永劫のアナスタシス(通常版) 第六章 Ⅱ

8.

カナールから返却された蔵書一覧の表を受け取り、レネはフォティアに尋ねる。
「始める前に、ひとつ訊きたい」
「何だ?」
「モルテに呪いの兆候が現れたのは、今から数日前だった。俺はこうなるのに十数年かかっているが、あいつは……たった数日だ。お前の見立てで構わない。俺たちは、あとどれくらい保つ?」

モルテは魔導書だ。人間では無い。構造も魔力の大きさも、レネとは何もかもが違っていた。だから、呪いに蝕まれる速度もレネの比では無かったのだろう。
だが、レネの呪いもリヴァーディアに入ってから加速度的に進行が早まっている。もしかしたら、査読が終わる前に、〈そのとき〉を迎えてしまうかもしれない。

「正確なことを言えなくて申し訳ないが」
と、フォティアは切り出した。
「おれたち騎士は、瞳が赤くなってから魔物化するまで一日かからなかった」
「一日足らずで……!?」
「そんな……」
「これは全員が魔物化してから分かったことだが、一番進行が早いのはフォスだった。あの人は、侵略日の早朝に異変に気がついて、昼前には魔物になっていたという」

――数時間。
恐るべき早さに、レネは絶句した。しかも、治癒の役割を担う彼女が真っ先に。戦闘の要と言うべき彼女が最初に陥落し、そこから瞬く間に呪いと侵略が広がったとしたら、当時の彼らはまさに混乱と絶望の最中に叩き落とされたのだ。

「おそらく、前提条件がレネ達とすこし違うんだろうな。だから、おれは正確な時間を伝えることはできない」
話しながら、フォティアは図書室の奥から椅子を二脚持ってきた。二人の前に置き、座るように促す。

「――文献を読む前に、おれが見たこと、知っていることを話しておく。そっちの方が、予習になるだろ」
「そうだな。俺たちはまだ、リヴァーディアが何者かに侵略されたことしか知らない。侵略のきっかけすら聞いてないんだ」
レネが着席したのを見て、カナールもゆっくりと椅子に腰掛けた。その様子をみて、竜骨の魔物は小さく頷く。顔をわずかに横へ向け、何から話すべきか逡巡しているようだった。

「……きっかけ、か。一言で表すなら、〈逃亡〉だ」
「逃亡……? どうして」
カナールが、レネの横で僅かに動揺の色を見せた。しかし、レネは眉一つ動かさずに、フォティアの話に質問を投げかける。
「障壁の外へ出られるのは、騎士だけだったな。お前たちのうち、誰が」

予想はついていた。魔法障壁を張ってまで世界から隠れてきた民族が、そうやすやすと外部に発見されるはずも無い。
だとすると、誰かが重大な禁忌を犯したことになる。〈障壁の外への逃亡〉という、大罪を。
障壁の外側へと脱出できるのは騎士のみ。最初はセリーニかと考えていたが、それならば彼が魔物化した後も国内にとどまる理由が無い。おそらくは、彼も単なる被害者だ。

「逃亡したのは、騎士じゃ無い。……騎士じゃ、なかった」
そう返答すると、フォティアは長いため息をついて項垂うなだれた。続きをレネたちは待ったが、いくら経っても出てくる様子はない。話を続けるのが辛く、重苦しい。仕草と息づかいが、それを物語っていた。

相棒は、隣で心配と疑問の眼差しを浮かべている。どうしてフォティアが黙ってしまったのか、分かっていないらしい。
彼がここまで押し黙るのならば。そして、逃亡したのが騎士ではないのなら、答えは殆ど一つに絞られる。本来ならば彼が切り出すのを待つべきだが、こちらには時間がない。レネは、フォティアが必死に紡ごうとしている単語を、代わりに話すことにした。

「――脱走したのは、姫巫女だな」
レネの言葉に、カナールはいよいよ驚いてこちらを見た。フォティアは重たい頭をあげ、おもむろに首肯する。
「どうして、わかった」
「顔に書いてあった。お前がここまで言うのが辛くなる人物なんて、姫巫女くらいだろう」

「はは……そうか。カナールから、そこまで聞いてたのか」
乾いた笑いが、図書室に響く。それは紛れもない、自嘲。
再び重苦しいため息を漏らした後、竜骨の魔物は俯いたまま話を再開した。

「あいつには、相棒がいたんだ。アルカの誕生日に献上されたものらしい。青い羽とつぶらな瞳が綺麗な、大型の鳥だった。よく籠から出して抱えていたよ」
「……管理が甘かったな。籠から出したら逃げるに決まってる」
「当時の侍女が、鳥を追いかけて走るアルカの後ろ姿を目撃している。とっさに彼女を引き留めようとしたんだが、反応が遅れてしまったらしい」

「待って、フォティア。でも、アルカだって魔法障壁の外に出ちゃ駄目なことくらい、分かってたんでしょ……?」
「分からなかったんだ。カナール。アルカは喋ることすら、できなかったんだ」

純粋で、無垢な、幼子。
心も思考も、真っ白で清い、清廉にして潔白な少女。

――それが、リヴァーディアの姫巫女、アルカ。

9.

