14.
モルテの放った雷撃は、水中のイスキオスとアネモス達を貫いた。
激しい電撃。脊髄に、脳に、殴られたような衝撃が貫く。痛覚すら認識できないほどに、全身の神経がはじけ飛ぶ。複製されたアネモス達のそのどれもが、同様に雷撃を受けた。免れた者は一匹としていない。
アネモス達の意識は、瞬く間に霞んで遠ざかっていく。視界がぼやけ、兄によって複製された自分たちで埋め尽くされた光景が、混じりあって濁っていく。
――どうして、こうなったんだっけ。
鈍麻した思考回路で、アネモス達は思った。
――こんなはずじゃ、なかったのに。
枯れ果てた大樹の根元で、蜘蛛の姿になった兄と過ごす日々。毎日のように自分たちの誰かが兄に捕食され、卵になり、数が増えて水中へ還る日々。
いつしかそれが正しきことだと思うようになっていた。兄に食べられ、兄の胎の中で一つになり、卵嚢のゆりかごで眠る。別の魔物に襲われても、兄が自分を増やしてくれれば、問題ない。死が自分たちを分かつ日は、絶対に訪れない。
これでいいんだ。これで、ぼくと兄さんはずっと一緒に――
――本当に、それでよかったんだっけ?
そうだ。頭蓋に駆けるこの衝撃。〈あの日〉の戦いで受けたときと、似ている。
それは、アネモスとイスキオスが人の姿でいられた最後の日の記憶。
黒い厄災が侵略し、リヴァーディアが滅んだ日の、記憶。
***
魔物が放った蔓の鞭は、いとも容易くアネモスの車輪付きの椅子を破壊した。
派手な音を立てて砕けた座面から放り出され、アネモスの身体は背後の瓦礫へと打ち付けられる。後頭部が瓦礫の角へぶつかり、火花が飛ぶほどの衝撃を受けた。
思わず手を当て、出血を確認する。一つに結った金髪と右手から、鮮血がしたたるのが見えた。
「アネモス!」
視界の前方で、イスキオス――兄が、槍を構えながらこちらを振り返る。
大丈夫、と言いたかったが、ガンガン響く頭痛と高熱で声を出すこともままならない。
アネモスの瞳が赤く染まったのは今朝のこと。昼前には全身に紫の紋様が浮かび、それが隙間なく肌を埋め尽くしたと殆ど同じタイミングで高熱が始まった。狼狽した兄はフォスへ魔導具で連絡を試みようとしたが、何度かけても応答がない。
仕方なく二人は自室を出て、同じ棟のフォスの自室へ向かっていた。その途中で大型の魔物に遭遇し、戦闘を余儀なくされたのだ。
槍を操るイスキオスをサポートし、魔物に魔法で攻撃するのはアネモスの役目だ。だが、何度詠唱しても、アネモスの魔法は発動しない。いつの間にか視界は黒い霧がかかり、高熱のせいで敵をしっかりと視認することすらやっとのことだった。
――ぼくだって、騎士なのに。
茨と蔓を生やし、巨大な毒花を咲かせた大型の魔物。協力するどころか、足を引っ張っている。情けない。あまりにも、今の自分は無能だ。
兄に詫びようと口を開いたと同時、アネモスとイスキオスの魔導具が光った。オウルムの細工に宝石をあしらわれたそれが光るということは、通信用の魔法による着信が入ったことを意味していた。
イスキオスは応答する暇がない。アネモスもそれどころではないが、思わず魔導具に応答してしまった。
そこから聞こえた声は、まぎれもない悲鳴だった。
「アネモス様、襲撃です! 至急南門へお願いします! 何者かが、黒い焔を!」
着信はそこで途切れた。同時にまた別の着信が入る。そちらも応答すると、全く別の場所での救援要請だった。城内に出現した、大型の魔物。同時に、襲撃と救援の要請。あまりにも異様だった。緊急事態が多発している。
――何が、この国でいったい何が、起きているの?
