8.
竜骨の魔物にしがみつきながら、カナールは下っていく街並みを見た。
深い森の梢を天然の屋根として、白い小さな家々が立ち並ぶ。雑草と蔓に覆われ、緑がかなり侵食しているが、もともとはまさに白亜の瀟洒な街並みが広がっていたのだろう。柔らかい木漏れ日が、時間が止まってしまった街を優しく照らす。
家と家の隙間を縫い、竜骨の魔物は軽々と地面を蹴る。苔むした石畳を蹴り、崩れた階段を上がり、瓦礫の上に着地し、穴が開いた屋根を飛び移る。
見下ろせば、道のところどころに道具が転がっていた。壊れた洗濯桶、焦げた樽、座面が外れてしまった木の揺り椅子。
リヴァーディアに入って、初めて「街」と呼べる光景を目にした。国民の大多数が、ここで生活をしていたのだろう。侵略の日までは。
「……どこへ行くの?」
「じきに着く。お前に訊きたいことが山ほどあるから、付き合ってもらうぞ」
改めて聞くと、やはり少年の声だ。おそらく、自分とそこまで歳が離れていない。強い意志と冷静さを兼ね備えた声だ。
***
竜骨の魔物は、カナールを王城へと連れて行った。街並み同様に、白亜の建材で構成された城内は、〈神聖王国〉の名をそのまま表すような、静謐で壮麗な印象を与えた。城内も蔓と雑草で覆われ、ところどころに戦闘の痕跡を示す傷跡や大きな瓦礫が残されていた。そして、西側を中心に建物の半分が黒く焼け爛れている。
城内に入っても尚、竜骨の魔物はカナールを下ろさなかった。崩落の危険性が高い場所が数多く存在するため、下手に歩かれたくない、というのが理由らしい。言われてみれば床も天井もびっしりと罅が入り、細い蔓で支えられているような危ういところばかりだった。
階段を何度か上り、街を見下ろすことのできるバルコニーへ到達する。そこでようやく解放されたカナールは、改めて竜骨の魔物を見上げた。
竜の頭蓋骨。首から下は人の骨格。脊椎からは突起と思しき長い棘が生え、異様に大きい手足も骨で構成されている。身長はレネよりも大きく――小柄なカナールは、首を痛めるほどぐっと見上げなければいけない。
そして、ここでカナールは自覚した。魔物は、黒い波動を纏っている。これがレネの言う「魔力が視える」状態なのだろうか。視界も、紋様も、完全にレネと揃いになってしまった。
魔物は腕を組み、カナールを見下ろした。
「お前は何者だ? どうして人の姿を保っていられる」
警戒。訝しむような強い声は、威圧的な色を帯びている。
「……ぼくたちは、障壁の外から来たんだ」
「嘘をいうな!」
魔物は声を張り上げ、カナールの言葉を否定する。
「あの障壁を通過できるのは、王族とおれたち騎士だけだ。なんの資格も持っていないただの人間が、通過できるものじゃない!」
疑われるのも当然だ。イスキオスは、「僕たちは障壁を通過できる選ばれし者」と話していた。裏を返せば、普通の人間は障壁を通過できない。
平時は障壁が国の存在そのものを隠し、人の往来を隔てていたはずだ。だからこそ、リヴァーディアは地図に載らずに世界から隠れて生きてこられたのだから。
「……ぼくは、ぼくたちは、ただの人間じゃない。ぼくは、意志を持つ魔導書の器なんだ。ぼくが通過できたのは、たぶんモルテのおかげだ……」
視線を伏せ、鞄から魔導書を取り出す。
返事も、気配も感じられないが、まだカナールの中で眠っているはずだ。
レネは呪いに侵され、すでに人間の理から外れていた。だからこそ、モルテの治癒魔法も効かなかったし、魔法障壁を通過することができた。障壁は〈人〉を隔てるもので、魔物を隔てる目的で造られたものではなかったのだろう。人の理から外れているのは、モルテはもちろん、その器に選ばれた自分もそうだ。
口頭で説明しただけでは、この魔物には信じてもらえない。しかし、自分は現に障壁の内側へこうして立っている。それに、レネの右目が持つ性質を他の魔物も兼ね備えているのであれば、おそらくこの魔物も魔導書が放つ魔力の波動を捉えられるはず。それが何よりの証拠になってくれる。
だからこそ、彼には本題をぶつけても問題ないだろう。
「ぼくたちには、もう一人仲間がいるんだ。呪いに侵されている。彼は……イードルとイリオスの子供だよ」
「なに……!?」
――やっぱり。
カナールは確信した。魔物の目の色が変わった。イードルとイリオス、かつての同僚の名前を出せば、彼は確実に反応してくれると思っていた。
「おれたち騎士」。魔物は先刻の会話で、そう発言した。間違いなく、彼はフォスたちと同じく騎士の一人だ。ならば、フォスが言い残した人名の中でまだ出会っていないのは、この名前のみ。
「助けてほしいんだ。フォティア。ぼくたちは、呪いを解きにここへ来た」
9.
