7.
朝はあんなに暖かい光が差し込んでいたのに、いつのまにか分厚い雲がリヴァーディアの空に蓋をしていた。冷えた空気が張り詰め、薄暗い森林に漂う。湿度も急に増してきた。おそらくもうすぐ雨が降るだろう。
灰色の雲を見上げて、レネは立ち止まっていた。数メートル後ろにはモルテがついてきている――が、相棒の息はとっくに上がっていた。
モルテの調子が、やはりおかしい。数日前より明らかに足取りが重い。時折咳き込んでは歩みを止め、幹に手をつきながらふらつく身体を支えている。
日記帳を見つけて北の王城を目的地としてから、二日が過ぎていた。翌朝こそ相棒の調子は元通りに快復したが、その日の昼過ぎを境にずっとこんな様子だった。レネの手を取って一緒に歩くことは頑なに拒否し、モルテは一人でなんとか後ろを追っている。
雨の中で無理に歩けば、それだけ体力と体温の喪失につながる。近くに建物もないためできれば先を急ぎたいが、モルテの体調と性格を鑑みると簡単にはいかないだろう。
最初は、咳は埃のせいだと思っていた。だが、ずっと屋外を歩いているのに咳は酷くなるばかりだ。風邪にでも罹ったのではないのか?
思案したレネは数歩だけ引き返し、モルテの目の前に立つ。手を伸ばし、額に掌を当てた。熱はなさそうだ。
「何してるの」
相棒は訝しげにこちらを見上げている。
「……もうすぐ雨が降る。凌げるところを探すぞ」
「必要ないよ、このまま進もう」
額に当てられたままだったレネの手は、徐に払われた。
「体が濡れた状態で歩けばどうなるか、お前でも分かるだろう」
「僕の魔法で防ぎながら歩けばいいじゃないか。フォスと戦った翌日だってそうしたでしょ」
その状態で魔法を使えるのか? と、喉まで出かかった。そんなことを口にしてしまえば、きっとモルテの矜持を傷つけることになる。口喧嘩している暇はない。今は休息が必要だ。
「フォスの話が事実だとしたら、ここには元国民の魔物が跋扈しているはずだ。いつ戦闘になってもおかしくない。魔力を温存した方がいい」
「君の呪いは進行してるんだよ、時間が惜しくないの!? ここで停滞するメリットが僕には分からない!」
疲労で上がった息を整える暇も無い。次第に二人の語気は荒くなっていた。
「ここは安全が確保されてる場所じゃないんだ! 無理に進むことがどれだけの危険を招くか、想像できないのか!」
「無理!? これのどこが無理だっていうの――」
突然の咳が、声を遮った。胸を押さえ、激しく咳き込む様子は止まることがない。息を吸う暇も無さそうで、レネはせめて身体の支えだけでもと思い手を伸ばす。同時に、モルテは下を向いたままがくりと膝をつき、そのまま上半身の支えを失ってレネの方へ倒れ込んだ。
「モルテ!」
とっさに身を乗り出し、相棒を支える。ずしりと体重がかかる。失神したのではないかと嫌な予感がよぎった。
呼吸を確認しようと、腕に抱えたまま顔をこちらに向ける。同時に、深く息を吸い込み荒い呼吸が耳に届いた。うっすらと瞼があき、うつろな視線が合う。
「馬鹿みたい……僕、こんな……ことで……」
「喋るな。横になれるところを探すぞ」
相棒の小さい体を背に抱える。おぶるような形でモルテの両腕を前に出し、捕まるように指示した。

自分の腕は背中側へ回し、相棒の腰を下から支えた。軽く身体を上げて、位置を調整する。普段のモルテなら、同行者に背負われるなど絶対に許さないだろう。しかし今は抵抗どころか、一言も声を発さない。
やはり変だ。身体に、何らかの重大な異変が生じていることは明らかだ。
――せめてどこか、雨風を凌げるところが見つかれば。
心の底から祈りながら、レネは足早に歩き始める。
冷たい雨粒がぽつりと、頬を伝って流れていった。
8.