消え入るような音を立て、円卓の中央に〈それ〉は置かれた。

片足だけの小さなパンプス。こびりついた土と泥が、元々の純白をぐちゃぐちゃに塗りつぶしていた。もう片方はどこに、と思わず視線を投げかける。しかし、靴を置いたイードル隊長は、無言で首を横に振った。

フォティアは震える手で、靴を手に取る。黒い手袋に土汚れがつくが、構わない。
間違いがないか、よく、確認する。似たものと見間違えていないか。この靴の持ち主は別人じゃないかと、淡い希望を――抱き、それがアルカのものと寸分違わぬことを視認して、がくりと椅子に腰掛けた。

「イードル隊長。これをどこで?」
フォティアの隣に座る、イスキオスが尋ねた。兄のさらに隣にはアネモスが座っており、心配と不安を顔に浮かべてこちらを見ている。
「魔法障壁より、三キロメートル外側だ」
「三キロも!?」
イードルの返答に、イリオス副隊長が思わず椅子から身を乗り出す。
彼女らしくない、色濃い焦燥。今にも立ち上がりそうな姿を、隣に座るフォスが制した。フォスも強い不安の表情をしているが、身重であるイリオスを真っ先に気遣いなんとか堪えているようだった。
「隊長、枢密院に報告はお済みなのですか?」
フォスが尋ねる。
「二時間前に済ませてきた。返答は、『協議中』だと」

――協議中?
「なんですか、協議中って」
フォティアは顔をあげ、苛立つ声をイードルへぶつける。

「どう考えても緊急事態じゃないですか。アルカが……姫巫女が、障壁の外へ出たんですよ!? 協議なんかしてないで、早く壁外調査の許可を出してください!」
がたりと、椅子が倒れる。座ってなんかいられなかった。
枢密院は何をしている。もう三キロも外へ出てしまっているんだ、はやく探しに行かないと、手遅れになる!
「フォティア」
右隣から低く響く声が、フォティアを制する。
視線を向けると、セリーニの切れ長の瞳とぶつかった。

「枢密院がなぜ協議をしているのか、君も知らないわけでは無いだろう。許可の無い無闇な壁外調査は、我々が外部へ発見される危険を助長する。……君は、この国を滅ぼしたいのか?」
「……じゃあ、アルカを見殺しにしろって言うんですか!!」
「フォティア!」
我慢できずに、セリーニの胸ぐらを掴む。左隣に座っていたイスキオスが立ち上がり、こちらの腕を押さえた。

「やめろフォティア。セリーニの発言は正しい」
暗く、沈んだ声。普段は貫禄のあるイードルの声が、今日ばかりは弱く細く揺れている。
「思い出せ。リヴァーディアの魔法障壁は、何のためにある?」
「……希少鉱石オウルムを守るため」
「そうだ。ここで争ってどうする。フォスの魔力をいたずらに消費させる気か?」
「……っ」
室内を見渡す。円卓に座した皆が、こちらを見ている。不安な顔、泣きそうな顔、必死に制する顔、嘲笑する顔。
分かっている。自分の言動が、場を乱していることくらい。

「すみません」
イスキオスの手を振り払い、セリーニの胸ぐらを解放する。しかし、頑として座る気は無い。それくらいは、抵抗させてほしかった。
「フォティア、待とう。ぼく達は、枢密院の許可が無いと魔法障壁の外にはでちゃいけないんだ」
「……その許可は、いつになったら出るんだよ」

魔法障壁は、希少鉱石を外部の人間から守るためにある。リヴァーディアの存在が再び歴史の表舞台に出てしまえば、その先に待っているのは過去と同じ――略奪と殺戮だ。だからこそ、リヴァーディアは世界から隠れる必要がある。

見殺しにするべきだ。大森林に素性不明の少女がひとり現れたところで、言葉ひとつ話せない彼女がリヴァーディアの存在を明らかにすることなんて不可能だ。獣に食われるか、旅人に発見され、襲われるか。どちらにせよ、死体になって、それで終わりだ。

白い服を着た七人組が大森林を闊歩していれば、とても目立つだろう。最悪の場合、誰かが捕まり尋問される可能性もある。出歩かなければ、探しになんていかなければ、リヴァーディアは何の害もなく、平穏無事に明日を迎えられる。
だから、脱走してしまった少女なんて忘れて、見殺しにするべきだ。
一より全。民ひとりの命より、国全体の安全のほうが、はるかに大切だ。

脱走したのがアルカでなければ、こんな結論が簡単にでたのだろう。
だが、相手は姫巫女だ。純粋で高貴な、純血のアスプロ族。国は簡単には手放せないはず。

――悩んでるんじゃないか?
国の安全か、姫巫女の命か。ふたつを天秤にかけ、何を助けて何を見捨てるのか。枢密院も、揺れているのではないのか?

左手に握ったままの、靴を見る。
土と泥にまみれた、白。もう片方も、そして本人も、今頃暗く寒い森の中で、泥土に汚れているのかもしれない。
自力では、帰ってこられない。アルカは、そこまでの判断力がある子では無い。底なしに優しくて、好奇心に満ちている。だから、飛び去った相棒を探しにどこまでも遠くへ進んでしまうだろう。
――このまま、ここで待つなんてできない。

フォティアは靴を机の上に戻し、ドアの方へと足を向ける。
「どこに行くの?」
イリオスの返答に、振り返りもせずに答える。
「議長室へ。二時間前に報告が終わっているのなら、議長は私室に戻ってるでしょうから」
「説得する気か?」
嘲笑混じりの声が、後ろから飛んでくる。
「……してみせます」


――だから、そこで黙って見ていろ。

フォティアは心の中でそう言い返すと、後ろ手でドアを閉めた。

10.