「断る」
フォティアの理解は早かった。
カナールはこちらの事情を一通り説明し、魔物に相棒が捕まったことまで話し終えた。こちらの手の内をすべて明かした方が得策だろうと考え、自分とモルテの関係も、二人と一冊が呪いに侵され、このままでは、解呪どころか全員が人としての生命を奪われてしまうことも、残された時間があまり無いことも説明した。
たどたどしい言葉で紡いだ説明を、フォティアはすぐに理解した。そのうえで、カナールの嘆願を、たった四文字で吐き捨てた。
「どう、して」
カナールはかすれる声を絞り出す。
フォティアは最後の希望だった。彼は石像の魔物に襲われていた自分を助け、王城まで連れてきてくれた。それなのに、ここまで来て無下に断られるなんて。
「こちらに何の利益もない願いを受けるほど、おれは優しくない」
「でも、君はぼくを助けてくれたじゃないか……!」
「あれは、お前が何らかの情報を持っているかもしれないと思ったからだ。この呪いに満ちた地で人の姿を保っていられるのなら、解呪の鍵を握っているかもしれないと、期待した」
フォティアは右手をグッと握り、顔を伏せる。
「……なのに何だ、お前は何も知らないただの余所者じゃないか! 結局お前も、おれたちと何も変わりはしない!」
フォティアの激昂に、返せる言葉が見つからなかった。それは単なる怒りではなく、希望と絶望が入り混じった悲哀を孕んでいた。
「ようやく……お前を見つけて、ようやく! アルカを……姫巫女を、元の姿に戻すことができるかもしれないと、思ったのに……!」
震える声で、フォティアは絞り出す。頭はぶるぶると項垂れて、きつく握られた両の手は行き場が見当たらない。
呪いを解きたい。それは、フォティアたち騎士だって同じこと。誰かに出会うことができたのなら、その人は、解呪の鍵を握っているかもしれない。
そんな薄らとした光を望んでいるのは、フォティアとて同じなのだ。
彼が言い放った言葉を噛みしめ、カナールは自分の非力さを心の中で詫びた。
何かの情報を掴んでいたのなら、お互いに、こんな顔をしなくて済んだかもしれないのに。大切な人を救えるかもしれないのに。
そして、先ほどの発言の中から、聞き覚えのある名前をぼそりと口に出す。
「アルカ……? そういえば、アネモスもアルカ様って言ってた……」
「……おれたち騎士の任務は二つ。障壁を通過してくる魔物や害獣を撃退すること。もう一つは、国を……主に王と、姫巫女を守ることだった」
「『だった』……。王と姫巫女も、魔物の襲撃に?」
「王は死んだ。魔物の襲撃で八つ裂きになった。姫巫女は……アルカは、生きている。ここにいる」
項垂れていたフォティアの頭蓋が持ち上がる。ふらりと脚を進め、バルコニーの奥へと消えていく。
バルコニーの隅は、瓦礫に遮られて死角となっていた。フォティアの後を追ってカナールが顔をのぞかせると、そこには大きな鳥籠があった。子供が辛うじて身をかがめて入れるくらいの大きさのそれを、上の取っ手をつまみ上げるようにして、フォティアは持ち上げる。空いた左手で籠の底を支え、赤子を抱きかかえるかのように、慎重に優しく、手に取った。
籠の中には、人がいた。
辛うじてまだ、〈人〉と呼べる形態を保っていた。

黒い焔に包まれ、墨色に焦げたそれは、確かに人だ。髪も皮膚もすべて焦げ果て、炭化した筋肉の繊維がむき出しになっても尚、その人影は炎に包まれていた。
「紹介しよう。アルカだ」
カナールは絶句した。
「生きている」と。フォティアは確かに、この消し炭が生きていると言った。
黒い炎に身を焦がされ、顔を判別できないほどに全身が炭化してもなお、この子が、生きていると?
