
1.
レネの書き残していた「大切なもの」は、すぐにわかった。モルテがあれだけ肌身離さず持っていた本が、どこにも見当たらなかったからだ。
魔導書とレネが、揃ってこの場にいない。手紙には何があったのか書かれていなかったが、カナールにも事態の予想はついた。
「取り返してくる」。レネは手紙にそう書いていた。裏を返せば、魔導書の奪還が必要な状況――何者かによる強奪が起きたのだろう。リヴァーディアの現況を鑑みるに、それはおそらく、レネやその両親とゆかりのある魔物の仕業なのではないか。
だが、戦闘の痕跡は無い。魔物かレネのどちらかが傷を負ったのなら、血の毒性によって近辺の草が枯れているはずだ。その様子は無い。戦闘を伴わない、おそらく不意打ちのような形で魔導書を奪われた。行動不能になっている自分たちを守るため、レネは一人で魔導書の奪還に向かった。
生還できないかもしれない、命がけの覚悟を、手紙にしたためて。
――レネ。どんな気持ちで、あの手紙を書いたの?
涙をこらえながら、カナールは歩き出していた。はっきり目視できるほど明確に、草が一方向になぎ倒されている。何者かが這いずって踏み倒したような、即席の道標。これを辿れば、きっとレネのところへ行ける。
レネも同じように、草を辿って魔物を追ったのだろうか。自分とは関係の無い、ただの魔導書を取り返すために。あれはレネにとっては、普通の本に見えているはずだ。モルテとカナールにとっては大切なものだが、レネが命をかけて取り返しにいくほどのものでは無い。
――どうして、どうしてそこまでしてくれるの?
呪いに窮したモルテを背負って、聖堂まで運んでくれた。
「降ろして」と頼んだモルテの言葉を否定して。
見捨てることもできたはずなのに。
利用するどころか、レネは、自分たちを命がけで守ってくれている。
――ぼく達は、あまりにも利己的で、排他的なのに。
――そこまでしてもらう価値なんて、ないのに。
***
草の道標は、洞窟の手前で終わっていた。日はとうに傾いており、木々の隙間からのぞくわずかな残照が、洞窟の入り口をか細く照らしていた。
モルテがいれば、光源となるものを魔法で生み出せる。しかし、カナールは魔力こそあれども使い方が分からない。人生で初めての魔法は、母と家鴨を肉塊へ変えた暴力的なものだったのだから、使おうと思ったことすら無かった。
今まで、肉体の主導権はモルテが握っていた。魔法が使えなくなったときのことなど考えたことも無い。だから、代わりの道具も持ち合わせていない。
カナールは手探りで洞窟の中を進む。中は思ったよりも広く、時折手が触れる土壁の感触を頼りに奥へ奥へと進んだ。やがて、視界がうっすらと光を取り戻していった。奥から差し込む明かりを頼りに歩調を早め、
狂った空間に踏み入った。
ひんやりとした土壁を離れ、生暖かい空気に包まれる。天井も壁も床も、一切の隙間を残さず無数の蚯蚓が這いまわっている。徐に蠢く、鮮紅色の肉壁。その様はまるで生き物の胎内のようだ。
吐き気を伴う嫌悪感が、カナールの五感を埋め尽くす。反射的にえづく口元に、両手で蓋をした。意識して深く息を吐き、荒げた呼吸を整える。逆流しかかった胃液を戻す。手を離すとまた吐き気が襲ってきそうなので、両手を口に当てたままカナールは上を見上げた。
そこには、見慣れない人影があった。
長い黒髪。白い肌が張り付いた顔面は青い亀裂が入っている。薄く細い裸体を下ると、腰から下が蚯蚓の群れとつながっていた。人影と呼ぶにはあまりにも禍々しい。
――魔物、なの?