「顔を上げなさい」
頭上から、低く優しい理知的な声が降りてくる。
フォティアは議長が促すまま、おもむろに顔を上げた。黄昏時の光が窓から差し込んで、議長の顔に逆光の影を落としている。

「……議長。貴方が枢密院の中で最も、厳格で公平なお方だと聞いています」
自分でもわかる。緊張が声にでていると。
そういえば、この人と一対一で話すのは初めてかもしれない。新入りの頃は、訓練中の的を議長の方へ吹っ飛ばすというミスをやってしまったことがある。きっと、こんな一人の少年の戯言など、真面目に受け止めやしないだろう。
だけど、そうだとしても、言わなければならない。

「お願いします……。姫巫女は、国にとっても大切な存在の筈です」
「そう、だな」
「だったら、議長。貴方なら……判断を下せる筈です。何を救うべきか、何を尊ぶべきか。何が正義なのか、判断してくださると」
そこまで言うと、議長は口をつぐんだ。影で表情が読み取れないが、躊躇と長考に揺れていることは容易に想像できる。

しばしの沈黙の末、議長は意外なことを聞いてきた。
「フォティア。貴君は、どうしたい」
「……え?」
「姫巫女を、救い出したいか? 国が外に発見され、最悪の場合は此処が侵略されるという可能性を背負ってでも、彼女を、助ける覚悟があるか」

ここまで聞いて、フォティアは確信した。こちらの予想は当たっていたのだ。
――枢密院は、迷っている。それなら、説得の余地がある。

「……覚悟はできています」
議長の投げかけに対する返答は、とうに決まっている。決心していなければ、今ここにいるわけが無い。
「おれは騎士です。姫巫女も、国も守るのが役目です。もし国が侵略されたら、そのときは撃退してやればいい」
「外に、どんな脅威が待っているかも分からないのにか?」
「だからなんですか。何がいるか分からないから、過去に外部から希少鉱石オウルムを略奪されたから、それだけの理由でアルカを見捨てるんですか」

――そんなこと出来ない。守るために、救うために、こうしてここにいる。少女一人救えなくて、何が騎士か!
あの笑顔を、もう一度見たい。小さくて細いあの腕を、もう一度つなぎ止めたい。無邪気で、明るくて、可憐に輝く彼女の、そばに立ちたい。

「もう一度アルカのそばにいられるのなら。どんなリスクだって、どんな覚悟だって背負います。……それが、おれなりの正義です」
枢密院の許可があれば。
否、枢密院の許可が無くとも。

皆がいれば。皆と共に向かえるのなら。
仲間がいれば、奇跡は起こせる。希望はある。

覚悟はとうに、出来ている。

***

「今でも思うんだ。あの時にした選択は、間違ってないと」
竜骨の魔物は、レネとカナールが見守る中で、遠くを見つめながら呟いた。

一人を選ぶか、世界を選ぶか。
フォティアは迷わず〈一人〉を選んだ。そして、彼にとっての世界は、亡んだ。

今となっては変わり果てた姿だが、アルカが王城ここにいるということは、救出自体は成功したのだろう。姫巫女を救い出し、凱旋と安堵の喜びに満ちたのもつかの間――フォティアたちは侵略され、呪われた。

破滅的な結末は、あくまでもただの結果だ。アルカを救出するという決心をした段階では、彼らは、永劫に近い惨劇を体感するなど知る由もなかったのだ。
もしも自分がフォティアと同じ立場だったのなら。モルテやカナールの命と、国運を天秤にかけるような事態になったとしたら、おそらく自分もフォティアと同じ選択をしたと思う。

レネはフォティアへ声をかける。
「……枢密院は、姫巫女の捜索を許可したんだな」
「そうだ。おれが議長を説得した後、許可はすぐにおりた。それからは早かったな……。一時間もしないうちに、七人全員がアルカの捜索へ出発した。お前を妊娠していた、イリオス副隊長すらも」
「待てなかったんだろうな。そういう性格だったから」
「フォスさんが必死に止めたんだけどな。頑としていうことを聞かなかった。『私も一緒に行く』って、最終的にはイードル隊長につかみかかって」
「目に浮かぶよ」

くすりと、思わず笑みがこぼれた。どうやら母の性分は、昔から変わっていなかったらしい。この語り口では、おそらく侵略日まで普通に騎士としての仕事をこなしていたのだろう。よく自分を無事に出産できたものだ。
気が付くとカナールも破顔していた。口元に微笑を浮かべ、こちらを見ている。
「話してくれてありがとう、フォティア」
「礼はいらない。ここまで巻き込まれたんだ、お前たちだって事実を知る権利はあるだろ」
「……そうだね」
カナールが視線を伏せたのを紛らわすように、竜骨が出口へと踵を返した。
「アルカの様子を見てくる。聞きたいことがあったら庭園まで来い。……釘を刺すようだが、損壊が酷いところは歩くなよ」

もう歩いちゃったよ、と相棒が小声で漏らす。靴下ごしに膝を抑えて、口をとがらせている。子供が歩くには、たしかにここはいくらか危険だ。カナールが城内を歩くときは自分の同伴が必須になるだろう。

遠ざかる足音を聞き届け、レネは椅子から立ち上がった。
背後には幾多の文献。埃が舞う薄暗い空間で、一筋の光が文献を照らしている。

――最後の砦だ。
ここで見つけられなければ、自分たちは終わる。〈その時〉が来る前に。何としても見つけ出さなければいけない。

「始めるぞ、カナール」
「うん」

紙をめくる音が、室内に響いた。

11.

希少鉱石。
その色調から〈黄金オウルム〉の名を与えられた金属は、合金において非常に強い剛性を呈する。オウルムの合金は武器や防具に使用され、リヴァーディアに住まう人々の生活を守った。また、オウルム単体は魔術や錬金術の触媒としても有用であることが分かっている。
しかし、オウルムの歴史は血にまみれている。外部による略奪、紛争。強奪を目論んだ旅人がリヴァーディアを襲撃し、エレフテリア河に多数の血が流れた。悲劇的な歴史を繰り返さないと、アスプロ族は国土に魔法障壁を張ることとなる。リヴァーディアは、オウルムと民を守るため、世界から隠れることを選択したのだ。


***


無い。
製錬前のオウルムも、精錬後の加工品も、それどころか、洗浄すらまだ行っていない採掘したてのオウルムも。
根こそぎ持って行かれている。この様子では、おそらく採掘前の鉱脈もやられているだろう。奴の狙いはこれだったのか? 国の半分を焦土に変えて、民に呪いをかけて。そうまでして、これがほしかったのか?