10.
震える指先を、そっと鳥籠へ伸ばす。
中は黒い炎が轟々と燃え盛っているが、不思議と熱を感じない。内部は、自分たちがいる場所とは隔絶されているのだろうか。これも、フォティアの能力なのか?
鳥籠の格子へ触れようとして、寸前で思い留まる。カナールの指先は、中途半端にのびたまま行き場を失った。
――どんなに、苦しいのだろう。
「アルカ」と呼ばれた人影の、顔と思しき部分を見る。瞼も、瞳も、鼻筋すら残っていない。筋肉のすべてが熱で縮み、顔貌は変わり果てていた。閉じることを許されなくなった口からは、小さく白い歯が覗いている。
彼女の表情や眼差しは、カナールには分からない。けれど、二十年以上も身体を炎に晒されている彼女は、いま、どんな業苦の最中にいるのだろう。
熱い。痛い。苦しい。
そんな言葉で片付けるには、あまりにも重い。筆舌に尽くしがたいほどの苦痛を、彼女は、今もこうして、永劫に――
「……こんなの、」
「分かってる。いっそ死なせた方が楽にしてやれると、言いたいんだろ?」
冷静で、且つ自嘲に似た声で、フォティアは言った。怒りや悔恨の感情をとうに越した、諦めに近い色だった。
「分かってる。分かってるんだ……。端から見れば、こんなの牢獄だ。おれのエゴで、アルカを余計に苦しめてるだけだ」
「それなら、どうして」
返答はなかった。その代わり、フォティアはアルカを仕舞っている鳥籠を優しく抱えた。赤子を抱く母親のような、もしくは極寒を凌ぐため自身を抱きかかえる様な、両価的な仕草で、フォティアは自身の胸にアルカを引き寄せた。
「同じだよ。お前がここに立っている理由と、おれがアルカを生かし続ける理由は、同じだ」
「え……?」
アルカを見下ろすように俯いていた竜の頭骨が、すっとカナールの方へ向き直る。
がらんどうの眼窩が、確かにカナールの赤い瞳を捉えた。
「いつかきっと、助けられる。元に戻る。そんな希望を捨てられないから……お前は、おれは、ここにいる。違うか?」
「……!」
はっと、カナールは己の目を見開いた。
仲間を、助けられるなら。希望がまだ残っているなら、なんでもやる。なんでもする。たとえどれだけの年月が流れようと、絶対に、二人で元の姿に戻る。
平和な中で笑い合える日を、絶対に掴み取ると、リヴァーディアで決めたから。
どうして、そんなことすら、気がつかなかったのだろう。
目の前にいる彼は、フォティアは、自分と変わらない。
どんな苦難が待とうとも、絶対に守りたい人がいる。黒い炎ですべてが燃えようとも、大切な人を見捨てられなくて。助けたいと思っていて。
自分がレネに抱く感情と、フォティアがアルカに抱く感情は、確かに同じだ。
まったく、同じ……
……その感情は、きっと、〈愛〉だ。
11.
