永劫のアナスタシス(通常版) 第一章

1.

そよ風に揺れる木の葉の音を、二つの足音が切り裂いた。

昼下がりの穏やかな木漏れ日を遮るように、二つの人影が全速力で走り抜ける。彼らは逃亡者だ。二人とも荒い息を吐きながら、後方にいる追跡者の視界から逃れようと、必死に脚を動かしていた。

後頭部で一つに結わえた長髪を揺らし、青年は走りながら背後を振り返る。自分のすぐ後ろに、ちゃんと相棒がついてきていた。しかし幼い相棒の疲労は、既に限界に達しているようだ。顔をしかめ、頬が紅潮している。
青年は、そのさらに後ろへ注視した。四つ足を繰って木々をかき分け、口から牙をのぞかせながら、こちらに走り寄る黒い追跡者――熊が、追ってきていた。

森林を歩いていたところ、視界の前方にいた獣に気がついたのはほんの数分前。向こうに気づかれる前に退避しようとしたが失敗し、現に今、こうして追いかけ回されている。

「レネえ! ま、まだ追ってきてる!?」
レネ、と呼ばれた青年は、背後の子供に返答する。
「ああ! もう少し走れるか!?」
「もう限界だよ!」

子供はそう叫びながらも、走る速度を落とさずに腰へ手を伸ばし、鞄の留め具を外す。中からとりだしたのは、一冊の分厚い本だった。茶色の地に金色の文字をあしらい、表紙にも裏表紙にも円形の複雑な図形が描かれている。小さい手には似つかわしくないほど重厚な装丁だ。
レネは、それが何の本であるか知っていた。魔導書だ。あらゆる攻撃魔法の呪文が、それには記されている。走るだけで限界だと思っていたのに、まさか魔法を放つつもりなのかとレネは目を疑った。

「おいモルテ、走りながらできるのか?」
モルテと呼ばれた子供は、本の中身をめくりながらも足を止めない。
「当たり前だよ! 僕は偉大な、魔導師になるんだから、これくらい!」
虚勢を張りながらも、やはり息は上がっている。

本当に大丈夫だろうか?
熊から逃走しながら、レネはもう一度後ろを確認した。距離が先ほどよりも縮まっている。体格からしてまだ幼いが、それでも熊は熊だ。もしも追いつかれた場合の顛末を想像したくはないが、その〈もしも〉は目と鼻の先まで迫っている。

モルテの声が聞こえる。詠唱だ。手に持つ分厚い魔導書が、レネの視界の隅で淡く光を帯びはじめた。
「ちなみに、火炎魔法じゃないんだろうな!? ここで放ったら森林火災だ!」
モルテは肯定も否定もしないまま、続けた。聞こえていないわけはない。おそらくその辺はちゃんと配慮しているのだろう。モルテの攻撃魔法の詠唱が終わるのが先か、熊に追いつかれるのが先か――
そう思案した瞬間、レネの視界からモルテが突然消えた。

「!?」
走り去っていく光景の斜め下を見る。モルテは蔓に躓き、うつぶせに倒れていた。
「おい馬鹿……!」
すぐに戻り、小さい体躯を拾いあげて脇に抱えた。もう一度振り返り、また走ろうとする。しかし、距離も時間も足りない。熊はもうすぐそこだ。
――こうなったら。

「モルテ! 受け身だ!」
そう言い放ち、視線は熊を捕らえたまま、レネは相棒を真後ろへ放り投げた。小さくて軽いモルテの体は一瞬宙に浮く。
「え、ちょ、レネえええええ!?」
がさがさがさと音がした。下は土と草木だ。受け身がとれなくても死にはしない。

モルテを放り投げた右腕を、自分の左腰に伸ばす。剣へ触れようとするが、間に合わない。すでに熊は大きな口をあけ、その鋭そうな牙でこちらへ飛びかかっていた。
「く……!」
抜刀をあきらめ、とっさにレネは左肘を前へ突き出す。顔を守るように差し出した腕に、熊は勢いよく噛みついた。
「……っ!」

激痛が走る。腕の半分を覆うようにレザーの装甲をつけているものの、大きな牙は肉まで貫通して離さない。焼けるような感覚とともに、牙と肉の間から血がしみ出していた。腕を伝い、牙へと流れ、熊の口腔を赤黒く染め上げる。
苦痛に顔をしかめながら、レネは懇願した。