俺ももう駄目だ。妻と同じように紋様がでて、だんだんと胸の方まで上がってきた。妻は河に身を投げたが、俺もそうするしかないのか。
あんな醜い化け物になるくらいなら。


***


これは夢だ。悪夢だ。現実なんかじゃない、ただの夢だ。
黒い灰が城内を舞っている。どこからともなく魔物が押し寄せてきて、私たちへ襲い掛かってくる。みんな殺されてしまった。アマリアは魔物に叩きつけられた。ダフネはメラニアをかばって串刺しにされた。そのメラニアも、ダフネの腕の中で共に死んだ。コリンナは行方が分からない。アステルも姿が見えない。
ラオディケは、私の隣で今も苦しんでいる。紫の紋様が全身を覆って、目が真っ赤に染まって、苦しそうな重い咳が止まらない。

どうして。どうして、こうなったの。騎士様はどうして来てくれないの。あとどれだけ待てば、助けが来るの?
ああ、駄目だ、私の腕にも、紋様が。ラオディケ。助けて。ああ、

誰か。


***

「違う!」
苛立ちを含んだ己の声で、レネは我に返った。手に持っていた手記を閉じ、長い溜息を意図的につく。熱が上がった思考回路を、落ち着かせるために。

――冷静になれ。文に惑わされるな。
数多の文字の中から、有益な情報を抜き出す。それが、今自分たちが行っている作業だ。日記の文章に感化され、読書感想文を作るのが仕事ではない。

フォティアが選出した文献は、かなり雑多だった。きっと断片的な情報もこぼすまいと、少しでも関連がありそうなものはすべてピックアップしてくれていたのだろう。ただ、その中には今読んだ通りの手記も含まれている。特にさっきのは――手記よりも、遺書のほうが近いのかもしれない。
――いや。これは、断末魔だ。
しわだらけの紙に、一生懸命に殴り書きされた筆跡。命の灯がかき消されんとするさなかで、必死に書き留められた生の悲鳴だった。
違う。欲しいのはこれではない。今必要なのは、解呪に繋がる情報なのに。

〈読了済み〉の本の束に、手記をそっと積み重ねる。目頭を押さえて、もう一度レネは溜息をついた。
疲れた。作業を始めてまだ二日だというのに。今日は昼前から休憩なしでずっと読んでいたのだ、さすがに集中力が途切れてしまった。
相棒は一時間ほど前に、机に伏せて寝息を立てている。それでも頑張ってくれたと思う。眉間にしわを寄せながら、こちらが不安になるくらい真剣に読み込んでくれていたから。

一度、休憩が必要か。
隣で眠るカナールを起こさないように、ゆっくりと腰を上げて外へ出た。

人の手が入らなくなった建造物は、思った以上に速い速度で劣化していくという。この王城も至る所に亀裂が走り、瓦礫の破片が散らばっていた。床に体重をかけると時折鈍い感触と軋んだ音が伝わってくるので、冷や汗をかきながら慎重に歩かなければいけない。
この状態で、よく今まで崩壊しなかったものだ――散策の合間でそんなことを考えていると、ふと、天井に違和感を覚えた。


つたが這っている。それ自体は至って普通の光景だが、違和感の正体はその這い方だった。ところどころ、あえて意図的に避けられたかのように不自然な這い方をしている。更によく見ると、蔦は数カ所が引きちぎられたかのように離断していたり、ゆるくたわんでいた。

「……?」
フォティアが一部分を刈ったのか? それにしては変だ。まばらすぎる。
口元に手を当てて天井を睨み付けていると、背後から硬質な足音がした。
「レネ、ここにいたのか」
振り返ると、竜骨がそこに立っていた。アルカはいない。
「休憩中か?」
「そっちこそ。姫巫女のそばにいてやらなくていいのか」
「庭園で日光浴中だ。天気が崩れる心配も無いし、少しなら大丈夫だ」

そういえば、元は花が好きな少女だったか。
今朝の光景を思い出す。大きな鳥籠に入った、黒焦げの人影。かつての彼女も、自然を愛する可憐な少女だったのだと聞く。黒い炎に身を焦がされ続けているが、せめて侵略前と同じ光景を見せ続けてやりたい。フォティアはそう語っていた。
庭園に彼女の特等席を設け、日が出ているうちは花々に囲まれた時を過ごさせる。それが彼なりの愛情であり、思いやり……なのだろう。

フォティアはレネに背を向ける。来た道を引き返すように足を踏み出し、振り返りざまに言う。

「見てほしいものがある。ついてきてくれ」

12.

フォティアに案内された場所は、広い一室だった。中は綺麗に片付けられており、家具もまだ使えそうだ。さすがに経年劣化からは逃れられないのか、壁や床に亀裂が入っているが、この空間で生活することは可能だろう。

「フォティアが手入れしたのか?」
「隊長と副隊長の部屋だからな」

両親のことを言われて、レネは改めて室内を見渡す。
隣に二つ並んだ衣装箪笥クローゼット、広い机、複数の椅子。そして隅には、衣装箪笥と同じく二つ並べられたベッド。ベッドとベッドの間に隙間があるのは、寝相の悪い父が母のベッドへ侵入してこないための工夫だったのだろう。昔はよく、中央で寝ていた自分が被害に遭っていた。

目を細めて、レネは父の寝具にそっと触れた。 まさにここで。ここで両親は暮らしていたのだ。本来ならば、自分も。
振り返ると、フォティアが片方の衣装箪笥を開けていた。中から白い布を取り出し、こちらに見せてくれる。