「ごめんなさい」
「いいんだ。謝るな。当然の反応だ」
面をあげ、フォティアはゆるゆると首を横に振る。
「この鳥籠の中にいる限り、アルカは死なないの? これは、きみの能力?」
「そうだ。おれの能力は〈保護〉らしい。籠の外へ出さなければ、アルカは半永久的にこのままだ」
「もういっこ、訊いてもいいかな。前にフォスに会ったとき、彼女はぼくの仲間の呪いを一時的にだけど抑え込んでた。その力を、アルカに使わなかったの?」
「やったさ。やったけど、うまく行かなかった。アルカには、効かなかったんだ」
フォティアの声色は、穏やかだった。この境地に至るまでに、きっといくつもの試行錯誤と失敗を繰り返したのだろう。眉尻が下がったカナールの顔を見て、フォティアは続けた。
「実は、最初の数年間……おれとフォスは行動を共にしていたんだ。できることはすべてやった。国中の文献を漁った。いくつもの術を試した」
「……でも、うまく行かなかったんだね」
「ああ。彼女の〈隠蔽〉の能力は、長く持たない。最初はおれも人の姿を取り戻したが、数時間も経てば魔物の姿に逆戻りだ。アルカも、おれも、民衆すら救えないことをあの人は自分で責めて……いつしか、おれたちの前から姿を消した」
――「わたくしを、ゆるして」。
フォスが、死の間際に呟いた言葉。何を許してほしかったのか当時はぴんとこなかったが、今では少しだけ彼女の気持ちが分かった気がする。
フォスも、フォティアも、きっとイスキオスやアネモスも、終わってしまった世界を自分なりになんとか立て直そうとしたのだろう。しかしそのどれもが上手く行かなくて、侵略前は噛み合っていた歯車もだんだんと狂っていった。
挫折と無力感に溺れたまま途方もない時間が過ぎ、彼らの心は歪んでいった。そう考えれば、国を捨て子供を優先したイードルとイリオスへの恨みの感情も、度を越した自罰的な感情も、理解できる気がする。
「カナール。お前が現れた時、希望が見えたと思った。この人間なら、解呪の鍵を握ってるかもしれないって。でも違ったんだな……外にも、呪いを解く鍵なんて、ないんだな……」
白く大きな骨の手が、再び鳥籠をきつく抱く。縋るように顔をうずめ、フォティアの声は涙混じりに震えていた。
彼の話はそこで途切れた。カナールも、彼にかけるべき言葉が見当たらず、口を引き結んだまま手を握るほかなかった。
――こんなとき、モルテなら、レネなら、なんて声をかけるだろう。
自分の能力に誇りを持っているモルテなら、「僕に任せて」と言えるのだろうか。意志が強くて、自分で路を切り拓くレネなら、不器用ながらも優しく慰めたのだろうか。
――ぼくは何も持ってない。何もない。
――けれど。
「フォティア」
小さい両手を、フォティアの手に添える。硬くひやりとした感触が掌から伝わってきた。フォティアは鳥籠にうずめていた頭を僅かに持ち上げ、カナールを見る。
「ぼくは諦めない。レネとモルテを助けるのを、最後まで諦めたくない。せっかくフォティアに助けてもらったのに、ここまできて何もしないだなんて……そんなの、いやだよ」
「カナール、お前……」
「だって、生きてるんでしょう? ぼくも、フォティアも、アルカも、モルテも、レネも、まだ生きてるんだよ」
カナールはフォティアと視線を合わせたまま、優しく微笑む。フォティアの頭蓋は僅かに動き、かすかだが驚くような息遣いが聞こえた。
「イードルとイリオスは、この国の騎士だったんでしょ……? さっきも言ったけど、捕まってるぼくの相棒はその二人の子供なんだ。フォティアとレネが二人で国中の文献をもう一度調べなおしたら。見たもの聞いたものを全部記憶できるモルテなら。もしかしたら、今まで見えてこなかった何かが見えてくるかもしれないでしょ……!」
いつの間にか、日は空高く上っていた。雲の隙間からささやかな光が差し込み、フォティアの顔を照らす。先程まで暗い影を落としていた彼の眼窩に、僅かだが光が差し込むように見えた。
強い決意を宿すカナールの瞳が、きらりと輝く。カナールがひとりで目覚めたときの、涙に濡れた眼差しは、最早どこにも残っていなかった。
「フォティア。お願い、力を貸して。呪いを解いて、五人で元に戻ろう」
――ぼくは、何も持っていない。
――けれど、諦めだけは悪いんだ。
「……カナール、敵のことを教えてくれ。作戦を練ろう」
12.