――頼む、早く効いてくれ・・・・・・・

それと同時に、低い叫び声を上げながら熊は口を離した。レネの左腕を解放し、黒い巨体はそのまま地面に伏せる。口と目から赤い体液が流れていた。びくびくと数秒間痙攣した後、ぴくりとも動かなくなった。

熊が絶命したのを確認し、安堵の息を吐いた。それと同時に、後ろから軽い足音が近寄る。
「レネ、また無茶して! すぐ洗わないと化膿しちゃう」
そう言いながらモルテは手を伸ばす。手当てをしようと差し出された手を、レネは右手で振り払った。

「触るな」
相棒の両手がぴくりと止まる。言葉を失って、押し黙っている。
「知ってるだろう。触れたら、ああなるぞ」
レネは言い放ち、遺体を一瞥した。それは、言葉通りの意味だった。背後には、自分の血に触れたせいでたちまち命を奪われた獣がいるのだから。

左腕からは、まだ静かに血が流れていた。右手で水が入っている瓶を取り出し、親指と人差し指でコルクを外す。

「手当くらい自分で出来る。離れていろ」

2.

小鳥のさえずりで目が覚めた。

レネは身をゆっくりと起こす。朝のやわらかな光を透き通して、木々の梢がさわさわと揺れていた。森の中を進んで数日が経つ。小さい倒木を見つけて枕代わりに寝るのも、すっかり慣れてしまった。

「おはよう、レネ」
声の方を見ると、モルテが歩み寄ってきた。先に起きていたようだ。
「傷はどう?」
そういえば昨日熊に噛まれたんだった。幸いにも痛みはない。大丈夫だ、と言いながらレネは後ろの土を見る。そこは、昨日傷口を洗い流したところだった。血に混じった水が地面に垂れて、生えていた草木が枯れている。

レネの体液は毒性を帯びる。
口に含めばたちまち血が溢れ、数秒の後に死を迎える。肌に塗りつけただけでは平気だが、粘膜や傷口から侵入した場合は少量でも致命的になる。元からこうではない。七歳のある日を境に、こうなってしまった。年月が経過するにつれ、血液だけではなく唾液や汗も反応するようになった。

熊ですら命を奪う猛毒を抱えながら、レネ本人はいたって健康だ。しかし、自身の身体には確かに毒が流れている。毒性の高さは徐々に進行し、周りの命を枯らしていく。単なる病では説明がつかなかった。この事象を正しく形容するならば、これはきっと《呪い》なのだろう。

「レネ、お腹すいたでしょ?」
モルテはフードの中から果物を取り出し、こちらへ一つ放り投げた。右手でキャッチする。黄色くて丸い身を、レネは皮も剥かずに一口かじった。甘酸っぱい。良く熟れている。
モルテは隣に腰をおろし、自分の分の果物を取り出した。
「ん、おいしい」
レネと同様に皮ごとかじりながら、にこにこと食べ始める。

「モルテこそ、昨日転んだ傷は平気なのか?」
「ちょっと擦りむいただけですー。それより、どこかの誰かさんに投げ飛ばされたおかげで背中が痛いんですけど」
恨みがましく言われた。そこまで昨日のことを根に持ってるのか。
「まあ、僕は自分に治癒促進の魔法をかけてるからじきに治るけど。レネは僕の治癒魔法効かないんだから気をつけてよね」
「はいはい」

自称、偉大な魔導師の卵。モルテは自分をそう表現し、魔法に関することに誇りを持っている。しかし、それでもできないことはあるようだった。呪いを受けた自分の身体は、モルテの魔法の理から外れているらしい。
「でも、安心してよね。次に熊がでたら噛まれる前にやっつけてやるから」
「どうだか」
「大丈夫だよ。僕、強いから」
にやりと、夕焼けに似た色彩の瞳を細めてモルテが笑った。ずいぶんと得意げだ。出会って半月――だいぶ対応に慣れてはきたが、未だにこの小さな相棒に振り回されている気がしてならない。