「これは?」
掌二枚分ほどの小さい布。よく見ると途中まで縫製がされている。
「レネの服だ」
そういいながら、フォティアは手渡した。服というにはあまりにも小さい。人形が着られるくらいの大きさだ。しかし広げてみると確かに、親指大ほどの袖や襟など、〈服〉として作成途中だったことがうかがえる。
「……産着か?」
「イリオス副隊長のお手製だ」

だからか、とレネは納得した。母は裁縫が不得意だった。このがたがたの縫い目も、昔から全然変わっていない。
「お前ならわかるだろ。かなり苦戦して縫ってたぞ。見かねたフォスさんが、手伝おうかと申し出たくらいだ」
「こういうの苦手だったからな。毎回、険しい顔しながら針を手に刺していた」
「イードル隊長も不器用だったから、負傷するイリオス副隊長をみながらあたふたしていて」

光景が目に浮かぶ。眉間にしわを寄せながら必死に針を通し、時には自分の手を深く突き刺して。その度に「いったぁ!!」と声を上げるものだから、父が救急箱をあさりながら何もできずに母の周りをぐるぐる回って。
仲間も大迷惑だっただろう。あの二人はこういうことになると派手に騒ぎ立てる性分だった。

「すまなかったな。父さんと母さんが苦労をかけた」
「本当だ」
お互いにくすくす笑いながら、冗談を飛ばしあう。広げた産着を丁寧に畳んで戻そうとするが、「そのまま持っていろ」と制された。
「レネ。もう十分わかってると思うが、釘をさしておく。皆、レネに逢えるのを楽しみにしていたんだ。隊長も副隊長も、おれも」
竜骨の手が、レネの手にそっと触れる。そのままフォティアは続けた。
「イードル隊長も、イリオス副隊長も、お前に一日でも早く逢いたがっていた。愛していたんだ」
「……知ってる」
「ここに来る前にイスキオスたちに出会ったなら……きっと、両親について心無い言葉を浴びせられたんだろ。裏切者だとか、騎士失格とか。だけど、それは違う」
レネの手を離れたフォティアの手が、ぐっと固く握られた。

「イードル隊長も、イリオス副隊長も、確かに国を捨てた。けれど、それは裏切りなんかじゃない。二人はレネを、お前を守ったんだ。……守り抜いたんだ。二人は最期まで、立派な騎士だった。おれが、保証する」

――知っている。そんなこと、初めから知っている。
父も母も、自分を愛していた。愛していたからこそ、あんな最期を迎えてしまった。誇らしい、大好きな二人だった。
この産着だって、自分に逢える日を心待ちにして、必死に縫ってくれたのだろう。元気で産まれておいで。早くあなたの顔が見たい、と。

――そんな二人が、騎士でないはずがない。
父は、母は、確かに自分を守り抜いた、愛しぬいた、誇り高き騎士だ。

だからこそ、その言葉が欲しかった。二人の過去を、生き様を、ちゃんと肯定してくれる言葉が、今まで欲しかったんだ。

「……有難う、フォティア」
目の前の騎士に、レネは微笑んだ。
「お前のような騎士に逢えたことを、俺は嬉しく思うよ」
「……。おれは……」


***


夕刻。アルカが座す庭園に戻ったフォティアは、籠の隣に腰かけた。

「……アルカ。レネに話した」
事態がすぐに呑み込めない、という顔をしていた。無理もない。彼の中では、自分は隊長や副隊長と同じ、誇り高き騎士だったのだろう。
黙っていても支障はなかった。しかし、それは己の良心が耐えられない。いずれアルカがこうなってしまった経緯も訊かれただろう。黙秘することは、どのみち無理だった。

――アルカは。アルカがこうなったのは。

――おれの所為だ。

彼女の黒い炎は、自分の火が燃え移ったものだ。
あの日。城中に魔物が押し寄せてきたあの日。自分は真っ先にアルカの私室へ向かい、押し寄せる魔物たちと戦っていた。次第に呪いが侵食し、高熱で朦朧とする意識の中、アルカは必死に肩をゆすってくれていた。
逃げろ、と言えなかった。言ったところでアルカに伝わるはずもない。それに、当時の城に安全な場所などもう残されてなかった。どうしようもできなかった。

呪いが完成し、気が付いた時には自分の身は黒い炎に包まれていた。身を切るような痛み。気道に侵入する耐えがたい熱気。肺も熱に侵されて、内側からじりじりと肉が焼ける感覚。
それにもかかわらず、アルカは自分のそばにいた。そばにいて、泣きそうな目でこちらを見ていた。自分の身を焼く炎は、アルカの服や髪に飛び火して……

「ぎゃあああああああああ!!!」

彼女の悲鳴を聞いたのは、後にも先にもあの一回だ。
鈴を転がすような声が。可憐で愛嬌のある声が、断末魔に喘ぐ。光沢のある白が黒に変色し、小さい四肢が瞬く間に炭化し、筋肉が固縮する。その様を、眺めることしかできなかった。

守ってなどいない。
彼女を燃やしたのは自分だ。それなのに、〈死なせたくない〉というエゴで己の力を使った。保護の鳥籠に閉じ込め、生かすことも死なせることもできず、今も果てのない苦痛を味わわせている。

――そんなの、騎士とは呼ばない。おれは、騎士じゃない。

「そうだよな、……アルカ」

骨の指で籠をなぞる。冷たく硬質な温度だけが、返ってきた。

13.