腰の蚯蚓を視線で追うと、部屋中の蚯蚓と繋がっていた。あの魔物が、蚯蚓を束ねる主のようだ。
魔物は、こちらに気がついていない。目の前の〈塊〉に夢中だった。それは蚯蚓が複雑に絡み合い、二メートルほどの大きさを形成している。一本一本が蠢き合い、時折塊の中身が垣間見えた。
くすんだ桃色の髪。紫の紋様が浮かぶ肌。左耳から揺れる、三角の耳飾り。
――見覚えがある。
共に旅した仲間が、
カナールが探していた人物が、
命がけで自分たちを助けようとしてくれた相棒が、
恐ろしいほど暴力的で、狂っていて、凄惨な状況の中心に、囚われている。
「レ、ネ……?」
2.
目を疑った。見間違いであってほしかった。しかし、見れば見るほど、蚯蚓の塊の中にいる人物はレネの特徴と一致している。
蚯蚓一本一本がレネの四肢を拘束し、全身を締め付けるように撫でている。気絶しているのか、レネが抵抗する様子は見られない。意識を手放さなければならないほど、この蚯蚓たちにひどく蹂躙されたのだろうか。今にも沈んでしまいそうな、潰えてしまいそうな命が、糸一本で繋がれている。
あまりにも衝撃的で、釘付けの視線を外すことすら、カナールにはできなかった。
硬直していると、頭上から声がした。
「……ああ、失礼。気がつかなかったよ。取り込み中でね……」
蚯蚓の魔物は、こちらを向いた。視線こそ亀裂のせいで見えないが、魔物の注意と声は確実にこちらに向けられている。
抑揚に乏しい、青年の声だ。疲労が見える声とは裏腹に、彼の口角はつり上がり恍惚とした笑みを浮かべていた。
カナールは、理解できなかった。どうしてレネが、そんな姿でそこにいるのか。どうしてこの蚯蚓の魔物は、そんな表情でこちらに語りかけるのか。
「何……してるの……?」
「訊きたいか?」
聞いても君にはまだ早いかもしれないが、と付け足し、魔物は嗤う。
分からない。この魔物が、何をしているのか分からない。
分かりたく無い。だってこれじゃ、これじゃあ、まるで。
「……返して、レネを返して!!」
「レネを? 優先順位が違うだろう。君の元来の目的は、これではないのか?」
叫ぶカナールへ放るように、魔物は魔導書を落とした。カナールは数歩駆け寄って、落下するモルテの本体を胸に抱えるようにキャッチする。
「その魔導書は、もう不要だ。既に欲しいものは入手した」
「欲しいもの……?」
「イリオスの形見にして、我々と同じ祝福を受けし者。私には、これが有れば十分だ」
蚯蚓の魔物は、レネの顏をくいと引き寄せる。髪の隙間から見えるレネの瞼は閉じられていた。対照的に、蚯蚓の魔物は薄い唇で笑う。三日月のような口元が、歪にゆがんだ。
――祝福?
聞き慣れない単語だ。フォスも、アネモスも、イスキオスも、「祝福」なんて言葉はひと言も口にしていなかった。
レネが祝福を受けている?