着信を切り兄の方を見上げると、兄の槍が毒花の魔物の身体を貫いていた。赤紫の返り血も厭わず、兄は槍を引き抜き何度も魔物に突き立てる。
「兄さん……! 救援要請だ! 南門と居住棟と……大審院の方からも!」
イスキオスは魔物が絶命したことを確認すると、こちらを振り返った。返り血を軽く袖で拭い、槍を背中に背負う。アネモスを抱えようと両手を伸ばすが、アネモスはその手を制した。
「兄さん、ぼくを置いて、行って」
――ぼくなんて、いない方が。
魔法も使えない。それどころか、高熱で意識をつなぎ留めておくこともままならない。それなら、自分を置いて、兄一人で民の救援に向かってもらった方が。このままでは……以前からそうだったが、完全に兄のお荷物だ。それならば、せめて。
しかし、兄は両手をアネモスの肩に置いて言った。泣き出しそうな顔を横に振り、アネモスの提案を否定する。
「アネモスを置いてどこへ行くというんだ……! そんなことを言わないで。僕がアネモスも、助けを求めている人たちも守るから」
「でも、兄さん……」
「駄目なんだ……アネモス、きみがいないと……きみがいないと、僕は……」
イスキオスの手に、力がこもる。指先がアネモスの肩に食い込んだ。イスキオスの声は震えていた。
――ぼくがいないと、兄さんは?
違う。それは違う。アネモスは理性と本能の両方で、兄の嘆願を否定する。
――ぼくがいない方が、兄さんは戦えるじゃないか。いつだってそうだ、ぼくを守って、ぼくを助けて、ぼくをかばって。そんなの完全に、お荷物じゃないか!
捨ててくれた方が。置き去りにしてくれた方が、楽なのに。どうして?
「アネモス。きみは僕の弟なんだ。たとえ魔法が使えなくたって、立てなくたってかまうもんか。きみが傍にいてくれれば、それだけでいいんだよ」
涙で濡れた緑の瞳が、まっすぐにこちらを見つめた。角膜に光が反射して、とても、綺麗だ。
イスキオスはアネモスの肩と膝の下にそれぞれ腕を入れ、しっかりと抱きかかえた。何度も感じた、兄の優しい体温と息遣いを、全身で感じる。
「これで……これでいいんだよ、アネモス。何もできなくたって構わないさ。きみの価値は、きみの存在理由は、それだけじゃないんだよ」
「これで、いいの……?」
高熱で蕩けた思考は、兄の甘言を受け入れる。

「……いいよ。アネモス、一緒に行こう」
――これで、いいんだ。
――兄さんと一緒に居られるなら……それで、いいんだ。いいんだよね。
アネモスはそっと目を閉じた。
囁くような兄の言葉を繰り返し、繰り返し受け入れていた。
15.
リヴァーディアで兄と共に騎士をしていた頃は、いつかこの脚も治って、昔のように兄の隣で立って笑いあえるような、そんな未来を夢見ていた。
だが今はどうだ。この魚の姿はどうだ。兄の隣に立つはずの脚も、抱きしめてくれる兄を抱き返すはずの腕も、もうない。兄が喜んでくれた笑顔も、もうできない。
何もない。何もできない。それでも兄は、そんな自分を想って、いつでもそばにいてくれた。
嬉しかった。兄に愛される悦びは、いつしか過去の自分が抱いていた目標を甘く融かして流していった。兄を支えたい、対等に立ちたいという夢は、いつの間にか形が崩れて蕩けていった。
――こんなはずじゃ、なかったんだ。
――これじゃ、だめだったのに……。
***
モルテの雷撃を受けたアネモス達は、水面に次々と浮かんだ。腹を上にして力なく浮上する魚の群れは、円形の水面の大半を埋め尽くす。イスキオスも同様に水面から浮上するが、八本の脚をもつれさせながら辛うじて自力で陸に上がった。
「あ、ああ、あああ……アネモス……」
動物が池の水を飲むように、巨大な蜘蛛が水面に顔を近づける。一匹のアネモスを複製しようと、黒い口と触腕を動かし、なんとか拾い上げようとしていた。
しかし、アネモスは息絶えていた。イスキオスの口の中で黒い焔が燃え上がり、ぐずぐずに崩壊した少年の遺体が蜘蛛の口角から零れ落ちていく。