重苦しい曇天の下、レネ達は査読の作業を続けていた。一冊、また一冊と、リストの文献が「読了済み」の山へ積み重ねられていく。
未読の本は少しずつ減っていき、ついに最後の一冊へ到達した。
先に残りの文献を読み終えていたカナールがじっとこちらを見守る。その中で、レネはそっと裏表紙を閉じた。

首を横に振る。
最後の一冊からも決定打となる情報が得られぬまま、レネ達は文献を読み終えた。

――読み終えてしまった。


***


――もう一度読み返すか? もしかしたら、見落としていた情報があったのかもしれない。
カナールの担当分もざっと目は通していたが、そっちをもう一度読み返すのはどうだ。そもそも、フォティアが選出していない本にも情報が眠っているのかもしれない。

とすると、図書室中の本を読む必要が。いや、到底そんな時間は残されていない。カナールの紋様はもう首まで来ている。あいつは胸から放射状に紋様が広がっているから、顔まで浸食すれば終わりだ。俺の紋様も、もう左胸まで来ている。

……なら、いっそのことリヴァーディアを出て術者を探すか? 駄目だ、術者の目星すらないのにどこへ向かえばいい。街にでたタイミングで魔物化したら被害が一層拡散する。それは駄目だ。リヴァーディアから出る選択肢はもう残っていない。
じゃあ、どうする?どうすればいい?あと残りの時間で何ができる?まだ、策はあるはずだ。出来ることがあるはずなんだ。何を、何をすれば――


「レネ」

相棒の声で、思考を引き戻す。
我に返って顔を上げると、カナールが眉尻を下げて微笑んでいた。ゆるゆるとかぶりを振り、こちらの左手にそっと掌を重ねる。
いつの間にか己の拳が、固く握られていたことに気づく。重ねた相棒の手の下で指を開いて、右手を上からやさしく添えた。

「なんとなくね、こんな気がしてたんだ」
長いまつげが伏せる。
「はじめから、正解なんてなかったんだよ」
文字通りの絶望だというのに、相棒は大きい瞳を細めてこちらに微笑を返してくる。どうして、そこまで穏やかに諦観できるのだろう。

なんの、なんのために。
これまでの旅路は、無駄だったのか?

呪いを解くためにいろいろな危険を冒して、どんな険しい場所にも足を踏み入れて。みっともなく足掻いたくせに、何も得られず、相棒すら巻き込んで。
それで何の成果も得られず、術者に一矢報いることもできずに、ここでひっそりと終わるのか。

じゃあ、何のために。

何のために、俺たちは……カナールは。

この命は、何に消費されていくというのだろう。

14.

「駄目だったか」

庭園に立つフォティアの返答は、極めて冷静だった。カナールには、図書室の片付けを頼んでいる。「頼んだ」と言うより、本人からそうしたいと申し出たので、了承したという方が正しい。
フォティアは取り乱すでも悲嘆するでも無く、かえってこちらが慚愧の念に駆られるほどに淡々とした声色だった。

「選んでくれた文献は、全部読みつくした。……すまない、手詰まりだ」
解法の存在しない、問。はじめから出口など無い、迷路。
答えを求めることすら無駄な行程だった。どれだけあがこうとも、術者の特定すら自分たちには出来なかったのだから。

せめて、カナールだけでも救いたかった。
フォティアを、アルカを、元の姿に戻したかった。
もう、そのどれもが、叶わない。

「謝るな。ここまで足掻いてくれたんだ、こっちが礼を言わないといけない」
「フォティア」
「分かっていると思うが、二人ともじきに姿が魔物化する。これはもう回避できない」
そのうえで、と、彼は続ける。

「一つ、知らせておきたいことがある。カナールが、前に石像の魔物と遭遇したことは聞いてるよな」
「俺が捕まっていたときに出会った魔物だな」
「カナールは、リヴァーディアのすべての魔物が会話できるものだと思っていたらしい。そいつとコミュニケーションを図ろうとして、結果失敗している」

今までの魔物を思い返す。たしかに、リヴァーディアに到達して最初に遭遇したたてがみの魔物は、会話ができなかった。それどころか、会話できる知性すら持ち合わせていないように見えた。
「自我がある魔物と、そうでない魔物がいるのか? その違いは何だ」
「それが……」
フォティアは一瞬口をつぐみ、間を置いて、続けた。
「それは、アルカの祝福だ。彼女の祝福を得た人間は、魔物化後も自我を保持する。それはレネ、お前にも宿っているはずだ」

――祝福。

この語句を、聞いたことがある。セリーニが自分を拘束する際に言い放った単語だ。彼も、自分には祝福があると話していた。あの時は〈祝福〉が何のことだか分からなかったが、こうして理解できると合点がいく。

リヴァーディアで呪いを受けた民が辿る道は二つ。アルカに出会っていない平民は、祝福を受けることができずに心まで魔物化した。鬣や石像の魔物が、それに値するのだろう。対して、アルカの護衛を務めていた騎士たちは彼女の祝福を受け、心は人のままを保つことができた。フォティアの話を咀嚼すると、そういうことになる。

だが、その祝福がアルカに由来しているものだとすると、不可解な点がある。
「姫巫女とは数日前に会ったばかりだ。そんなもの、いつかけられた」
「お前はイードル隊長とイリオス副隊長の子だろ?」
「まさか、遺伝したとでも言いたいのか」
「現に、呪いは遺伝した。なら、祝福だってそうかもしれない」
「……」
フォティアの言葉を、脳内で反芻する。彼の言うことが事実ならば、自分は魔物化した後も自我は保たれることになる。
それは、果たして幸福なのだろうか。いっそのこと自我も手放してしまった方が、永劫といえる業苦に悩まされずに済むのではないのか。

「フォティア。お前の言うことが事実なら……カナールはどうなる」
「お前だけが自我を保った魔物になって、カナールは自我を失う。暴れるカナールを、おれとお前で止めることになるだろうな」
異形になり果てた相棒を、止める。それがどんな結末をもたらすことになるのか、さすがに想像はつく。

――モルテだけじゃなくて、カナールも手にかけなきゃいけないのか。
それなら、こんな祝福、ないほうがよかった。どうせ魔物になるのなら、心まで狂ってしまう方が楽だ。

心が鉛のように重くなり、言葉を発する気にもなれなかった。いつの間にか雨が降り始めていたようで、しとしとと雨粒が響く。

その中に、不意に異音が混じった。
遠くから水を蹴る、小さい音。

「……、カナール!?」
振り返る。ぱしゃぱしゃと音がして、軽い足音が逃げるように遠ざかった。
「あいつ、盗み聞きして……!」
このまま相棒を放っておくわけにはいかない。
カナールを追いかけようと――する寸前で、竜骨の手がレネの肩に置かれた。

「待て。話は終わってない」
「そんな場合じゃ無いだろう!」
「祝福について、もう一つ、伝えておきたいことがある」
どうでもいい、とフォティアを振り払おうとする。しかしそんなレネを制するように、竜骨の魔物は続けた。

「カナールにも関係するかもしれないことだ。……どうするかは、お前が決めろ」

15.