深く訊いてみたかった。すでに呪いはレネどころかモルテもカナール自身も蝕んでいる。リヴァーディア侵略で起きたこと、呪われた者の末路。呪いに関する情報は些細なことでも聞いておきたい。だが、今はそれどころではない。
魔物は、微笑みを崩さぬままレネの頬を撫でている。赤子をあやすような優しい仕草が、一層の嫌悪感をもたらした。臓物を彷彿とさせるような異形の空間で、魔物が獲物を優しく撫ぜている。空間も、言動も、表情も、何もかもが狂っていた。
治まらない吐き気を無理やり飲み込んで、カナールは頭上の魔物へ声を絞り出した。
「……だめ。レネも、レネも返して。レネはあなたの物なんかじゃない」
「リヴァーディアの血を引く者が、故郷へと還る。自然なことだ。彼は君とは違い、祝福も引き継いでいる。――生まれ変わるのだ、滅び行く定命の肉体を捨て、灰の中から永劫の命を得て、彼は復活する」
「させない、そんなこと」
かぶりを振って、震える声を張り上げた。魔物の言葉を否定する。
――復活? 呪いが体を蝕んで、黒い炎に焼き尽くされて魔物になることが、復活? そんなの違う。おかしい。
「この運命には抗えない。そんな力量など、君達には無いんだ。――意志を持つ魔導書と、その依り代よ」
「なんで、それを知って……」
「君が知ることでは、無い」
カナールの言葉を遮って、蚯蚓の魔物は冷ややかに言い放った。同時、巨大な何かに全身を殴られ、カナールの身体は跳躍した。
痛みを身体が認識した瞬間、壁にぶつかり背中に衝撃が走る。柔らかい蚯蚓の壁は衝撃を分散こそしたものの、それでも相当の激痛が全身を突き抜けた。
身を起こして目を開けると、先ほどよりも遠い位置に魔物とレネが見える。
ずる、という重い音と、湿った音がカナールの耳元で鳴った。腰と胸を蚯蚓に囲まれ、小さい身体は容易に持ち上がる。
「ここで殺されたい?」
する、と、太い蚯蚓がカナールの胸郭を締め付けた。肋骨が徐々に狭まり、肺が膨らまない。息を上手く吸えなくてカナールが喘ぐと、魔物は小さく嗤ってカナールを解放した。為す術も無く、床に落ちる。
「さて、魔導書に見初められし哀れな子供よ。呪いの焔が完全に君達の魂と身体を侵食する前に、この穢れた王国から離れたほうが良い。再び此処に足を踏み入れたのなら――このセリーニが、今度こそ君達の息の根を止める」
セリーニと名乗る魔物に、近づくことすらできない。あまりに悔しくて、カナールは赤い瞳で睨み上げた。セリーニは宙を漂い近づいて、細く長い指先をこちらに伸ばしてくる。下顎を持ち上げられ、魔物の微笑が眼前まで迫った。
――何も、できない。
ここで下手に抵抗しようものなら、自分もレネ同様に蚯蚓の海へと放り込まれる。そうなったら……もう、助けてくれる人は誰もいない。
――レネ、ごめん。今のぼくには……
無力感に、カナールは視線を伏せた。
3.
目を覚ますと、洞窟の外で地面に伏せていた。湿度を伴う冷たい夜風が、カナールの濡れた頬を冷やす。
静寂の中かすかに響く、木の葉のざわめき。周囲を見渡しながらゆっくりと起き上がり、洞窟の入り口を見つめる。あの蚯蚓はどこにもいない。完全にセリーニの住処から脱したようだ。否、〈追い出された〉の方が正しいだろうか。
セリーニは、本当に自分達に興味を持たなかったらしい。彼が言っていた通り、魔導書もきちんと返却されていた。自分も、魔導書も、彼の眼中に無かったのだ。レネをおびき寄せるための単なる道具にしか過ぎなかったのだろう。
本を手に取り、中をめくる。頁の破損は見当たらなかったが、もっと重大な異変が現れていた。
文章は歪み、字の体裁を奪われている。それは自分の胸に浮かぶ呪いの紋様と似た形へ変質していた。
こんなに、こんなにも。
モルテは呪いに冒されていたのか。自分も呪われていることに変わりは無いが、まだ行動に支障が出る程では無い。しかし、魔力そのもので構成されているモルテは、やはり重大な影響を受けているようだ。幼児が絵の具で乱暴に殴り書きしたような紙面が、それを物語っている。
――こんなの、見ていられない。
震える指先で魔導書を閉じる。と同時、心の中に声が響いた。
《まったく、失礼な奴》
自分と同じ声質。しかし、自分よりもずっと堂々としていて、凜と響く声。
ずっと聞きたかった声が、たしかに心の中で響いた。
思わず顔を上げて、心の中の「もう一人の自分」へ語りかける。
――モルテ……? 目が覚めたの?
