永劫のアナスタシス(R18版) 第六章 Ⅰ

1.

「フォティア、大丈夫?」

カナールの問いかけに、竜骨の魔物はかぶりを振った。彼はゆっくりと左右を見渡し、己の右手をしげしげと眺めている。
「駄目だな。右だけ影が落ちているみたいだ」
セリーニとの戦いで頭部の右半分を失った彼は、視界も同様に右半分を失ってしまったようだ。今の彼には、左側しか見えていない。もっとも、眼球の無い骨の魔物が、どうやって視界を得ているのか――それを尋ねるのは、あまりにも愚問だろう。

フォティアとセリーニは激闘を繰り広げたと聞く。おそらく頭部以外にも幾ばくかの骨を砕かれているだろうが、レネはそこまでの詳細な知識を持ち合わせていなかった。
「歩けるのか」
「それは問題ない。変わったのは見え方だけだな」
おもむろに立ち上がるフォティアを見上げ、レネも腰を上げる。
ゆうに二メートルを超えるであろう巨躯と、頭部から突き出た角。仰々しい見た目から紡がれるのは、年端もいかない少年の声だ。何か質問すると頭上から柔らかい声が降ってくることに、レネはまだ慣れずにいた。

セリーニとの戦闘で意識を失っていたフォティアが目を醒ますまでの間、カナールからこれまでのことを一通り聞いた。
イスキオス・アネモスを倒した後、呪いが浸透してモルテが意識を保てなくなったこと。もともとの魂であるカナールが表にでてきたこと。魔導書とレネを取り返すために、フォティアを探してこうしてセリーニの住処まで来たこと。
そして、王城にはフォティアの能力で保護されている少女「アルカ」が待っていること。

自分が囚われていた二晩の間に、カナールは知恵と勇気を振り絞ってくれた。
もちろん、それはモルテも、フォティアも同じだ。

「……フォティア。礼を言う。カナールをここまで導いてくれて、助力してくれてありがとう」
「礼は要らない。セリーニを殺すという利害が一致しただけだ」
フォティアはそう言うと、顔を横にそらす。視線こそ分からないが、そっぽを向いているのだろう。その様子に、カナールが小首をかしげた。
「もしかして、照れてるの?」
ぼくと話してたときは、あんなにぼくのこと思いやってくれたのに、と付け加えて。フォティアは慌ててカナールの方に振り向いた。
「な、ばっ、違う! あれは……」

動揺の声色。素直ではない奴だが、考えていることはわかりやすい。レネは破顔し、一言だけ声をかける。
「顔が赤いぞ、フォティア」
「え!?」
「冗談だ。骨なのに顔色なんて分かるか」
「……!!」

口をぱくぱくさせている。元の少年の顔を、心から見てみたい。きっと耳まで赤いのだろう。
「……っそういうところ、ほんと隊長と副隊長にそっくりだな!」
「そうだろうな。父さんと母さんなら、お前みたいな奴は全力でからかうだろうさ」
そう言ってみると、少年騎士は両手で頭を抱えて閉口した。ぐうの音もでないらしい。

再びゆるゆるとかぶりを振って、フォティアはレネへ向き直った。
「……思い出話をしたいところだが……おれはそろそろ王城へ戻る。アルカを待たせてるからな」
「うん。ぼくたちも後から向かうよ」
「まずは体調を整えてからにしろ。おれもそうだが、二人とも消耗している。カナール、王城までの道は分かるか?」
「うん、大丈夫」
「昔、フォスと国中の文献を王城へ集めたんだ。一度おれたち騎士で査読はしているが、少しでも関連がありそうな文献をもう一度選び直しておく。王城に来たら、お前達二人にはそれを読んでいってほしい」
カナールは深く頷いた。

「一度覚えたことを忘れないモルテなら。それに、呪いについてずっと旅してきたレネなら……今まで見えなかったことも、見えてくるかもしれない。そうだよね」

カナールの赤い瞳が、しっかりとレネとフォティアを見つめた。レネも頷き、カナールの瞳を見つめ返す。
「レネ、カナール。明日でも明後日でもかまわない。体調を整えて、城の南門で落ち合おう」
「分かった」
レネの返答を聞くと、フォティアは地面を蹴り森の中へと身を消した。白い体躯は瞬く間に森林の影に隠れ、見えなくなった。

「面白い奴だったな、フォティア」
「でも、頼もしい人でもあるよ?」
「……そうだな」

リヴァーディアの騎士。魔物と化したフォスが茫洋と呟いていた人名のうち、最後の一人。フォスも、イスキオスも、アネモスも、セリーニも、最終的にはレネ達に敵意を向けてきたが、フォティアだけは敵意を感じられなかった。
フォスやセリーニのように何かの意図があって敵意を隠しているのだとしても、ここまで身を挺してカナールを守る意味はない。
今度こそ、彼の言葉や行動は信じてもよさそうだ。

「カナール。周辺の地理ならお前の方が詳しいだろう。近くに休めそうな場所はあるか?」
「それなら、崖を降りよう。城下町があるから、使えそうな家ならすぐに見つかると思うよ」


***


カナールにとっては、来た道を引き返すことになる。
今朝、単独でセリーニの住処に向かってしまったフォティアを必死に追いかけた道だ。今度はゆっくりと、レネと共に歩き出す。

彼の前を歩きながら、カナールは沈黙した。
記憶の中では、レネの左目は青緑だったはずだ。それに、呪いの紋様もかろうじて右半身にとどまっていたはず。

――レネの両目は、すでに赤い・・・・・・・・・・・・

白目の部分が黒変するのも、時間の問題だろう。呪いの紋様は顔の右半分を超え、左側に侵食している。彼自身もすぐに――もしかしたら己の魔力を視てすでに気付いているのかもしれないが――知ることになる。

残された時間は、少ない。
カナールは己の胸に手を当て、視線を伏せて歩き続けた。

2.