蚯蚓の魔物。
今思い返せば、彼は最初から――自分たちがリヴァーディアに入って間もないころから、ずっと自分たちを監視していたのだろう。そうでなければ、自分とモルテの関係を知っているはずがない。
あの魔物は、自分たちの旅路をずっと盗み見ていたのだ。イスキオスとアネモスとの戦闘で消耗したタイミングを見計らい、魔導書を強奪し、レネを洞窟におびき寄せ、捕縛した。巣の中でレネに対して何をしているのかは……考えたくもない。
無数の蚯蚓が這う、狂った空間。目許に走る青い亀裂。三日月のように歪んで嗤う細い唇。フォスとも、イスキオスとも、アネモスとも違う。明らかに他の者と一線を画した、度を越した異常と狂気を孕む存在。
彼は――たしか、セリーニと名乗っていた。
「……セリーニ? セリーニと言ったのか?」
「そう、だけど……」
フォティアの様子がおかしい。
彼の視線はこちらから外れ、バルコニーの床を一点に見つめていた。きつく握られた両手はわなわなと震え、両腕の中の鳥籠までカタカタと揺れている。
「あいつは……そうか、まだ……生きていたのか……!」
呟くように、フォティアは言葉を吐く。その声は悲しみでも喜びでもない、怒りだった。水面下で煮えたぎるような、どろりとした溶岩のような、強く黒い、憤怒。
「……!」
彼の様子に圧倒され、カナールは口を噤む。むやみに話しかけようとすれば、その矛先が自分にも向けられるのではないか。そう思うほどに強い激情だった。
その台詞は短かったが、カナールがフォティアの感情を理解するには、あまりにも十分だった。
フォティアは、セリーニに対し強い確執を抱えている。それは怨嗟なのか、執着なのかは分からないが。
気圧されたカナールに気づき、フォティアははっと我に返ったようだった。自戒するようにかぶりを振って、怒りを内側に押し込めている。
「すまない」
「……セリーニは、彼も、騎士だったの?」
慎重に言葉を選ぶ。なるべく当たり障りのない、それでいて話題を逸らしすぎないような質問を無理やりに紡いだ。
「そうだ。正確には〈元〉騎士だ。あいつはリヴァーディア侵略の数か月前……法に抵触した。そのせいで騎士を除隊されている」
「除隊? 何をしたの?」
「言いたくない」
即答で、棄却された。付け足すように、「お前が知るにはまだ早い」と言われて。それほどまでに、セリーニは度し難い罪を犯したのだろうか。
「リヴァーディアが侵略されて数日後、あいつが居る筈の牢に行ったことがある。空っぽの檻をみて愕然としたが……そうか、生きて、たんだな……」
怒りの感情が、再度沸騰しているようだ。声を聞いただけでも分かる。カナールの前で爆発させないように、恨みをぶちまけないように、息を長く吐いてフォティアは必死に抑えていた。
「蚯蚓の魔物、だと言ったな。あいつと戦うには、能力を把握しておけないといけない。敵を捕まえる、殴る……他に、魔法を使うようなことはあったか?」
「それはなかった。多分、できないんじゃないかな……魔法が使えるなら、多分使ってたと思う」
「そうか。なら、単純な力比べでの勝負になるな」
そう、うまく行くだろうか。向こうはレネという人質を取っている。無闇にレネを殺すことはしないだろうが、あの嗜虐的な態度を思い起こせば、彼がレネに何もしないという保証はない。