《なんとかね。……あの気持ち悪い蚯蚓男、絶対に許さない》
モルテは怒気をはらんだ声で、ぐちぐちと恨み言を連ねている。倒れる前と変わらない調子に、カナールは心の底から安堵した。
――よかった。ねえモルテ、代わってよ。君ならレネを助けられるでしょ?
《そうしたいところだけど、生憎それどころじゃ無いんだよね》
――嘘、言わないでよ。
《嘘じゃないさ。僕の元に来てみればわかるよ》
――え……?
モルテの言葉を咀嚼できないまま、カナールは目を閉じた。モルテが同居するようになってから、瞼を閉じて意識を集中させると、意識の深いところでモルテの姿を視認できるようになっていた。モルテの姿といえど、外見は自分と同一だ。こうした緊急事態でもない限り、わざわざモルテを視認することは無い。
青よりも深く、藍よりも濃い、まるで深海のような空間。その中心に、モルテは立っていた。
白い素肌に、レネと同じ紋様がびっしりと刻まれている。自分は胸だけだが、モルテの紋様は明らかに範囲が広い。金色に輝いていた瞳すらも、深紅に染まっていた。
《今ならわかる。僕の中で、呪いの焔が燻っている。焔が僕たちの魂を歪めているんだ。……どうやら僕たち二人とも、すでに手遅れみたいだね》
カナールはかける言葉が見つからなかった。早い。あまりにも、進行が、早い。
――どうして、ぼくたちまで……
《今思うと、フォスを倒したあたりから何となく調子がおかしかった。思い返してみれば、僕達も魔物から出たものを知らず知らずのうちに取り込んでいたんだ》
ただの推論だけどさ、とモルテは前置きして、続ける。
《確かに、僕たちは魔物やレネの体液を浴びてない。けれど体液以外にも、あったでしょ? 魔物から出て、僕たちも吸っていたものが》
モルテにそう問われて、カナールは考えた。体液以外で、魔物から出たもの。吸い込むようなもの。
リヴァーディアに入ったときからの出来事をざっと脳内で反芻する。フォスがレネの弓矢で倒れた直後まで追想し、そして、気がついた。
――灰……? 皆、死んだら燃えて灰が出てた……
モルテは頷く。
《それくらいしか、思い当たる原因がないんだ。逆に、灰だったら空中を舞ってどこまでも飛んでいく。リヴァーディアの侵略当時にどうやって呪いが撒かれたのか知らないけど、もし灰を経由して、病気のように感染する呪いだとしたら?》
――みんな灰を吸ったんだ。そうして、ひとりのこらず魔物になった……

言葉の一つ一つが孕む恐怖と狂気に、カナールの背筋が凍る。侵略者に何の目的があったのかは分からないが、国ひとつを殲滅させるという強い殺意を感じる。
一人も残さない。誰一人として許さず、絶望に陥れる。そこに込められたのは、圧倒的な暴力と、邪悪な意志だ。
戦慄するカナールをよそに、モルテの表情は変わらなかった。もともとモルテは人間にあまり興味など無い。依り代を見つけ、自らの知識と魔力をより強固なものにする。それがモルテの目的なのだから、侵略者の目的など端からどうでもよいのだろう。
《というわけだから、僕はこうしてここから喋りかけるのが精いっぱいさ。そのうち、ここの住民みたいに魔物化するんだろうね》
――そんな……
考えるだけでも、恐怖で押しつぶされそうだ。モルテを喪えば、自分は本当に一人になってしまう。レネは捕まり、モルテは呪いで身動きがとれない。自分は、どうすればいいのだろう。
伏せた視線をモルテへ戻す。モルテは自分と揃いの赤い瞳で、鋭くこちらを見据えてきた。
《カナール。ひとつ聞かせて。……君は、生きたい?》
4.