不安は焦燥となって、歩調を早めていく。
冷たい雨が身体を打つ中、レネはモルテを背負って歩き続けていた。せめて小雨ですんでいるうちにと願っていたが――無情にも、雨足は強まるばかり。
焦る気持ちが脚を前へ前へと繰り出す。歩みはやがて小走りとなっていた。
濡れた衣服は体温を奪う。顔は上気しているが、手先足先はレネですらとっくに冷え切っていた。雨粒が木の葉を打つ喧噪の中に、モルテの呼吸音が耳へ届く。それが途切れていないことだけが、か細い希望だった。
「……レネ」
かき消えそうな、小さい声。普段のモルテからは決して聞けないような声色に、一層の不安が沸く。
「寒いのか? すまない、もうすぐ……」「おろして」
背中から、降ろしてほしい。理由は分からないが、レネは歩みを止めて聞き返す。
「降ろしてほしいのか? どこか痛むのか」
振り向いた視界の隅で、モルテがかぶりを振った。
「もう、いいんだ。ただの荷物になるんなら……捨ててもらった方がましだから」
絶句して、己の耳を疑った。
雨の雑音が、実際とは違う言葉を耳に届けたのではないか。本気でそう思った。
――捨ててもらった方がまし? 何を馬鹿なことを。
唇をかみしめる。モルテの異変にすぐに気づけず、無理して同行させてしまった自分を恨んだ。もっと、もっと早く休ませるべきだったのに。こうなる前に、もっと相棒の体調を配慮するべきだったのに。
――リヴァーディアへ共に向かう、と判断したのは俺だ。だから、こんなことになったのも俺に責任がある。
背負う腕に、一層の力を込める。たとえモルテが背から降りようと抵抗したとしても、離さないように。
「……二度とそんなことを言うな」
静かに叱咤する。その思いは、相棒と、そして自分自身に向けたものだった。
「希少鉱石を見つけるんじゃなかったのか。それに、ここまで一緒に旅して……今更捨てるだなんて出来るか」
「……」
返事はなかった。自分も特に続けず、再び歩き出す。
冷え切ったモルテの腕が、自分の胸をしっかりと抱く。その感触を確かめながら、レネはひたすらに建物を探した。
***
数十分ほど、小走りで雨の中を進んだだろうか。
雨飛沫で濃霧のように霞んだ視界の先に、ふと、くすんだ白が見えた。
「……!」
樹の幹や葉ではない。その方向に駆けて近寄る。煉瓦だ。白い煉瓦で覆われた壁がある。
それは確かに建物だった。外壁しか見えなかったが、左右を見渡すとすぐ先に大きな玄関扉を見つけることができた。モルテを背負ったまま扉に体重を預けると、その大きさにしては意外にも軽い感触で内側へ開いた。
――助かった。
心から安堵して、中へ一歩足を踏み入れる。二人の身体から滴る水音と足音が、広い室内で反響した。
石造りの静謐な空間が、レネ達を迎え入れる。高い天井には木製の梁が渡され、中央から円形に蝋燭を並べた燭台がぶら下がっている。
小さい教会のような印象を与える内装だった。ここは黒き禍殃の侵略を免れたのだろうか、破壊の痕跡は殆ど見当たらない。

モルテを背中から下ろし、床に寝かせる。感触は固いだろうが、それでも濡れる心配がないのはありがたい。芯から冷え切った小さい体を横たえて、額に自分の掌を当てた。やはり熱はない。普通の風邪ではない。
先日の日記に書かれていた肺病の文字が脳裏に浮かぶが、鉱石の粉塵に晒される機会など無かったはずだ。ただの埃でこうなるほど、モルテの気管は弱かったのか? 結論の出ない問答を繰り返しながらも、手を動かす。低体温症に陥る前に、今は乾いた衣服と保温が必要だ。
モルテのローブはもちろんのこと、髪と服もすっかり濡れていた。一先ずローブは外したが、問題はその下の薄緑の服だ。処置を躊躇う時間がないことは十分理解している。理解、してはいるのだが。
モルテと同行を始めてから、ひと月も経っていない。レネの体液に晒されないように、入浴はおろか極力寝食の場所もずらすようにしていた。
相棒は相棒だ。家族ではない。リヴァーディアの情報を与えてくれ、一緒に目的地まで行き、独断で危険を冒すようなことをしなければ、同行者として十分だった。相手の素性にあまり興味を持たない性分のせいで、レネはモルテの年齢も性別も知らない。
「お、おいモルテ」
「……なあに」
――服を脱ぐ余力はあるか。いや、その訊き方はストレートすぎるか。相手は年頃の子供だ、万が一女子だった場合に傷つけない訊き方とは……
「このままじゃ低体温症になる。俺の荷物の中に乾いた布はあるし、これもそんなに濡れてない。だから……」
首から背に纏う、緑色の布を軽く引っ張って説明する。皮肉にもモルテの身体で遮蔽されて、それは雨から殆ど守られていた。普段はマントとして使用しているが、こういう時に使用できるように纏っている。
おずおずした、回りくどい言葉。それは承知の上だが、最適解が見つからない。
モルテは身を起こし、侮蔑の視線でこちらを見た。
「……分かったから向こうへ行ってて」
「あ、ああ」
「早く後ろ向いてってば! レネのスケベ!」
「何だその言い方は! ああもう分かった、後ろを向くから!」
喋っているこっちが恥ずかしい。何を赤面してるんだ俺は、と羞恥心に苛まれながら、レネはモルテが己の背になるように向きを変えた。
緑色のマントを外し荷物の袋も足元に置いた。置いてから、もっと後ろの位置にした方がモルテにとって取りやすいことに気が付く。しかし今、後ろを振り向くわけにはいかない。
「……少し席を外す。数分で戻る」
そう。今は衣服を乾かさなければいけない。あわよくばこの建物の中に薪として使用できるものがあれば暖を取れる。
自分がいない方が、モルテとしても堂々と脱ぎやすいだろう。きっとそうだ。
「勝手にのぞき見しないでよね」
「するか!」
モルテの方向からオーバーに視線を外しつつ、レネは右奥の戸を開けて外へ出た。

9.