それに、彼の能力。今までの旅路を彼が盗み見ていたというなら、彼の能力は。
「多分、セリーニの能力は遠くの何かを見たり聞いたりすることだと思う。テレパシーとか、千里眼とか、そういうの」
「根拠は?」
「ぼくとモルテのことを知ってた。レネにも話してなかったことを、セリーニは知ってたんだ。だから多分、彼は〈知る〉能力なんだよ」
フォティアは口元に手を当て、長考する。
「だとすると、厄介だな。ここで作戦を立てたところで、奴に全部把握される」
「あ……」
「勝機がないわけじゃない。ちなみに聞くが、お前は魔法を使えるのか?」
「魔法……」
使ったことがあるのか、という質問ならば、肯定する。しかし、「使える」かと問われれば、それには否定の言葉を返すほかない。
使えない。使いたくない。なぜならそれは、人をみだりに傷つけてしまうから。無理に使って、万一暴走させてしまったら。まして、大切な人が丸腰の状態で捉えられているのだ。
レネを、母親や家鴨たちと同じように、細かい肉塊に変えてしまったら――
胃がぎゅっと縮みあがり、カナールは嘔吐いた。あの日の光景がフラッシュバックし、強烈な吐き気を催す。すんでのところで堪えたが、フォティアには青白い顔を見られてしまった。視線を上げると、彼はばつが悪そうに、ふいと視線を逸らす。
「――やっぱり、そう考えると純粋な力比べでの勝負になりそうだな。お前が言ってたモルテとかいう魔導書も、今は休んでいるんだろ?」
モルテの気配は、相変わらず感じられない。呪いに耐えて休んでいるのだろう。
「城の裏手に、確か果物が生っている木があったはずだ。お前も一度身体を休めたほうが良い」
「え、大丈夫だよ。それよりも早く――」
遮るようにして、カナールの胃から低い音が鳴った。今さっき吐き戻そうとしていたのに、今度は空腹を知らせてきたらしい。なんと勝手な胃なのだろう。
「う……」
赤面し、腹部に両手をあてて俯く。恥ずかしい。手をあてたところでどうにかなるものではないが、思わずそうしてしまった。
頭上から、くすりと笑う声が聞こえる。
「フォティア……」
「ほらみろ。さっきの話を聞くに、お前ろくに食事も摂ってないだろ」
そういえば、最後に食事らしい食事をとったのはいつだったか。今朝は起き抜けに石像の魔物に襲撃された。その前日は、レネを探しに行ったらセリーニに襲われて、さらにその前はモルテが呪いで倒れていたから、食事をする余裕なんて――
「これから戦いに行くんだ。少しでも万全な状態にしておかないと、いざという時身体が言うこと聞かないぞ」
「でも……」
頭では理解しているが、どうしても彼の提案を呑めずにいた。こうしている間にも、レネやモルテの呪いは進行しているのに。自分だけしっかり休むなんて……
「カナール」
諭す声が、頭上から降ってきた。
「今は日が高い。別に奇襲するわけじゃないが、昼間に行くより夜中に攻めたほうが、まだ勝機は高いんじゃないのか。――だから、休め」
ぽん、と、骨の右手がカナールの頭に置かれる。竜の頭蓋骨は表情こそ読み取れないが、今なら、フォティアがどんな顔をしているのか分かる。
「……ありがとう。フォティア」
騎士の中で誰よりも優しいその少年へ、カナールは微笑みを返すのだった。
13.