気づかれないようにため息をついた横で、モルテに尋ねられた。
「魔力の強さはどう?」
レネは後頭部の紐をほどき、眼帯を外した。

青緑の左目とは明らかに違う、黒と赤の色彩に染まった右目が姿を現す。レネは両目で西の方角にあたる川の上流を見つめた。

「……ああ、やっぱり強くなってるな」
「そっか。なら、方向は間違ってなさそうだね。良かった」
レネも頷き、眼帯を再び装着する。

呪いの影響はレネの体液だけではなく、右半身も蝕んでいた。生来青緑だった瞳は右のみ赤く染まり、普通の人間には見えない魔力をとらえるようになっていた。それは魔導具にも、魔物にも反応した。レネの視界はモルテ自身と魔導書にも反応しているが、あきらかにそれらとは違う波動が川上から流れている。上流へ進めば進むほど、強く濃くなっていた。
眼帯を外したままにするより、間欠的に見たほうが魔力の強さの変化が分かりやすい。川の上流にそって進んでは眼帯を外し、もう少し進んではまた眼帯を外すことを繰り返していた。

「モルテ。やっぱりこの魔力はリヴァーディアから来ているんだろうか?」
「多分そうだと思うよ。そこの先住民は魔法の扱いに長けていたらしい。この大森林の中に、リヴァーディア以外で明らかになっている集落や居住地はないんだ。そこからの魔力だと思うのが、一番自然だと思う」
なるほど、とレネは頷く。
「それなら、やっぱり向かうしかないな。食べ終わったら出発しよう」
「そうだね――リヴァーディアにレネの呪いを解く方法があるのなら、一日でもはやく到着したほうが良い」
「同感だ」

レネは果物の芯を傍らに置き捨て、眼帯を右目に当てた。

――この右目が元の色に戻るのなら。この体液が、人の命を奪わないものに戻るのなら。森の中だろうが、火の中だろうが、どこへだって行ってやる。

後頭部で眼帯の紐をしっかりと結び、レネは立ち上がった。

3.

「ここだ」
眼帯を右手に持つ。両目で眼前の景色を見つめながら、レネは言った。

二人の正面には普通の森林の光景が広がっていた。しかし、レネの呪われた右目は違う。薄赤色の障壁が、すぐ目の前に張り巡らされていた。上端は木々の梢に隠れて見えない。左右の端も視界の奥まで伸び、森の陰へと消えていた。障壁は半透明で奥の景色が透けて見えるが、内側もさらに森が続いている。障壁は明らかに大森林を内側と外側に区切り、外部との交通を阻んでいた。

「この障壁から強い魔力を感じる。俺がずっと感じていた魔力の源はここだ」
その言葉にモルテは首をかしげていた。どうやら何も見えていないようだ。普通の森の景色が、奥まで続いているように見えるらしい。
「レネのいう景色が本当なら、かなり大きい障壁だよ。こんなの、誰が張ってるんだろう……」
手を下顎に当てて考える。長考する相棒の横で、レネは一歩前へ歩む。

「触れてみるか」
「え」
ちょっと待って、とモルテが言う前に、レネは右手を前へかざした。一瞬の抵抗を感じた後、手は障壁の奥へと通り抜けた。痛みも何もない。どうやら歓迎してくれるようだ。

「……何も起こらないな」
後ろでモルテは口をぱくぱくさせつつ、レネの顔を覗き込む。
「なにも、起きてないの?」
「ああ。右手だけ奥へ通り抜けた。このまま進めそうだ」
そう喋りながら、レネは奥へ一歩進んだ。さきほどの抵抗を一瞬だけ全身へ感じ、障壁の奥へと入り込んだ。

「大丈夫だ、モルテ。来い」
レネは振り返る。赤い半透明の障壁の奥で、絶句しているモルテが見えた。
「……そこで立ってても変わらないぞ」
「君って、慎重なんだか大胆なんだか分かんないよ」
モルテは独りごちて、障壁の内側へと一歩進んだ。

***

外側と同じ景色が、奥にも続いていた。鬱蒼と茂る木々を避けながら、二人は奥へ奥へと足を運ぶ。レネの後ろをついて歩くモルテが、ふと顔を上げた。そのまま突然レネを追い越し、前へ走りこむ。
「見て、レネ。看板だ」
小さい手が指す方向に、木製の看板が見えた。枝と板を組み合わせただけの、簡素なものだ。こちらから見ると、看板は後ろ向きだ。モルテと一緒に表へ回り込んで、書かれている文字を見る。

「……『ここから先 障壁』」
かすれているが、見慣れた文字だった。板も古びている。あまり新しいものには思えなかった。
「看板があるってことは、ここには人が住んでるんだ! やっぱりここはリヴァーディアなんだよ!」
相棒の笑顔が輝く。自分の中にある仮説が真実みを帯びてきたことが、よほど嬉しいらしい。