まっすぐな、赤い瞳。同じ色の目が、同じ声が、こちらに問いかける。
「君は、生きたい?」と。
カナールは逡巡した。言葉が出ず、思案した。重い沈黙が流れても、それでも答えが見つからない。
――分からない。ぼくは……生きたいのか、分からないよ。モルテ。
数年前のあの日、モルテと出会った日に同じことを聞かれたのなら「死にたい」と即答できただろう。しかし今は、分からない。
もともと消えて無くなるために、モルテを受け入れた。死ぬために、モルテの旅についてきた。そのはずなのに、今は「死にたい」とは思えなかった。しかし、「生きたい」とも言うことも出来ない。
呪いを受け、何もしなければ人としての生命を幾ばくも無く終えるはずなのに。生にも死にもどちらにも振り切れなくて、何も答えを出せなかった。
嗤われる。相変わらず君は情けない、と詰られると思った。しかしモルテは何も言わず、真剣な面持ちでゆっくりと頷いた。
《じゃあカナール、質問を変えるよ。君は……レネを助けたい?》
――そんなの、当たり前だよ。助けるためにぼくはここまで来たんだ!
即答だった。見捨てるなんて選択肢は、カナールの中に最初から無い。レネを助けたくてこの洞窟まで来たのだ、何を今更迷うことがあるだろうか。
思わず声を張り上げてしまったことに気づき、羞恥心に駆られた。視線を逸らすカナールを、モルテは苦笑しながら見つめている。
《よかった》
――よかった? どういう……
《カナール。一度しか言わないからよく聞いて。騎士はまだ残ってる。協力してくれるか分からないけど、フォスが言ってた『フォティア』という人を探してみて。あの蚯蚓男から、絶対にレネを取り返そう》
モルテの赤い瞳が、こちらを見据えてくる。魔法以外に興味を示さないモルテが、ここまで真剣な眼差しをするのを、カナールは初めて見た。
《僕はしばらく眠ることにするよ。黒い厄災の魔力がこの呪いの元なら、魔力の塊である僕は眠っていた方が進行も遅くなるだろう。だけど、いずれは呪いが僕を蝕んで……僕は僕じゃいられなくなる。あまり時間は残されてない。急いで、カナール》
――わかった。ぼくもモルテとレネを助けたい。必ずフォティアを見つけるよ。
《君は頼りないけど、今は君しか動ける人間がいないんだ。頼んだよ》
カナールは深く頷いた。
レネを助ける。自分たちを守って、助けてくれた相棒を、今度は自分が助ける番だ。そのためにこの身体を動かすのなら、最早そこに、躊躇いなど無い。
モルテは優しく微笑み、瞼を閉じた。
《……また、三人で会おう》
***
カナールが、モルテの眼前から姿を消した。この空間から抜け出して、自らの足を動かしていることだろう。
モルテは徐に座り、膝を抱える。かつてのカナールがそうしていたように、この蒼く深い空間の底で、じっと時が満ちるのを待つほかない。
「……『ぼくもモルテとレネを助けたい』……か」
誰も聞いていないのに、モルテはぼそりと呟いた。そして、思わず苦笑する。
「生意気なんだよ……人間のくせに」
人間に救われるなんて。
人間に助けを乞うなんて。
偉大なる魔導書、失格だ。
レネと出会う前の自分なら、こんな姿は許せなかっただろう。何処の誰とも分からない奴の呪いを受けて、存亡の機に立たされているだなんて。当初の予定ではとっくに消し去っているはずだった人間の魂に助けを求めているなど、情けないにもほどがある。
それなのに、不思議だ。どうしてこんなにも温かく、穏やかな気持ちでいられるのだろう。
分かっている。自覚している。心の底から、またレネに会いたいと思っている自分がいる。レネと、カナールと、自分と――二人と一冊で賑やかな旅路を歩めたら、どんなに素敵なのだろう。
カナールに問うて分かった。自分も、カナールも、すっかり変化してしまったことに。レネとの出会いが、レネとの旅路が、自分たちの心の在りようを変化させてしまったことに。
もう、希少鉱石などどうでもいい。オウルムなど、魔法など、どうでもいい。
――願うのは、ただひとつ。
5.