――威勢を張れる体力はありそうだな。
レネは後ろ手に、通ってきた両開きの戸を閉めた。背負われているときのモルテの声はまさに消える寸前の灯火のような弱さだったが、室内に入ってからはいつもとさほど変わりが無い。ように、見えた。
実際のところ、あの威勢は殆ど〈虚勢〉なのだろう。今までも、今も、相棒に無理をさせすぎた。
――今日はこのままゆっくり休もう。
正面の階段を上がりながら、レネは思案する。何らかの方法で暖をとって、モルテの体調が確実に回復してから進むつもりであった。呪いを一日でも早く解きたいのは事実だが、相棒を犠牲にしてまで早急に進めたいことではない。
考えていたら、階段を上りきった。上から降り注ぐ雨が頬を濡らす。屋外に出たことに気づいて顔を上げると、灰色の枝の群れが視界を覆いつくしていた。
眼下に、大樹が聳え立っていた。
それは家よりも、教会よりも遙かに高く、城ほどはあるのではないかと思うほどの背丈で枝を伸ばしていた。だが、葉は一枚も見当たらない。灰色に退色した樹皮がささくれている。
大樹は枯れていた。雄大な生命はとうの昔に奪われ、巨大な骸となって墓標代わりに雨天の下で立っている。

レネが立つ床は、大樹を円形に取り囲むように左右へ伸びていた。見上げれば上階も同じように円形に伸び、下層もまた同様だった。建物は円筒形の巨大な吹き抜けを形成し、大樹をどこからでも等しい距離で拝めるような構造となっていた。
根元を見下ろせば、円形の土壌が石で縁取られている。縁石の外側は水路が広がっており、さながら湖の中央に樹だけ生えている島があるようだ。
大樹。
モルテが言っていた。「僕としては、母親を大樹に埋葬したくだりが気になる」と。レネがここに訪れて最初に抱いた、小さな教会という印象は正解のようだ。ここはリヴァーディアにとっての墓地と聖堂の役割をしていたのだろう。
梢を見ると、びっしりと蜘蛛の巣が張っている。何重にも重なった糸は日光を遮り半透明の膜となって、大樹の下に暗い影を落としていた。
「こんな場所に限って……」
巣があるということは主がいる。ゆっくり休む、という計画は変更せざるを得ない。本来はすぐにでも退散したいところだが、モルテがあの状態なうえに天気は土砂降りになりつつある。なるべく主に見つからないうちに、モルテの体調を整えなければ。
モルテを背負っていたせいで、レネの身体はあまり濡れていなかった。しかし冷たい風は雨をレネの身体に吹き付けて、髪や衣服を濡らしていく。
長居は禁物だ。踵を返そうとしたその時、視界の隅で何かがきらめいた。
振り返る。反射するものは何もない、はずだった。
よく見ると、空中に水滴が浮かび、細い糸を伝って下へ垂れていく。その糸の上端は大樹の方へ消え、もう一方の先は――自分の腰へと延びていた。

蜘蛛の糸だ。
気が付いた瞬間、ぐいと強く引き寄せられ、レネの体は宙へ浮いた。
***
半開きのままの玄関戸。隙間から線状に室内へ差し込む外の光をぼんやりと見つめ、モルテは膝を抱えて座っていた。服はすでに脱いでいる。レネが置いていった緑色の布を纏い、保温と回復に努めていた。
どこかに異変はないかと、自分の身体を確認したのは数分前のこと。レネがいない隙にと思い、取り急ぎ見回して――気がついた。
雨の雫は、空から振り落とされては地面に潰えていく。無数に繰り返される落下と消滅の様を茫然と眺めながら、モルテは苦笑した。
「……馬鹿だなぁ、僕」
冷え切った膝に顔をうずめる。
もう、引き返せない。
雨が、地面を一層強く打ち付けた。
10.