三人で夜を迎えるのはいつぶりだろうか。
リヴァーディアが滅んだ後の夜は、いつも静かだ。国土の中央を走るエレフテリア河の、さらさらと流れる音が帳にそっと寄り添ってくる。
夜は静かだが、孤独ではない。自分の――フォティアの隣には、いつもアルカがいる。彼女が纏う黒い炎の轟々とした音に加え、今夜はカナールという子供の微かな寝息も聞こえてくる。なんと賑やかな夜なのだろう。
「……アルカ。眠ったみたいだ」
ささやくように、フォティアはアルカへ話しかけた。もちろん、彼女の返事はない。フォティアはアルカの隣に腰かけ、カナールの寝顔を見守る。
石像の魔物と接敵しているときの顏とは、まるで別人だ。見ているこちらが微笑ましくなるくらい、穏やかな寝顔を浮かべている。
「……アルカ。カナール。ここで待っててくれ」
フォティアはぽつりとつぶやいて、アルカがいる鳥籠を〈定位置〉に置いた。
屋上庭園のほぼ中央――数年かけて、城の離れにある「塔の庭園」から植え替えてきた花々すべてが見渡せるその位置が、アルカ専用の特等席となっている。
空を見上げる。雨の心配はなさそうだ。カナールも起きる様子はない。そもそも、セリーニのところへ向かうのは今から二時間後の明け方だと伝えている。しばらくは起きてこないだろう。
……だから、大丈夫だ。このまま、自分一人でセリーニのところに向かっても。
「騙すような真似してすまない」
起こさないように、小声でささやく。
本当は、自分を信頼してくれているカナールのことを裏切りたくはない。しかし、セリーニが自分たちのことを見張っているのだとしたら。立てた作戦総てが知られてしまうのだとしたら、こうして味方ごと騙すしか、方法はないのだ。
フォティアは屋上庭園の柵へ足をかける。昼間に、カナールからセリーニのいる洞窟の場所はそれとなく聞いておいた。迷わずに向かえるはずだ。
「……待っていろ、セリーニ。おれが、必ず――」
骨格の足が柵を蹴り、フォティアの身体はひらりと跳躍した。
***
彼女へ向ける感情が、〈恋〉だと気づいたのはいつからだったか。
純白の長い髪をなびかせ、宝石のような瞳を輝かせ、花のように可憐な顔で笑う。
草花を愛し、相棒の青い鳥を愛し、屈託のない笑顔を絶やさなかった、アルカ。その姿は、いつも太陽のように眩しくて。
純粋無垢という言葉をそのまま表したような彼女の笑顔に、いつの間にか、惹かれたのだ。
叶わない恋だというのは、分かっていた。
騎士が姫を愛するなど、身分違いであることも分かっていた。
成就しない恋であることなんて、最初から分かっていたのだ。
それでもよかった。
リヴァーディア王城の庭園で、花と戯れる彼女の姿をずっと眺めていられたら。
ただそれだけで、よかったんだ。

それだけで、良かったのに。
あいつは、セリーニは、彼女を――
14.