レネもその気持ちは一緒だった。幼少期に呪いが発現して、それから長年呪いを解く方法を探して様々な地を旅してきた。しかし、決して実りの多い旅路ではなかった。モルテと出会い、情報を得て、ついにここで有力な手がかりを掴もうとしている。

だが、これまでの旅人としての経験が、自身の心の奥底で警鐘を鳴らしていた。
相手は巨大な障壁を張れるほどの高等な魔法を持ち、警戒を怠らない集団だ。その魔法障壁も、野生動物用にしてはあまりにも規模が大きすぎる。大森林を歩いて何日も経過しているが、二人は魔物に一度も遭遇していない。自然に考えるなら、これは《人間》を阻むものであろう。では、何故二人とも通過できたのか。

「……どうして俺たちは、障壁の中へ入れたんだ?」

意気揚々と進むモルテの後ろで、レネはぼそりと呟くのだった。

4.

冗長な森林の風景が、延々と続いていた。モルテが発見した看板以外の人工物は見つからず、障壁の外側と変わらない視界ばかりが広がっている。そんな光景が終わったのは、日が傾き始めていたころだった。

景色の奥に、それは現れた。枝葉の隙間から見える、茶色の大きな影。近づくとそれは民家の外壁だった。さほど大きくなく、木材を粗雑に組んだものであったが、確かに家だ。屋根も壁も蔓に飲み込まれ、戸や窓は壁から外れて落ちている。中は当然無人だったが、埃に埋もれた机やベッドが残っていた。
上の埃を取り払いながら、改めてレネは室内を確認する。

机の上には食器。さらにその中は、変わり果てた食物が黒く固着している。衣装箪笥クローゼットの中には、比較的清潔な服と布が綺麗に畳まれていた。
違和感をおぼえた。年月こそ経過しているが、何もかもが残りすぎている。

「モルテ。どう思う?」
「何かあったのは間違いないでしょ。避難しようとして、間に合わなかったってところかな」
そう話しながら、モルテは部屋の隅を指さした。床に細かい破片が取り残されていた。小さく散らばったそれは茶色く薄汚れているが、おそらくもともとの色は白なのだろう。一つをモルテが拾い上げ、自分の口元へかざした。

「どうみても人間のだよ、これ」
破片は斜めに砕かれていたが、上端に歯と思しき突起が並んでいた。下顎の骨だろう。丸い臼歯が綺麗に並んでおり、サイズ感と歯の形状を鑑みるに、人間のものであることはレネにも理解できた。
「下の床も黒いシミがべっとり。ここで殺されたんだろうね」
眉根を寄せているが、モルテの語り口は淡々としていた。拾い上げた骨を元の場所に戻し、腕を組みながら室内を見渡している。およそ子供らしくない言動にレネは当惑したが、今に始まったことではない。モルテに気づかれないように、静かに小さくかぶりを振った。

がさ、
と、草木が揺れる音が二人の耳に届いた。二人ともほぼ条件反射的に、かがんで壁に身を隠す。息を殺し、音がした方向へそっと窓から顔を出した。

鹿だ。距離は離れているが、若い鹿が森の中を歩いていた。
「……どうする? 手持ちの食糧、減ってきてたよね」
モルテは背負った弓を構えようとする。しかしレネは制した。子鹿の奥から、母鹿がついてきた。親子は互いに目線を合わせると、ゆっくりと踵を返していく。
「まだ余裕はあるさ。やめておこう」
微笑むレネに、モルテの表情も和らいだ。
「……レネらしい」
親子の背中を見送ろうと、二人が立ち上がったと同時に。

重い地響きのような振動と音が急速に近づいてきた。
突如来訪した異変を、鹿も察知していた。二頭は姿の見えない主から逃げるように、一目散に駆け出す。その奥で、木々の間から白くぶよぶよとした塊が僅かに垣間見えた。連なる幹に隠れ、全容は分からない。白い巨躯は低木をなぎ倒し、瞬く間に鹿を追い上げる。二人が覗くすぐ前で、それは森の中から躍り出た。