宙に浮いたレネの身体は、瞬く間に落下を始めた。
振り子運動のようでいて、それよりも殺意のある墜落。本能的な恐怖感をおぼえた一瞬の後、叩きつけられるように水面を突き破った。
激しい水音が耳を打つ。目を開けば、あたりは鈍色に濁った水で取り囲まれていた。暗く冷たい水が体表の温度を急速に奪う。
前後左右の感覚は狂っていた。どこが上でどこが下か、光も届かず分からない。しかし、こういうときに取り乱してはいけないことは十分理解していた。浮力と重力に身を任せ、周囲を見渡す。
落とされる直前に見た光景を思い出す。大樹と円形の建物。そして、水路。自分が今いるのが水中なら、下層の水路へ叩きつけられた以外にありえない。水路といっても、河のような水流はなかったはずだ。静かに落ち着けば、どこかの縁に捕まれる。
次第に三半規管が感覚を取り戻し、水面と水底が分かってくる。数秒遅れで理解した〈上〉を見上げ、レネは浮上を試みた。
――空気が尽きる前に、早く上へ。
水面の方へ両腕を伸ばしたその瞬間、脚に激痛が走った。
「!?」
肺に溜まったわずかな酸素を失わないよう、固く口を閉じる。見下ろすと、右脚に大きな肉食魚が食らいついていた。一匹ではない。水底から不意に現れたそれは、二匹、三匹、十匹、十数匹と――次々に濁った波から姿を現し、めいめいにレネの身体へ不揃いの大きな牙をむいてやってきた。
ブーツ越しに牙が食い込む。太ももを、腕を、次々と肉食魚に捕捉される。
夢中で魚を蹴飛ばした。水面に上がるどころではない。このままでは引きちぎられて、ばらばらに食い殺される。
藁をも掴む思いで水面へ伸ばした右手が、縁石に触れた。腕力と浮力で自身を引き上げ、顔を水と空気の境界線から出す。
本能で、深呼吸する。萎んだ肺が再び拡張するように、思い切り酸素を取り込んだ。なんとか肺の中の空気が尽きる前に水面から顔を出すことができたが、息が整う前に後方に引きずりこまれた。体が再び陸から離れ、冷たい水の中へ逆戻りする。
自らの出血で、視界は赤く煙っていた。加えて、肉食魚のぎらぎらとした体表が激しく蠢いている。獰猛な魚の筋力と、数の暴力。群れをなしたそれは、食餌を決して水中から逃がさない。
レネの血液は毒性があるのに、魚は一向に息絶える気配がない。それは、この肉食魚たちが普通の生物ではないことを明示していた。
――こいつは、魔物だ……
文字通り、頭から血の気が引いていく。
なんとか振り払おうと、今度は腕を下方へ伸ばした。そこで、見えない何かに手が触れる。
糸だ。糸と呼称するにはあまりにも頑強な操り糸。それが未だなお、レネの腰に巻き付いていた。いつの間に巻かれていたのか見当がつかないが、大樹の梢に巣を張った主の仕業であることは明白だった。
これを切り離さなければ、またここへ戻される。糸で空中につり下げられた人間は、あまりにも無力だ。操り手に身体を委ねるほか無くなる。
――人形扱いするつもりか……!
