戒しながら、外へ出る。
建物の外へ続くドアをそっと開けると、焼ける匂いと共に鮮明な悲鳴が飛び込んできた。
一言で形容するなら、それは地獄だった。
本来なら、そこは花と草木に囲まれた瀟洒な庭園が広がっているのだ。その何もかもが黒く燃えて、煙と灰が舞っている。不透明な視界の隅で、蹲る人々が見えた。
ある者は身体を焼かれながら悲鳴を上げて転がり、またある者は既に黒い炭となって下火を燻らせるだけとなり、またある者は見開いた両目から涙を流しながら焼け爛れた口と喉をぱくぱくと開けている。
燃えていた。樹も人も、すべてが燃えている。
フォスは彼らの元に駆け寄った。治療しなくては。はやく魔法をかけないと、手遅れになる!
喉の火傷で呼吸困難になっている女性の元へ駆け寄った。錫杖を持っていないが、あれは魔力を増幅させるためのものだ。なくても治癒魔法の発動はできる。
「今助けます!」
手をかざそうとする。しかし、そこでようやくフォスは気が付いた。
自分の身体に、びっしりと紋様が濃く刻まれていることを。
思わず手を引っ込めて、袖をまくる。朝に見たときよりも濃く、深く、紋様が自分を包んでいる。周囲に気を取られて、忘れていた。自分のこの事象は、治ってなどいなかったのだ。
そのとき、どこかから声が聞こえた。
「化け物!」
軽い火傷を負っている男性が、こちらを見ていた。その顔は恐怖に歪み、怯えた視線が確実にこちらを捉えていた。
体中の熱が冷えるどころか、燃え上がるのを感じた。熱い。
「なによ、なによこれ……!」
「あつい」「いたい」「たすけて」
色々な声が聞こえる。誰もが自分の助けを求めている。治さなきゃ。はやく治さないと、皆が。
しかし意識は自分の熱に乱され、まとまりのない集中が散らばっていく。
熱い。頭は焦燥で冷え切っているのに、身体は燃えるように熱がどんどんと高まっていく。
――どうしよう。なにも、なにも、できない。
――自分の力が及ばないから。
――何もかもが崩れてしまった。
――皆を、守れなかった。
――どうか、どうか許して。
「許して……」
レネとモルテが見つめる中、地面に墜落したフォスは繰り返し呟いていた。
――許して。
フォスが人間でいられた最期の記憶。
何もできなかった、無力感に絶望した、最後の記憶の中で、フォスの意識は途絶えた。
10.
睡眠薬を吐き出してから、だいぶ時間が経過していた。ふらついていた足はしっかりと身体を支え、感覚も平常時に戻りつつあった。今なら剣を使うこともできるだろう。徐に鞘から引き抜きつつも、レネは逡巡していた。
彼の目の前には、異形と化したフォスが横たわっていた。白磁の仮面は破片と化し、赤紫の汚染に塗れている。
フォスもまた、呪われていた。最初に出会った赤い鬣の魔物と同じ、人としての生を奪われた魔物だったのだ。
彼女は消え入りそうな声で、「許して」と繰り返している。何を許してほしいのか、窺い知ることはできそうもない。もはやこの場に、フォスへ許しを与えることのできる人物はいなかった。
ならばせめて、人としての心が残っているうちに、終わらせてやるべきなのだろうか。この剣でとどめを刺すべきか、それともこのまま最期を見届けるべきか。
モルテはレネの隣に降りてきていた。レネが柄を握り迷っていると、不意にフォスの身体が黒い炎に包まれた。二人は反射的に下がり距離を取る。火炎は瞬く間にレネの身長を超すほど勢いを増した。
時間にして数秒だった。燃え盛った炎はあっという間に鎮火し、異形の魔物は灰と共に消え去った。燻った香りと漂う灰に、レネとモルテは軽くむせる。
地面に取り残された遺灰の中から、黒く焼け爛れた身体が見えた。女性の遺体だった。かろうじて白い服と長い金髪が確認できる。それは異形に姿を変える前の、人間体のフォスだった。よく見ると、レネと同じ紋様が全身に広がっている。目を閉じており瞳の色は分からないが、おそらく両目とも赤いのだろう。
かける言葉が見つからず、レネは遺体を呆然と見つめていた。
――これが、呪いの末路なのか?
黒い炎に焼かれ、人としての身体すら奪われて、異形に変わり果てることを強いられると?
いずれ、自分もこうなるのか? 鬣の魔物やフォスのように、異形の姿に変わり果て、周囲に殺意を振りまくだけの存在に成り果てるのか?
「……レネ」
相棒の声に、レネは振り返る。
「目が」
声はわずかに震えていた。モルテの瞳はまっすぐにこちらの瞳を見つめている。自分の顔を映せる物がないか思案し、右手に持っている剣の刃を利用した。
反射する自らの顔を見る。そして、愕然とした。
レネの右目は、深紅の色彩に戻っていた。加えて、紋様はフォスと出会う前よりも更に広がっていた。