指の先まで冷え切ってしまったレネの身体を、セリーニはそっと横たえた。
脈はある。呼吸も問題ない。そもそも、致命的な状態に至るほど嬲ってはいない。
彼の精神が限界を超えるまで、甚振っていたのだろう。搾取し、蹂躙し、束縛の限りを尽くしたから、彼の体力はいつしか尽きていたらしい。
レネが纏う衣服の上から、緑の布をかける。気休め程度だが、多少保温の助けにはなるだろう。剣と道具類は万一を考え、手が届かない端の方に寄せておいた。
――疲れた。
久々に感じる、倦怠。単なる消耗とは違う、充足の先に味わうことのできる恍惚とした疲労感を、セリーニは噛みしめた。
一度、彼も私も休息が必要だ。精神も体力も尽き果てた延長での遊戯など、面白みも何もない。長い息を吐き、細い指で前髪をかき上げる。ゆっくりと、草臥れた身体を蚯蚓の壁に凭れ掛らせた。
一匹の蚯蚓を這わせ、未だ夢の中にいるレネの頭にそっと触れる。髪を整えるように優しくなぞり、そのまま左耳へと先端を滑らせた。三角の耳飾りが、しゃり、と慎ましく鳴く。
懐かしい。彼女が歩けば、鮮やかな桃の髪が揺れる。その拍子に耳飾りも揺れて、オウルムが彼女の頬にささやかな煌めきを添えるのだ。
彼女を、憶えている。軽やかな足取りも。力を秘めた碧い眼差しも。薔薇色に上気した頬も。眩しい笑顔も。溌溂とした声も。細い指も。温かい唇も。
憶えている。全部、全部、鮮烈に。この身体が、この左手が、彼女を求めて髄から欲するのだ。
あんなにも触れたのに、まだ足りない。
もっと吸いたい。もっと混じりたい。もっと、感じていたい。
「……イリオス……」
欲のままに、手を伸ばす。蚯蚓ではなく、自らの左手を伸ばして。
すぐ眼の前で眠っている、イリオスの面影へ――
――触れる直前。
〈見えた〉光景に気づき、セリーニははっと指を戻した。
セリーニの腰から伸びる無数の蚯蚓。彼らは主の手足だけでなく、目や耳にもなっている。蚯蚓から己の脳内へ注がれるいくつもの景色の中、リヴァーディアの森を疾駆する白い巨躯が見えた。
ふ、と笑みがこぼれる。予想外の来客だ。昼頃に魔導書の依り代と会話をしているのが見えていた。何れここへやってくるだろうとは思っていたが、このタイミングで、そして一人で来るのは意外だった。
もう、彼の姿はすぐそこだ。直にこの中へと到達するだろう。どうやら、休息をとる暇はないらしい。
それでも構わない。巣を荒らすものは、何であろうと排するだけだ。
セリーニは身を起こす。
「久しいな……フォティア」
***
夜明けはすぐそこだ。薄紫へと変わりつつある東の空を正面に、カナールは必死に森を走っていた。涙を零しそうになる目を必死に擦り、がむしゃらに脚を動かす。
「フォティア!!」
走りながら、名を呼ぶ。もし、彼がまだセリーニの棲家へ向かう道中にいるのなら返事がくるかもしれない。そんな可能性は万に一つだったが、それでも叫ばずにはいられなかった。
――ばか、フォティアのばか!
置いていくなんて。あれだけ準備を整えろだなんて偉そうなことを喋っておいて、自分だけ先に行くなんて!
こちらの作戦は、相手に筒抜けだ。だから、敵の虚を突くには味方も裏切るしかない。カナールもそれは理解していた。だからといって、本当に裏切るなんて。アルカも屋上庭園に置いて、自分だけセリーニのところに行くなんて――!
「――あっ!」
脚がもつれて、転倒した。派手に前のめりに転んで、草木へ全身をうずめてしまう。じんじんと主張する両膝の痛みに耐えて、カナールは起き上がった。
ここに来る途中、すでに一度転んでいる。王城へ入るときにフォティアが忠告した通り、廊下は一部崩落していた。事態に気が付き駆け出したとき、床と一緒に自分も階下へ落ちたのだ。幸い、膝を擦りむく程度の怪我で済んだのだが。
その事実も、カナールの怒りに拍車をかけていた。フォティアは自分を庇うつもりで王城に置いていったのだろうが、それが原因ですでにこちらは負傷している。やっていることが、あまりにも中途半端だ。
立ち上がり、服についた草を手で払う。
作戦など、ない。洞窟に到着したら、自分はどうすればいい? フォティアがセリーニを打ち負かしていたのなら問題はないが、もし、逆だったら。
レネもフォティアもすでに手遅れだったら、自分は――
右手についた草をつまんで、カナールは憂慮する。悪い方向の〈もしも〉ばかりが頭に浮かんで、雁字搦めになっていた。不安ばかりが重くのしかかって、動き出せずにいる。
――モルテ。ぼくは、どうしたらいい……?
駄目もとで、眠る相棒へ語り掛ける。
その時だった。