心の中で悪態をつきながら、右腰の短剣を引き抜こうと左手を伸ばす。しかし、鋭利な牙で部分的に切断された左腕の筋肉は激痛にあえぎ、言うことを聞かない。
もがいている間に、右手が何者かに引っ張り上げられた。一瞬のうちに水面が眼下へ遠ざかり、みるみるうちに離れていく。
数秒の上昇の後、停止した。足先が宙にぶら下がり、赤黒く濁った水が滴っていく。見上げると、右腕に何重にも括り付けられた蜘蛛糸が雨の中で腹立たしく輝いていた。糸の先端は見えないが、おそらく大樹の梢に括られているのだろう。
まさに、危惧していたことが起きてしまった。右腕を吊られるような姿勢で、レネは無防備に宙づりになっている。

「駄目だよ、アネモス」
頭上から声がした。柔和な青年の声だ。そちらの方向を見回すと、大樹の枝の向こう側から、黒い影と長い脚が姿を現した。
巨大な蜘蛛だ。
黒と青がまだらに濁った八本の長い脚が、めいめいに伸びる。頭部の甲殻から突出した、複数の赤い瞳が視線を奪う。
さらに目を引くのが、大きく膨らんだ腹だった。下に抱えるように、巨大な卵嚢が糸で括り付けられている。白い半透明の卵嚢には十数個ほどの薄橙の卵が見え、雨天の薄日を透かして各々が蠢いていた。
優しく語り掛けるような青年の声の主とは、とても思えない。どちらかといえば、母蜘蛛のような魔物がそこにいた。
――『駄目だよ、アネモス』。
蜘蛛の魔物は確かにそう呼んだ。おそらく足元の肉食魚が「アネモス」なのだろう。聞き覚えのある名前だ。フォスが呼んだ人名の一人に、アネモスの名前があったはずだ。だとすると、この蜘蛛は「イスキオス」か「フォティア」なのか?
レネは蜘蛛を観察しながら、何も声を発さずにアネモスの返答を待った。
この魔物たちも、侵略前は人間だったはずだ。おそらく、フォスの知り合いか、同僚か。
こちらは、魔物退治に来たのではない。敵対する理由はなかった。情報が欲しい。もしかしたら、事情を話せばこの状態を脱することができるかもしれない。
肉食魚が、返答する。
「兄さん、どうして! やっと帰ってきたんだ、早くこんな奴殺しちゃおうよ!」
「そうだよ! どうしてわざとぼくから離すの!」
「こっちに返して、兄さん!」
肉食魚それぞれが、口々に叫んだ。モルテとさほど年が離れていなそうな、幼気な少年の声だ。信じがたいことに、その声のどれもが同じ声だった。ひとりの人間が一気に十数個の口を有したかのように、全く同じ声質が方々から聞こえる。
――まさかとは思うが、これすべてが「アネモス」なのか?
めいめいに殺意を孕んだ声を返し、あたりは一気に騒々しくなった。両手が開いているのなら、耳を塞ぎたい。
「アネモス。前にも言っただろう? 彼女はね、裏切り者なんだ」
蜘蛛の長い脚が伸び、レネの首につんと触れる。ひやりと固い感触が走った。
「もちろん生かして返すつもりはないよ? けれど確かめようじゃないか。どうして……」
蜘蛛から発せられる青年の声は、猫を撫でるような優しさを帯びていた。しかし、そこから紡がれる言葉に、レネの背筋は凍った。
「どうして、皆を置いて、自らの責務も捨てて……リヴァーディアから逃げたのか」
11.
――彼女? 逃げた?
話が見えない。今確かに、蜘蛛の魔物は自分を〈彼女〉と呼称した。そもそもアネモス達と自分は初対面のはずだ。恨みを買う覚えはないし買いようがない。
そういえば、魔物化したフォスは自分と母を間違えていた。もしかしたら、この兄弟も――
「ねえイリオス。僕のことが分かる?」
蜘蛛が、顔をこちらに近づけて尋ねた。分かるわけがないだろう、お前と俺は初対面だ。そう返したいが、正直に返したら二秒後の自分がどうなっているかは想像に難くない。
「イスキオスだよ。久しぶりだねイリオス――お腹の子供は元気かい?」
お腹の子供、これはおそらく自分のことだ。だが、蜘蛛の魔物――イスキオスにどうやって返答するのが正解なのか。言葉に悩んだ。
「ああちょっと待ってね。ねえイリオス、僕もきみと同じになったんだよ。もう産まれそうなんだ」
「産まれる……?」
イスキオスは脚をレネの首から離し、糸を吐いて枯れ枝へ器用に飛び移った。レネとアネモス達が見守る中、卵嚢がまとわりついた腹を下方へ向けて天を仰ぐ。
そのまま数秒の静止の後、イスキオスはささやかな声を上げた。それを形容するなら苦悶のような、もしくは一時の嬌声のような短い声だった。小さく叫ぶような声の後、悦びに満ちた吐息が上がったと同時、イスキオスの卵嚢が内側から食い破られた。
卵を破って出てきたのは、魚だった。足元のアネモス達と同じ、牙が並んだ肉食の魚だ。十数匹ほどの魚は枯れ枝から下へ落ち、水しぶきを上げて元々のアネモス達と合流した。
アネモスの数が、倍に増えた。
一体どういう理屈で蜘蛛の卵から魚が産まれるのか分からなかったが、イスキオスは弟のアネモスを孵化させ、数を増やしたのだ。新しく生まれたアネモスと、もともとのアネモスは見分けがつかない。体格すら、どの個体もほとんど大差がない。
これではまるで、〈複製〉だ。
「……随分と気持ちの悪い特技だな」
糸にぶら下がりこちらへ戻ってきたイスキオスに、雑言を吐く。
「気持ちの悪い? そんな悲しいことは言わないでおくれよ。アネモスは脚が悪いんだ。こうして僕が守ってあげないと死んでしまう。それはイリオスだって、嫌だったはずだろう?」
「だからって増やすのか?」
「そうだよ。僕が食べて、卵にして、増やして――そうして守っていくことが、それこそが、愛なんだ」
――愛? 食べて、増やすことが、愛だと?