「あ、ああああ、ああああああ」
見る影もない。一塊の灰は雨に穿たれて、地面と水中に黒い汚れとして沈んでいった。
イスキオスの悲鳴が激しい雨音にかき消される。階下に降りながら、レネとモルテは項垂れる蜘蛛を見下ろしていた。
レネとモルテがイスキオスのそばにたどり着いた、その時だった。
「……っ貴様あああああ!!」
イスキオスが顔をあげ、レネの方へ飛びかかってきた。悲鳴が混じった慟哭があがり、レネの視界を覆いつくす。
レネの反応は早かった。イスキオスの腹部めがけて剣を振り上げ、突進をはじき返す。一瞬の隙を見逃さず、切っ先を返して頸へ思い切り突き刺した。
「がっ――」
赤紫の体液。そして、刃を伝って感じた確かな手ごたえ。甲殻も、中の体組織も確実に断裂された感触と共に、イスキオスの短い断末魔は途絶えた。
赤い瞳から、光が失われていく。イスキオスの意識は、急速に遠ざかった。
――アネモス。きみがいないと、僕は……僕は、だめだったのに。
――アネモス。僕の、最愛の、弟。
――きみが居てくれたから。きみが僕の隣にいてくれたから、僕は……
――僕は、騎士でいられたんだ。
それは、リヴァーディアが襲撃に遭うよりも少し前のこと。
まだ自分たち騎士が、七人で活動していたころの話。
16.
アネモスが眠ったのを確認し、イスキオスは部屋の明かりもつけずに外套を纏った。窓の外を見上げ、空模様を確認する。今日は新月。黒い服を纏い、人目を忍んで活動するのにこれ以上の好機はない。
音を立てないように、そっと自室のドアを開けて外へ出た。鍵を取り出し施錠しようと振り返る――その時、ドアノブに提げられた麻袋を見つけた。
外して中を確認する。開封すると微かに生臭いにおいと、冷たい空気が漂った。
魚だ。王国の中央に走る河から獲れる魚が、一匹中に入っている。
「どうして、これが……」
イスキオスは目を疑った。
――ちょうど、これを獲りに行こうとしていたのに。
「今晩は」
背後からの声に、イスキオスは咄嗟に振り返った。
見慣れた人影だった。病的なほどの痩躯に、女性のような長い黒髪。ちょうど男性の平均身長ほどはあるイスキオスが軽く見上げなければいけないほどの長身。同じ騎士の仲間である、セリーニがそこに立っていた。
「……この魚は、きみの物かい?」
室内のアネモスに聞こえないよう、イスキオスは声色を落として尋ねた。
「その通り。だが、たった今を以てそれは君の物になった」
相変わらず、何を考えているのか読み取れない微笑だった。セリーニは表情を崩さず、イスキオスの方へ一歩、また一歩と徐に近寄る。
「セリーニ。お見舞い品のつもりかもしれないけど、生憎これは食用じゃ――」
「知っているさ。血液に神経毒が含まれていることは、薬学を嗜んでいる者なら常識。……転じて、有用な毒薬の原料となることもね」
イスキオスは目を見開いた。麻袋を開封したときにまさかとは思っていたが。
ばれている。いつのまにか、知られている。
「……どうして」
「アネモスの脚について、少し考えれば解ることだ。フォスの治療が効かず、軽快と悪化を繰り返す。説明がつくのは難治性の病か、若しくは……近親者の恣意的な処置。その何方かだろう?」
セリーニの切れ長な瞳が、こちらを捉えていた。視線に全身を絡めとられ、一歩も動けなくなる。
「……僕を告発するのか?」
「まさか! そんなことをしたら、優秀な騎士をまた一人喪ってしまう。弟君も、慈愛と献身に溢れた兄と離れ離れだ。誰も幸せにならない」
薄い唇を開けて、セリーニは嗤った。
告発するつもりでないなら、どうして彼はこの場にいるのだろう。昔からそうだったが、彼の言動や目的を理解できない。それが余計に畏怖と焦燥を煽って、背筋が凍りそうだ。
「なら、どうするつもりだ?」
セリーニの返答はない。代わりに差し出されたのは、セリーニ自身の右手だった。白く細長い指が、イスキオスの髪を撫ぜる。ひと房だけ長く伸ばしているイスキオスの金髪を掬い上げて、くるくると指に絡ませた。