一筋の細い三日月が、リヴァーディアの森を見下ろしている。光源とするにはあまりにも頼りない、今にも消え入りそうな光だった。肌寒い風が木々の葉を揺らす。騒めきの中で確かに叫ぶように、金属音が森へ響き渡っていた。
カナールは両手に石を持ち、頭上へ高々と振り上げる。地面に置いた鏃めがけて、何度も何度も叩きつけていた。
鏃には、手持ちの縄を解した糸が括り付けられている。それは火口――火花を受け取り火種の先駆けになるものとして、利用するためだった。
もう、どれほどの時間、これを繰り返していたのだろう。
魔法も専用の道具もない火おこしなど、無謀なことだ。最初から分かっている。しかし火がなければ、殆ど新月の森を歩くことすらままならない。十分な視界が確保できないまま崖を踏み外しでもしたら、そこで終わりだ。
そして何よりも、星明りすら届かない梢の下で一晩を過ごせるほど頑強な精神を、カナールは持ち合わせていなかった。闇は恐怖だ。まして、魔物と野生動物が跋扈しているこの呪われた王国では、いつどこから寝首を掻かれても不思議ではない。
全力で叩きつけた反動で、石が両手から滑り落ちた。無残にも草の上を転がっていく。上がってしまった息を数回の深呼吸で整え、カナールは再び石を拾い上げた。
「もう、一回……!」
衝撃音が鼓膜に響いた瞬間、きらりとひらめいた火花が鏃の糸へと舞い飛んだ。
「あっ!」
そこからは早かった。毛羽だった繊維は瞬く間に燃え、小さい火を掲げる。そこへ手早く、しかし慎重に乾いた草葉を添えると、か細い光の筋がふいに花開いた。
火を見守る。燃焼の度合いに応じて、葉、小枝、太い枝へと徐々に移していく。やがて火が「炎」と形容できるまで育ったことを確認し、カナールは安堵の息をついた。
白い煙が立ち昇っていく。梢を通過し、星空へと手を伸ばす。泣きそうなほどの闇に囲まれていた光景に、確かな赤い光が灯った。
「よかった」
モルテのように魔法が使えたら、この火起こしも一瞬で済んだだろう。己の魔力に誇りをもち、日常の不便をすべて自らの魔法で切り開いてきたモルテに、道具を頼るという選択肢は端から無かった。旅人とは思えないほど乏しい手持ちの道具に、これほど悩まされるとは思わなかった。
腰を下ろし、ぼんやりと炎を眺める。と、じわじわと両の掌に鈍痛を覚えた。
手袋が擦り切れている。あまりに何度も石を打ち付けていたから、摩耗してしまったのだろう。
黒い手袋。レネが、同行者である自分たちに与えた物。不意にレネの体液に触ることが無いようにと、常時つけていてほしいと頼まれていた。
「……レネ。もう、いいよね」
呪いに汚染された体液は、触れた者の命を奪う。しかし、それは触れた者が呪いに侵されていないことが前提だ。仮にこの条件がないならば、リヴァーディアの魔物たちは接敵の段階でレネの血によって絶命していたはずなのだから。
――もう、守られなくても大丈夫。
呪いに侵されている。それはレネも、モルテも、カナールも一緒だ。レネと自分たちを隔てるものは、もう何もない。接触を避けなくても、もう良いのだ。
手袋を外し、炎の中にそっと放り入れた。黒い繊維が焔の中に包まれるのを見届けて、カナールは考えた。
もう少し休んだら、焚き木の中からなるべく太いものを選ぼう。それを松明にして、北を――王城を目指して、歩き出すんだ。
6.