イスキオスが紡ぐ言葉が、理解できない。理解の範疇をとうに超えて、正気のレールを踏み外している。弟を食餌にすることを、愛という都合のいい表現で正当化しているとしか思えなかった。
「自分のお腹の中で守って……アネモスの鼓動を、体温を、胎動を感じて……。ようやく僕も分かったんだ。自分の中でかけがえのない家族を守ることが、こんなにも愛おしいことだって」
晴れやかな声だった。蜘蛛の口から吐き出される声は、慈愛に満ちた歓びの色を孕んでいた。だからこそ、それが余計に嫌悪感を募らせる。
「イリオス。今の僕なら、あの日のきみの心を分かってあげられる。あの日……」
固く細長い脚が、今度はレネの腹部を小突く。先端が少し刺さり、ちくりと痛みが走った。
「黒い厄災が国を攻めたあの日、イードル隊長と一緒に逃げただろう。それは、お腹の子を守るためだ。もうすぐ産まれる大切な家族を、守り抜きたかったんだ。リヴァーディアの外に逃げることが、禁忌だと分っていても。それでも、きみは規則より家族を優先した」
――禁忌?
イスキオスの猫を撫でるような声のトーンが、冷ややかに落ちてきた。強い怒りと、恨みの念がこもる様に……レネの腹部を小突く脚の先端が、だんだんと強く食い込んでくる。
「〈選ばれし者〉の義務を忘れたわけじゃないだろう? 騎士として、国と民を護る――その責務を放棄して、きみは権利だけを悪用した。リヴァーディアの外側に出たときはどんな気持ちだった? 〈選ばれし者〉でよかった、障壁を通り抜けられる身でよかった……そう思った?」
国の護衛だの、騎士だの、蜘蛛の魔物は想像もしえない単語を提示してきた。この話が事実なら……父は、母は。
――二人は、国を守る騎士だったのか?
黒い厄災がリヴァーディアを侵略した日、二人は自分を守るために、国の護衛の任務を捨てて国外へ逃亡した。森に囲まれた国から逃げて、遠く離れた海辺の地で自分を育て、リヴァーディアを忘れて、平和に暮らして――?
父も母も、昔話をしようとはしなかった。それは、単に母国が滅んだからではなく。自分たちが課された義務を放棄して、呪いにあえぐ仲間も家族も友人も捨て、罪を背負ってリヴァーディアの外へ逃げたから――?
「僕たちの姿を見るんだ。イリオス」
イスキオスは、冷酷な声をレネにぶつける。
「醜いだろう? 僕たちは元の人間の姿など微塵も残っていない、蜘蛛と魚の魔物だ。黒き厄災の呪いが、僕たちの姿を変えたんだ」
「兄さんも、ぼくたちも、苦しんだ。フォスも、フォティアも、アルカ様だって、みんなみんな、苦しんで今日まで過ごしてきた」
「何人死んだと思う? 何人の国民が、きみたちのせいで命を落としたと思う?」
「裏切り者」
優しい声に、怒気が含む。トーンが一段階落ちた声は、深い恨みを帯びていた。
「裏切り者」
「裏切り者!」
「裏切り者! 裏切り者! 裏切り者!」
イスキオスの叫びに、アネモス達の罵声も加勢する。
四方八方から罵られ、レネは耐えられなくなり目をつぶった。
「お前たちは国を捨てた! 障壁を通れる〈選ばれし者〉であることにかこつけて、国を守る騎士のくせに、我が身と子供が可愛くて国を捨てた! 裏切り者め!」
―煩い。
―やめろ、もうやめてくれ。
―騎士? 父さんと母さんが、この国の騎士だった?