目も鼻もないのっぺりとした白い顔を、燃えるような赤いたてがみが囲っている。頭部を横に割くように割れた巨大な口の中からは、乱雑に敷き詰められた牙がのぞいた。分厚くたるんだ白い皮膚に包まれた体躯が、派手に音を立てて森を踏み倒す。身体を動かすのは、立派な体幹とはあまりにも不釣り合いな小さい手足。
あらゆる動物の特徴にも当てはまらない。無機質で不気味な相貌は、まさに《魔物》と形容するに相応しい。

子鹿は、魔物に追いつかれた。魔物は地面を蹴って一瞬跳躍したかと思うと、体当たりで鹿を叩き飛ばした。子鹿の小さく華奢な体躯は無残にも幹に叩きつけられ、地面へと崩れ落ちる。首があらぬ方向に曲がっていた。どうみても絶命している。母鹿は遠くに走り去っていた。

レネとモルテは絶句した。動物がほかの動物を屠るのは、食べるためか縄張りから追い出すためだ。しかし、今の光景は両者のどちらでもない。明らかに恣意的に、残虐に、あれは子鹿をなぶり殺した。そしてさらに異質なのは、魔物の大きさだった。

「なんだ、あの大きさは……」
木々の梢に鬣が触れる。子鹿の胴体が魔物の掌に収まりそうなほど、圧倒的な体格の差。おそらくレネ達が身を隠しているこの家と、体高はさほど変わらないだろう。小型の魔物に遭遇したことは何度もある。しかし、あんなにも巨大な魔物を見るのは初めてだった。

――そのとき、魔物がこちらを振り向いた。

5.

冷ややかな感覚が、二人の全身に走った。何故、目も鼻も耳もないのにこちらを察知したのか分からない。しかし二人の直感は知らせていた。
――あの魔物と、確かに今、目が合っている。

レネは眼帯を咄嗟に掴むと、乱暴に取り去った。あらわになった右目で魔力を視る。血のような深い赤と、毒花のような鮮やかな紫。まだら状に混ざり合って、濁った黒を作り出していた。今まで遭遇した小型の魔物よりも深くて強い魔力が、あたりを包んでいる。暴力的な色彩に、レネは顔をしかめた。
この色はあまりにも、見慣れている・・・・・・

魔物が足をこちらに進めた。足こそ小さいが、体格そのものは巨大だ。一歩一歩と粗雑な歩みで、確実にこちらへと向かってきている。

「来るぞ!」
レネは叫びながら窓を乗り越え、家の外へ出た。左腰の剣を抜き、地を蹴る。
最も合理的な選択は逃走することだと、わかっていた。しかしあれには感覚器官が見当たらない。目くらましも攪乱も手立てがなく、鹿に容易に追いつく脚を持っている相手には、逃走なぞどう考えても不可能だ。ならば、闘う他に生き残る道はない。

モルテは魔物へ走り寄るレネを視界にとらえながら、魔導書を取り出した。
彼と同行するようになってから何度か戦闘の場面があったが、事前に彼から依頼されたルールがあった。それは、戦闘中は決してレネに近づかないこと。敵ではなく自分と距離を保って戦闘するように、レネは相棒に要請した。
最初は意味が分からなかったが、今では理由が分かる。レネの血液から、モルテを守るためだと。

敵からも、自分の呪いからも守る。決意を負った背中を、モルテはいつも見届けていた。だからこそ、モルテも決心しなければいけなかった。彼の相棒として、全力で、未来の〈偉大な魔導師〉としての役目を全うすると。

頁をめくる。攻撃魔法の章を開き、見慣れた記述を発見したところで指を止めた。詠唱が短く済み、それでいて大型の魔物の機動を削ぐような効果があるもの。モルテは意識を集中し、詠唱を開始した。

レネは敵の右側を駆け抜け、背後へと回り込んだ。巨大な体格の魔物は、大体は動作が遅い。一瞬の隙を見逃さず、剣を振りかざせば勝てるかもしれない。
頭上に、後ろ脚と短い尾が見えた。狙うべくは、後ろ足の届かない、尾の真下。レネは自身の両足で地面を踏みしめ、全力で剣を振りかぶり、薙いだ。

しかし、切れた手ごたえが残らない。表皮を多少切り裂いたものの、分厚い皮下組織が刃の摩擦を受け止めている。舌打ちし、切っ先を戻した。敵がこちらを振り返る。赤いたてがみが揺れたと同時、不気味な口が開く。