重い地響きで目が覚めた。
すぐさま、自分が眠ってしまったことを認識し、反射的に身を起こす。
明るい。朝日が周りを照らしている。木を多めに入れておいたおかげで、焚火はまだ小さく燻っていた。
――眠るつもりじゃなかったのに。
カナールは自分を恥じた。こうしている間にも、モルテは、レネは。
自責の思考をかき消すように、二発目の地響きが鳴り渡る。短いが、微睡みの中で聞いた一発目よりも明らかに大きく、重い。
「どこ……!?」
僅かに地面の揺れも感じたが、明らかに地震ではない。この音と揺れ方に、カナールは覚えがあった。
似ている。リヴァーディアで最初に遭遇した、巨大な鬣の魔物の足音に。
一歩、また一歩。地響きが近づくにつれ、木がメキメキと折れる音も鮮明に聞こえてきた。
何かが、近づいている。木をなぎ倒すような、巨大な何かが、こちらへ来る。
矢はまだ残っている。カナールは軽く弓に当てがって、周囲を見渡し警戒した。それから間もなく、見通しの悪かった森の一部をなぎ倒すようにして、その魔物は姿を現した。
モルテの魔導書に、記述があったはずだ。
魔法で組まれ、魔法で律し、主の命に忠実に動く石の僕。〈ゴーレム〉と呼ばれるそれに、眼前の魔物は酷似していた。鬣の魔物とどちらが大きいだろうか。動きは石像の方が愚鈍だが、鬣よりも大きく無骨な腕が易々と幹をなぎ倒す。灰色の巨石が、触れた物を即座に圧し折り、破壊していく。

――適わない。
第六感が、理性が、戦慄いた。こんな細い矢では、傷一つつけられない。
しかし、カナールは逃走しなかった。頭部と思しきパーツの隙間から覗く、緑に輝く二つの宝石をじっと見つめる。少しでも相手の警戒を解くために、視線は石像を捉えたままで、後ろ手に弓矢を仕舞った。
「話を、聞いてほしいんだ」
目の前の敵は獣ではない。魔物だ。より正確にいうならば、魔物の姿をした、元住民だ。今までの魔物だって、レネ達と話をすることは可能だった。ならば、闇雲に戦闘や逃走をするのではなく、ここで対話するのが最適解なのだろう。
「怖がらせちゃって、ごめんなさい。傷つけるつもりは、無いんだ」
石像の魔物が、ぴたりと動きを止める。緑色の宝石が、朝日に反射しきらりと光った。
「助けて、ほしい。ここからすぐの洞窟に、ぼくの仲間が捕まって……。君たちには仲間が、家族が、いるの?」
石像の視線の意図は、読み取れなかった。疑問なのか、敵視なのか、はたまた軽蔑なのか。宝石の下には、横一文字に引かれた亀裂がある。口があるとすれば、きっとここだ。その亀裂が開くのを、そして好意的な言葉を投げかけてくれるのを期待して、カナールは沈黙に耐えて、待った。
無機質な緑の視線が、ふと、カナールの瞳から外れたと思った、
次の瞬間だった。
石像の右腕が、頭上へと振り上がる。愚鈍とは程遠い、矢よりも早い速度だった。
質量を伴った凶器が、カナールめがけて落下する。
「!」
咄嗟に一歩引いた。カナールの顔面すれすれを通過し、右腕がすぐ前の地面を砕く。風圧と衝撃音で後ろに倒れた身体をすぐさま起こし、カナールは必死に背を向け走り出した。
――どうして、どうして!
会話もできなかった。こちらの言葉に、聞く耳すら持ってくれなかった。
――敵意は無いのに。傷つけるつもりで、ここに来たんじゃないのに!