そんなこと知らない。聞いていない。
この狂った母蜘蛛気取りの青年と、これ以上対話をする気力はレネには残されていなかった。
12.
「やめてくれ! そんなに魔物の身体が嫌なら、フォスみたいに人間の姿でいればいいだろう!」
吐き捨てるようにレネは叫んだ。喧々囂々としたこの状況を、一刻も早く中断させたかった。怒号が響いたのか、イスキオスもアネモス達も、一斉にしんと静まり返る。ふいに戻った静寂の中、雨の音だけが囁いていた。
フォスも魔物だ。しかし、平時は人間の姿だった。そこまで魔物化を嘆くのなら、なぜ人の姿に戻らない?
「……フォスさん、馬鹿な人」
水面から、アネモスが話し始めた。
「あの人は隠せるから」
「魔物の姿を隠せるから」
口々に、隠すという言葉を呟くアネモス。弟の言葉に添えるように、イスキオスは再び優しく呟いた。
「彼女は隠す能力がある。外見は人でも、本質は僕たちと同じ。その隠す力も長くは持たない」
隠す能力。ようやく合点がいった。何故、フォスが途中で魔物の姿に変わったのか。何故、レネの呪いと右目を封じることができたのか。双方とも、ただ隠蔽していたのだとしたら、フォスと出会ってからのすべての事象に説明がつく。
ただ、その力も長く持たないのなら、この兄弟は今までもずっと――
「黒い厄災の侵略から生き延びた人は、皆が魔物になった。人の体を捨て去り、醜い姿で永劫の時を過ごすんだ。……ねえイリオス。きみたちは逃げたら、その運命から逃げられると思ったの?」
イスキオスは脚を曲げ、固い甲殻の前面でレネの右頬を撫でつける。雨に濡れ、ひやりとした感触が呪いの紋様をなぞった。
「この糸で首を絞めてやる。気を失う前に腹を割いて、中の子供もずたずたにしてやる。その後、ゆっくりアネモスの餌になればいい」
イスキオスが叫ぶ。怒りをぶつけて、尚続けた。
「僕たちはお前を許さないよ。リヴァーディアを捨てて、自分たちだけのために生きるお前たちを、絶対に許さない。イードル隊長も、イリオスも、中の子供だってそうだ。お前達みんな罪人だ。人を愛する資格なんて無い。愛される資格も無い。……無いんだ!」
――愛される資格なんて、無い?
吐きたいほど大量の罵言を浴びせられ、レネの思考は疲弊しきっていた。「人違いだ」と訂正することも、「そんなことは違う」と否定することも、脳内からは消え果ていた。裏切り者だ、罪人だ、許さない、そんな言葉で雁字搦めにされていた。
――最初から、間違っていたのか?
愛を求めることも、愛を見つけることも、最初から許されていなかったのか。そんな資格は、無かったのか。父も母も大罪を犯し、その胎から出てきた自分も、罪に汚れていたのか。それならば、ここで死ぬのが正しいのか。
できることなら昔のように、両親に愛されて育った頃へ戻りたかった。けれど、そんな願い……持つべきでなかったのか。
ぼやけた視界が、イスキオスの瞳を映した。雨に濡れ、赤がてらてらと輝く。
――そうだ、あの時のモルテの瞳も、赤だった――
星空の下。涙に濡れた赤い瞳で、モルテがレネを諭した夜。愛を求める願いを「くだらない」と自嘲したレネに、モルテは赤い瞳で泣きながら訴えていた。
『愛して、愛されたいって……そんなの、当然の願いじゃないか……!』
――そうだ。モルテは、肯定してくれていた。愛を求める自分の願いを、支えてくれていたじゃないか。
――戻らなきゃいけない。寒さに震えながら待っている、相棒の元へ。
レネは意識して瞼を閉じた。雨音に耳を澄ます。身体を打つ雨粒の感覚に、全身を研ぎ澄ます。左腕と脚は噛まれた痛みで熱を帯びている。だが、その痛みがレネを現実へと戻してくれる。
――愛される資格も、愛する資格も無い? 勝手なことを言うな。それを決めるのはお前じゃない。
――ここで死ぬわけには行かない。自分が旅をする理由を、ここまであがいてきた理由を肯定してくれた相棒の元へ、戻らなきゃいけないんだ――
「死ね!」
黒い口を開けて、イスキオスがこちらへ向かってきた。と同時に、レネは右足を高く上げ踵落としの要領で蜘蛛の頭頂を踏みつけた。
「がっ……!」
赤々と光る複数の瞳が下を向き、レネの足元へイスキオスが首を垂れる。
そのまま頭部へ両足をつけ、上へ乗る形で着地した。
イスキオスがなんとかレネを振り落とそうと枯れ枝の上で暴れるが、それは想定内だ。上方へ体を反らしてくれたおかげで、ようやく両膝を曲げることができる。イスキオスの頭部へ跪くように座ることができた。
たわみができた右腕の糸を引き下げ、腰の糸と一緒に右手に巻き付けた。アネモスに噛みつかれた左腕の激痛をこらえ、なんとか短剣を引き抜く。そのまま右手に巻き付けた糸を、切っ先で切り離した。
13.