カナールはすぐに見つかった。濡れるのもいとわずにバルコニーに立ち、雨天の城下を眺めている。
はやる呼吸を整えてから、レネは後ろへゆっくりと近づいた。

「……風邪をひくぞ」
こんなことを言っても、素直に屋内へ戻れる気分じゃない。それくらいは分かっている。声をかけるにあたって、ただきっかけになる言葉がほしかった。カナールはこちらを振り向かずに、バルコニーから見える光景へ視線を向けたまま、ぼそりと呟いた。
「……ここから飛び降りたのなら、確実に死ねるかな」

思わず息を呑む。声にならない音が、喉の隙間から漏れて消えた。
「レネは、アルカの祝福がある。だから体は魔物になっても、心は人のままなんでしょ? ……ぼくは、違う。呪いが完全に進行したら、ぼくの体をあますところなく蝕んでしまったら、身体も心も人じゃ無くなる」

穏やかな語り口だった。これまで何度か見せてきた、優しくて包みこむような色で、カナールは言葉を紡ぐ。
だが、相づちを打つことすらできないレネの前で、カナールは震える息を吐き出し、そして振り返った。
「ぼくが、ぼくが人じゃなくなったら……! レネのこともモルテのことも全部忘れて、何もかも忘れて、きっと、きっとレネ達を傷つける!」
小さい手が、胸の前で固く握られる。冷え切って白くなった細い指が、かたかたと震えていた。
「嫌なんだ、そんなの……。忘れるなんて、嫌なんだ! レネとモルテを忘れるくらいなら、人のまま死んだ方がましだ!」
張り上げられた声が、レネの心を刺す。赤くて大きな瞳からぼろぼろ零れる涙と嗚咽が、レネの網膜に焼き付く。

この小さくて細い体に、どれだけの重圧が、どれだけの絶望が、し掛かっているのだろう。
どれだけの恐怖を、背負わせてしまったのだろう。
「……カナール」
レネは言葉を絞り出した。相棒の名前を呼ぶことが、精一杯だった。
小さい相棒は頬を濡らし、泣きじゃくりながら悲しく微笑む。
「変、だよね……。モルテと出会ったときは、死にたくて、消えたくてたまらなかったのに……。今は、消えたくないんだ……。レネの隣にいたい。レネのそばにいたい。ずっと二人で冒険して、いたいのに……」
言葉の途中で微笑みが崩れ、眉尻が下がった。自らの服の裾を掴んで、肩を震わせている。

二人で冒険していたい。その気持ちはレネも同じだった。レネと、カナールと、そしてモルテ。三人で笑い合いながら旅ができたら、どんなによかったのだろう。
呪いはモルテの存在を消し去った。己の心と肉体が、異形へと変化する。その恐怖心に、モルテもカナールも、レネすらも潰れそうだった。
だが、そんな自分たちにも、一つだけ抵抗する手段が残されている。侵略者が予想していなかった唯一の〈薬〉が、この血潮に、流れている。

「……カナール。聞いてくれ」
レネの言葉に、カナールは顔を上げた。

正直、迷っていた。この提案をカナールにぶつけるべきか否か。この言葉は、この提案は、カナールを永劫に縛るものになる。救済というエゴを纏った、侵略者と別種の呪いになるかもしれない。
――それでも。

「俺の呪いは、両親から遺伝したものだ。両親が呪いと祝福の両方を持ち合わせているのなら、俺にも呪いと祝福の両方が遺伝されている可能性が高い。……フォティアはそう言っていたな」
「……うん」
「フォティアから、詳しく話を聞いた。アルカが騎士達に祝福をかけたときの状況を。特に道具も呪文も必要の無い、簡単なものだったらしい。敬愛の念を込めて、祝福をかける対象に口づけをすること……それが祝福をかける条件だ」
「レネ……まって、でも、それは……」
「やってみなきゃ、分からない」
分かっている。これは机上の空論だ。アルカにできたからといって、自分にもできるとは限らない。むしろ、〈できない〉可能性の方が高いだろう。
しかし、もし自分にもできたのなら。それは、カナールの心を魔物化から救う唯一の手段になる。

敬愛の念を込めた、口づけ。
祝福を受けている者が、魔物化する前の人間に、同じことをしたのなら。祝福を伝播させることが、できるのではないか?
レネは、赤い瞳でカナールを見つめる。もう、自分にもカナールにも残された猶予は殆ど無い。かけるのなら、今しかない。
自分は、覚悟ができている。カナールに祝福を伝播させ、魔物の身体と人間の心で生き抜く覚悟が、できている。
手に力をこめる。固く拳を握りしめ、深く、息を吸った。

「カナール。俺と共に、生きてくれるか。魔物の身体になっても、永劫に朽ちない身体を手に入れても、それでも俺と……共に、生きてくれないか」

涙で濡れた瞳が、見開かれる。一瞬の困惑と動揺を孕んだ色が揺れ、こちらを真っ直ぐにとらえる。
「ぼくで、いいの……? 本当に、ぼくでいいの……?」
「……構わない。お前だから、言えることだ」