初めからそうだ。鬣の魔物だって、まるで獣のようにいたずらに鹿を殺めて――
「あれ……?」
鬣と石像は。この二体の魔物は、行動が他の魔物と違う。
まず、会話がない。二体が言葉を発したのを、聞いたことがなかった。そして、暴力的に他の命を潰す行動に、理性を感じなかった。
リヴァーディアの騎士だったあの四人は、少なくとも会話ができた。行動も、理性的とは言わないにしろ筋は通っていた。しかし鬣と石像は、その様子がない。
「喋れる魔物と、喋れない魔物がいる……?」
声に出したと同時、後ろから断続的な地鳴りが聞こえた。石像がこちらを追いかけ始めたのだ。巨大な一歩は、たとえ愚鈍でもこちらの全速力を容易に上回る。それは鬣で経験済みだ。
「お願い、やめて! ぼくは本当に君を傷つけるつもりは――
振り返って叫んだ瞬間、石像が投げた巨木がカナールの横を通過していった。
こちらからは大きく外れていたが、巨木は他の幹にぶつかりメキメキと音を立てて地に落ちる。
背筋が凍る思いをして、再び前に視線を戻した。相変わらず、聞く耳は持っていない。踏みつぶされた木々の断末魔と、断続的な地鳴りは止まなかった。数十秒の逃走中、その音は一定の感覚でカナールを追い詰める。
突然森林の光景に終わりが見え、カナールは息をのんで立ち止まった。
「……!」
崖だった。
森と地面はカナールの眼前で終わっており、その下は深い深い絶壁だった。下には河が走り、両脇に白亜の街と城が見える。しかしそこへ到達するためには、何十メートルもあろう崖を真っ逆さまに転落するしかない。
「う、そ……」
足がすくんだ。石像の足音は、すぐそこまで来ている。
――終わりだ。
自分に残された選択肢は、二つ。
石像による圧死か、崖からの転落死か。
7.
森を二つに割って、合間から石像が顔をのぞかせた。怯えるカナールを見下ろし、無機質な双眸をこちらに向けている。
膝が笑い、呼吸が乱れる。今にもすくんで折れてしまいそうな脚に懸命に力を込め、カナールは石像の瞳を睨んだ。
「お願い……話を聞いて」
――こんなところで。
――こんなところで、終わりたくない。
――ここで死んだら、モルテも、レネも、助からない。死ぬわけには行かない。
「……ぼくは、仲間を助けたいだけなんだ」
石像の右腕が、振り上げられる。
巨石が朝の陽光を遮り、カナールの前に影を作る。カナールは、それでも視線を外さなかった。涙でにじむ視界の中央にゴーレムを捉え、離さなかった。
「諦めたくないんだ!!」
石像へ向かって叫んだ。瞬間、巨石の右手がこちらに振り下ろされる。石の塊が視界を塞いだ瞬間に思わず目を瞑り、カナールはいよいよ死を覚悟した。
だが、激痛は感じなかった。
ふわりと身体が浮く感覚。そして、何者かに抱きしめられている不思議な感覚を覚え、カナールは思わず、目を開けた。
「レネ……?」

宙を舞っていた。
何者かに身体を抱きかかえられ、崖の上空を滑空している。石像は遥か眼下に遠ざかり、呆然とこちらを見上げていた。朝の空気に前髪をくすぐられる、心地いい風を感じた。
自分を支えているのは、骸骨のような魔物だった。頭部に長い角を持ち、肉食獣のような頭蓋骨が視界に入る。鹿、牛――いや、竜の方が印象は近い。
「掴まっていろ。このまま落ちるぞ」
精悍な少年の声が、事態を咀嚼できていないカナールを牽制する。竜骨の魔物のいう通り、滑空していた身体はそのまま緩やかに下降を始めた。
内臓が浮き上がる感覚に不安を覚え、カナールは空いていた両手で魔物の肋骨を掴んだ。
重力に任せるまま下降した竜骨の魔物は、崖の斜面へと両足を伸ばす。
幾ばくもなく足底が斜面に接地し、踵骨から滑り降りるようにして、魔物の身体がカナールを乗せて下りて行った。