これで自由だ。すぐさま、短剣を右手に持ち替える。暴れるイスキオスの頭部と腹部をつなぐ関節めがけて、逆手に勢いよく振り下ろした。
「ガアアアア!!」
「兄さん!」
手応えはあった。赤紫の体液が傷口から吹き出し、大蜘蛛は一層激しく暴れる。両腕で頭部を抱え込んで、なんとか振り落とされないようにしがみついた。
眼下にはアネモスが待っている。水面に落とされれば、命はない。
もう一撃。右腕を振り上げたそのとき、背後から声がした。
「レネ! こっちだ!」
吹き抜けの外回廊に、モルテが立っていた。相変わらず肩で息をしていたが、言われたとおりにちゃんと緑の布を羽織っている。裾から右手を出し、魔導書を構えていた。
「お前……! なんでここに!」
「『待ってろ』とは言われてないよ!」
――屁理屈だ。だが、確かに「待て」とは言わなかったな。
どちらにせよ、おそらくモルテはここへ来ていただろう。まっすぐにレネを見つめる、モルテの夕焼け色の瞳。あまりにも綺麗で、眩しかった。
『萌芽!』
外回廊から、大樹の方向めがけていくつもの太い蔓が生えた。モルテの魔法の効果だろう。蔓は互いに絡み合って強固な足場を形成し、レネをモルテのそばへ誘導するように伸びた。イスキオスから離れ、蔓の上に飛び移る。
「逃げるな! 裏切り者!!」
後ろから、柔和な青年の声とは思えない叫びが聞こえた。蔓の上を走りながら確認すると、イスキオスが長い八本脚を繰り出してこちらを追っていた。
モルテと合流する前に、イスキオスを食い止めなければいけない。相棒は万全の状態ではない。それに、詠唱には時間がかかる。レネは振り返り、蔓の上で立ち止まった。短剣から長剣に持ち替えて、構える。
赤紫の体液を頸から垂れ流し、八本の脚をもつれさせながらイスキオスはこちらに迫っていた。蜘蛛の頭部にはめ込まれた幾つもの瞳は、燃えるような赤だ。表情は見えないが、執念と憎悪で塗りつぶされているのだろう。
家族を守りたい。
イスキオス・アネモスも、イリオス・イードルも、その気持ちは同じだったはずだ。片方は呪いで醜い姿へ変えられ、もう片方は人の姿のまま息絶えた。
――母の胎に自分が居なければ。侵略の日、両親は武器を取って仲間と共に国を守っていたかもしれない。侵略者を撃退できれば、自分は両親とリヴァーディアに居たのだろうか。平和なリヴァーディアで、イスキオスやアネモス、フォスとも、穏やかに談笑している未来があったのかもしれない。
両親を国の外へ導き、両親の命を絶ち、かつての仲間に憎悪の念を抱かせた。そのどれもが、……その、どれもが、自分のせいだ。
――だけど、それでも。
「……すまない」
レネは視線を伏せて呟くと、薙ぐようにイスキオスの前脚を斬った。
「ぐっ――」
バランスを崩して、蜘蛛が水面へと落ちる。
その瞬間を、モルテは逃さなかった。すでに詠唱は完了している。

『――雷鳴』
鼓膜へ響く轟音と、思わず顔を覆う閃光。あたり一帯を瞬時に覆い、一筋の稲妻が大樹を取り囲む水面へと落ちた。