カナールだから。自分の夢を肯定してくれた、相棒だから。誰よりも弱くて、だからこそ人の痛みに敏感で、寄り添うことができる。だからこそ、決意ができる。
カナールだからこそ、永劫の地獄を添い遂げる決意ができる。
レネの微笑みを見て、カナールの眼差しが一瞬伏せられた。しかし、次に瞼が上がった瞬間、雨と涙で濡れた顔がくしゃりと笑った。

「……うれしい……!」

心からの笑顔。カナールがここまで笑みを浮かべた顔は、初めて見るかもしれない。曇天が透過するわずかな日光が雨粒に反射して、相棒の顔にきらめきを添える。決して整った笑顔ではなかったが、ぐしゃぐしゃの顔からこぼれ出る笑みが、とても綺麗だ。


ひざまずき、カナールの顔をわずかに見上げる。笑みを解いてこちらへ視線を投げかける相棒の頬に、レネはそっと手を添えた。
腰を少しだけ持ち上げて、相棒と視線を交わす。大きい瞳が、こちらを待つようにそっと閉じた。

――祝福を。

――カナールが置いて行かれないように。
――二人で、この永劫を旅できるように。

近づける。相棒の柔らかな体温を、かすかな息遣いを、肌で感じる。
もう少し。あとわずか。

16.

触れる直前。
突如、背後からけたたましい轟音が聞こえた。同時に地面の縦揺れを感じ、二人はお互いに身体を離す。
「!?」
振り返り、目を疑った。背後の王城が、上から押し潰されるようにばらばらと崩壊している。建築物としての構造を破壊され、瓦礫の雨を振りまいて落下していた。
水とつぶてが降りかかり、レネはカナールをかばうように背を向ける。

――魔物の襲撃か?
しかし、敵影は見えない。王城は確かにいつ崩壊してもおかしくはないほど損傷していた。降りかかった土砂降りの雨や風が、倒壊寸前の建物にとどめを刺した。そう考えるのが自然だろう。

二十数年の劣化が、偶然・・、今になって牙をむいた。
そう思えばなんらおかしくはないが、それでも心のどこかに違和感が残る。
これは、本当に〈偶然〉か?
二十年以上耐えてきた王城が、自分たちの来訪に合わせて、たまたま崩壊した。そんなことが偶然に起こるのか? 本当に襲撃ではないのか?

レネは思考を張り巡らせて、ひとつの声を思い出した。
蚯蚓みみずがはびこる洞窟。意識を取り戻したばかりの茫洋とした鼓膜に届いた、気だるげな男の声。
「次の雨の日に、皆獣になる」

――あいつ……!
結びついて、息を呑んだ。
偶然なんかでは無い。これは意図的な計画だ。

もともと、この王城はとうの昔に倒壊するはずだったのだ。王城のいくばくもない寿命を恣意的に伸ばしたのが、セリーニの蚯蚓だったのだ。
王城で不自然な形に這っていた、つた。蚯蚓を避けて這っており、主の死と共に蚯蚓だけが消えたのだとしたら。あのたわみも、部分的に引きちぎられたような這い方も、蔦の前に「先客」がいたのだとしたら自然だ。

自分が死んだら、王城が倒壊するように仕向けていた。

――なら、「獣」は?
皆が獣になる。あいつはそう呟いていた。獣。自我のない、暴力的な凶暴性。
獣から守るものを、王城ごと潰そうとしていた……?

「カナール、王城へ向かうぞ!」
「え!? あ、危ないよ!」
「これはセリーニの策略だ。奴の狙いはアルカだ!」


***


半ば瓦礫の山と化した城へと駆け寄る。響いていた轟音は残響のみを残し、周囲には雨煙と共にぱらぱらと瓦礫が転がっていた。

フォティアは茫然とした足取りで、「定位置」へと向かう。
アルカの定位置。屋上庭園に咲く花々を見渡せる、お手製の一等席。彼女が好きな白い花も沢山、たくさん飾って――

「アルカ……?」
岩の山だ。
岩、岩、岩。さっきまで壁や床だったものは粉々に崩れて、壊されて、アルカの身体の上に居座っている。
瓦礫の下から、鳥かごが見えた。雨に打たれて、ぺしゃんこに潰れている。赤い液体が飛び散って、雨水と共に流れ去っていた。


――どけよ。
――そこは、アルカがいるんだ。

――アルカを起こさないと。また、花を植えないと、アルカが、アルカが……

その瞬間、鈍い頭痛をおぼえて、フォティアはうずくまった。
「あ、あ……」
声を自制することが出来ず、構わずに苦悶の音を漏らす。

――膝をついてる場合じゃない。

――助けないと。起こして、ちゃんと、かごを直さないと。

――だめだ、やめて、やめてくれ。


――いやだ、アルカ。


 ア       ル       

                   カ    。

「ああああああああああああああ!!!!!」

腹の底に響くような断末魔を聞き、レネとカナールは見上げた。
声の主はフォティアだった。竜骨の魔物が、瓦礫の上に立ち上がり雄叫びを上げている。

「フォティア……?」
「待て、様子がおかしい」
もとは少年の声だった。しかし、雄叫びは徐々に声質を変化させ、均一な正弦波となり、徐々に獣性を帯びてくる。

予感は的中していた。レネは利き手を剣に添える。
アルカは死んだ。おそらくはセリーニの思惑通り、瓦礫の下敷きになったのだろう。
祝福の消滅。加護の途絶による、魂の変質。何もかもが、奴の放った言葉通りになってしまった。

目の前にいるのは、優しい少年騎士ではない。
そこにいるのは、確かに「魔物」だ。

完全なる獣の雄叫びを上げ、それ・・は、瓦礫の上から、こちらを見た。