「協力してあげよう。私が定期的にその魚……若し怪しまれるのであれば、精製した毒そのものを君に提供する。私は君の行動を固く秘匿することを約束しよう」
「信用できない。それは、きみに何のメリットもないはずだ」
「あるさ! 穏やかで優秀で、仲間を守りながら槍を振るう騎士の鑑である青年は、己の立場を確保するために弟の脚を傷つけていた! こんなに面白くて興味深い事実が他にあるか?」
イスキオスは返答できなくなった。セリーニの口から発せられた言葉一つ一つが、残酷なほどに真実を描いていた。勘違い、事実誤認、すがりたくなるようなすれ違いはただの一つもない。セリーニは完璧に、イスキオスを理解していた。そのうえで、掌の上で転がすように彼の弱みを握っていた。
視線も、口も、呼吸すらも。すべてを握られて、このまま押し潰されそうだ。
硬直したイスキオスの肩に、セリーニはそっと手を置く。耳に顔を近づけて、優しく優しく、囁いた。
「見ていてやろう。だから……どうか、そのまま続けて?」

――不安だった。
同じ〈選ばれし者〉なのに、僕と弟ではこんなにも才能に差があることに。
リヴァーディアの子供は、一定の年齢を迎えると試練を受ける。国土を覆う魔法障壁に触れさせ、身体が通り抜けるかを試すのだ。普通ならば、通り抜けなどできない。元来、魔法障壁は内外の人の往来を断絶することが目的だから、それは当然のことだった。
しかし、数年に一人のペースで障壁を通過できる子供が現れる。〈選ばれし者〉と呼称されるその者たちは、豊かな生活と引き換えに騎士としての活躍を義務付けられる。
イスキオス、その弟、アネモス。二人も、騎士としての活躍を強いられた兄弟だった。だが、魔法の才もなく、他の騎士ほどの力もないイスキオスは、自らの立場を確保するために一つの方法を選んだ。
神経毒。
脊椎から腰の神経を狙って注射すれば、下半身の神経が侵されて脚の麻痺を狙えるという。もともとは脚の怪我を処置する際に、麻酔として使用されるこの手法をイスキオスは悪用した。
アネモスを睡眠薬で眠らせ、寝ている間に注射器で腰に毒を入れる。毒を入れた後は注射針を抜き、しっかりと片付けた後、弟の頭を撫でながら隣で眠るのだ。
弟の寝息を感じ、弟の体温に触れ、微睡みの中に落ちていく。その感覚は至福以外の何物でもなかった。
――アネモス。ありがとう。きみがいてくれるから、僕は……僕は騎士でいられる。
――きみがいないと駄目なんだ。きみが僕のそばにいてくれるなら、僕は……
17.
大蜘蛛の身体は脱力し、赤紫の体液を垂れ流しながら地面に横たわった。数秒の後イスキオスの身体も燃え上がり、灰から青年の遺体が姿を現した。
レネは視線を伏せる。リヴァーディアに住む民も、黒い厄災の被害者だ。だれもこんな未来を望んでいなかった。明日も平和に笑いあえる日が来ると、そう信じていたはずなのに。
土砂降りと形容するほどの雨が、厳しくレネを打ち付けていた。アネモスに噛まれた腕は痛み、イスキオスに投げかけられた罵詈雑言で心も打ちのめされていた。
「戻ってまた服を乾かすぞ、モル――」
喋りながら振り返ると同時。相棒の身体がぐらりと倒れ、レネの足元へばたりと倒れた。
「モルテ!」
呼びかけながら肩を叩く。浅く長い呼吸をしているが、顔は白く体温をまったく感じられない。
レネが貸した緑の布がはだけ、首から胸にかけて白い肌が露になっていた。
「え……?」
見間違いだと思いたかった。
傷口か、土汚れか、はたまた似たような入れ墨か。
モルテはリヴァーディアになんの縁もゆかりもない。だから、そんなことはあり得ない。絶対に、ありえない。
しかし何度目を凝らしても、それはそうとしか思えない模様を描いていた。
モルテの肌に、紫の紋様が浮かんでいる。それは紛れもなく、自分と同じ、呪いの証だった。