咆哮が轟いた。獅子にも竜にも似た、荒々しい空気の波がレネの鼓膜を刺す。反射的に目をつぶり、耳を塞いだ。

――目を、つぶってしまった。

気が付いて目を開けたときには遅かった。魔物の胴体が視界のすべてに覆いかぶさる。斜陽を遮り、一瞬の闇の後に激痛が全身を殴り飛ばした。後頭部と背中に木の枝が飛んで突き刺さる。華奢な低木の数本をなぎ倒し、レネの身体は地面へと激突した。
多少小さく遠くなった魔物が、こちらをなお追いかける。しかし今の一撃で後頭部を打った。景色はぶれて、手足がいうことを聞かない。

一歩、一歩と白い手足がこちらへ来る。
――あの子鹿のように、自分も血肉の塊になるのだろうか。
せめて、剣を。
武器を求めて伸ばした右手が、空を切る。あまりにも悔しくて、握りしめることしかできない。

その時、モルテの声が響いた。
『真空波』ラーミナ・カエレスティス
緑色の淡い光が、奥できらめいた。魔物の皮膚は幾つもの見えない波に切り裂かれ、赤紫の血が宙を舞った。再び魔物の咆哮が響くが、さきほどよりも明らかに短く弱かった。

血は草木に飛び散り、あたり一帯を染めていく。汚れた草木は、瞬く間に枯れてしなびていった。命が枯れていく光景を目の当たりにし、レネは痛感した。
――やはり、あいつは俺と同じだ。

時間が経過して、手足の感覚が戻ってきた。あちこちが擦り切れて、血だらけになっている腕を右目で見つめる。魔物の黒い魔力であたり一帯が霧のように霞んでいるが、レネ自身の魔力は視認できた。深い赤と、毒花のような紫。強さも濃さも魔物が放つそれには劣るが、まだらに混じりあった黒を、レネ自身も纏っていた。

右目がえるようになってから、ずっと見てきたもの。あの魔物と同じ、暴力的な色彩。見慣れすぎて、嫌になる。

レネは身を起こした。ガンガンと鳴り響く頭痛で身体がよろけるが、両目と手足は機能している。敵を排除するには十分だ。すぐそばに落ちていた剣を拾い上げ、切り傷だらけでうずくまっている魔物へと歩みを進めた。

奴には動く気力が残っていないらしい。レネがすぐ目の前にいるのに、何もしようとしてこなかった。ならば、ためらう理由は何もない。
「じゃあな」
柄を逆手に持ち、剣を掲げる。足を前後に開き、全身を使って、

額に剣を突き刺した。


断末魔はなかった。静かに赤紫の体液が吹き出し、レネの全身を染め上げる。
剣を引き抜こうとするが、身体の力が抜けていく。未だに重く鳴りやまない頭痛が、意識を急速に奪っていった。

6.

治癒クーラト
もう何度目の詠唱になるだろうか。血まみれで地に伏している相棒の傍らで、モルテは繰り返し治癒魔法を試みていた。
詠唱にミスはない。どう考えても正しい方法で魔法をかけているのに、レネにだけは効果が現れない。もう数えるのも嫌になるほど同じ呪文を繰り返した。それでも、結果は自身の魔力が浪費されるだけ。

治癒クーラト!』
無駄打ちに終わる魔法。半分自棄で叫ぶように言い放った詠唱も、徒労に終わる。

「……っ、どうして!」
拳を地面に叩きつける。

――効かない。
この魔力と知識の量を以てしても、効かない。理由も分からない。
――僕は偉大な魔導師になるのに。こんなところで、躓いて。
悔しくて、握ったままの指先に力がこもる。

レネの目は、固く閉じたままだった。触るなとあれほど言われていたが、そんなことを守っている猶予もなさそうだった。モルテは自分の両手を見る。怪我はしていない。自分の粘膜や傷口に触れなければ、レネの体液に触れても大丈夫なはずだ。

「起きてよ」
レネの肩を叩く。
「ねえ」
しかし強く叩いても、ゆすっても、何をしても起きない。
「ねえってば!」

返ってきたのは、沈黙だった。為す術もなく指を離す。
どうすればいいのか分からず、絶望感に項垂うなだれた。

同時に、背後から僅かに足音が聞こえた。段々と近づいてくることに気が付き、モルテは振り返る。

「大丈夫?」
立っていたのは、柔らかな長髪をなびかせた、白い服の女性だった。