橙色のほのかな熱が、室内で揺らめいている。暖炉の炎が、冷え冷えとする夜の空気をそっと温めていた。
暖炉の前に干していた衣服を触り、乾いているかどうか確かめる。おおかた乾いていそうだ。もう着用しても問題ないだろう。
レネは、いつもより入念に洗濯した服に袖を通した。ほんのりとした熱が体幹を包んで温める。ちらりと横をみると、すでに相棒はベッドの上で横になっていた。

セリーニと戦闘したのは明け方の出来事だ。しかし、レネ達が城下町の中で比較的使用できそうな民家を発見する頃には、日が傾いてしまっていた。
室内をあらかた片付け、食事を摂り、お互いの入浴と洗濯を済ませ――気がつけば夜の帳がすっかり下りていた。

炎に包まれる薪が、時折、ぱちぱちと乾いた音を立てる。それ以外は何の音もない、静寂な夜だ。
相棒の体力も限界だったのだろう。壁を向いて横になっているので寝顔は見えないが、今夜くらいはゆっくりと夢の世界を旅してほしいものだ。

まなざしを穏やかに細め、レネは相棒の後ろ姿を見つめる。入浴の時に気が付いたが、すでに自身の双眸は真紅に染まっていた。白目の部分はまだ黒変を免れているが、いずれ左目も右目と同じになるのだろう。
セリーニとの問答で〈もう眼帯はつけない〉と決心した。しかし右目どころか左目まで赤くなってしまったので、どちらにせよ眼帯はもう使えない。
魔力を映す両目は、リヴァーディアの黒いもやのような魔力の中で、相棒と魔導書をとらえる。カナールが纏う赤色の魔力と、魔導書モルテが放つ暗い金色の魔力。二色が綺麗に分かれており、見れば見るほど不思議に思う。

その波動の色合いが――ふと、変化した。
切り替わった、という表現が正しいだろうか。カナールが――相棒の身体から視えている魔力が、魔導書モルテと揃いの色合いになったのだ。

「……モルテ、起きてるのか?」
――カナールから、モルテに切り替わった。
カナールがそのまま眠ったのなら、こんな変化はあり得ない。カナールだけが眠り、残されたモルテのほうが表層に現れた。そうであれば、この切り替えにも説明がつく。

レネの問いかけに、相棒は寝たままの姿勢で・・・・・・・・返答した。
「……まいったな。やっぱり視えちゃうか」
顔は壁を向いたままだ。表情も瞳も見えないが、声でわかる。今の相棒はカナールではなく、モルテだ。
「肉体はひとつでも、別々に眠るんだな」
「こんなことってあんまり起きないんだけどね。大体は同時に眠るんだけどな」
モルテは掛け布を顔まで手繰り寄せた。相変わらず視線をこちらに向けず、壁と睨み合ったままだ。

「……僕たちのこと、怒ってないの?」
「俺に正体を話さなかったことか?」
「騙していたようなものなのに」
「仮に俺がお前の立場でも、同じようにしただろうさ」
だからあまり気に病むな、と付け足す。
言葉通り、その件はあまり憤りを感じていなかった。それよりも、眼帯を外して相棒をしっかり視ていればもっと早く気づけただろうという自責の念の方が強い。
カナールのことも言い出せず、呪いに罹ったことも話せずに、無理をさせてしまった。レネはそのことを相棒として恥じているし、憤りすらおぼえている。

返答しながら、レネはモルテの様子を訝しく思っていた。
壁ばかり向いて、こちらの方を見ようともしない。少しはこちらに顔を向けてもいいものを――視線を相棒の後頭部に送ったと同時に、レネは気が付いた。

――モルテは、こちらを向かないんじゃない。向けない・・・・んだ。

レネは傍らにあった椅子へゆっくりと腰掛けた。古い木材が、小さく軋んだ音を立てる。何と声をかけるべきか一瞬迷ったが、重々しく口を開いた。

「モルテ、聞いてくれ」
正直に。自分の気持ちを、相棒へ投げかける。
「お前がその顔を見せたくないのなら、それで構わない。だが……少なくとも俺は、今のお前を受け止めるだけの覚悟はできているつもりだ。だから、よかったら……顔を見せてくれないか」

長い沈黙が訪れた。モルテの返答はなく、しばらくそのままの体勢でいた。しかし、やがて横になっていた小さい体がゆっくりと起き上がる。二、三度擦った目蓋はおもむろに持ち上がり、まつげに覆われた瞳が露になった。


赤い瞳。そして――黒変した白目。
黒地に赤の鮮烈な二色が、レネの視線とぶつかり合う。その色彩は、モルテへの呪いが最奥へ到達していることを意味していた。
呪いの侵食は、瞳だけではない。紫の紋様は胸から首を経由し、顔の全てを覆っている。いつの間にか素手になっている小さい両手も、例外なく紋様で埋め尽くされていた。

レネが最後にモルテと会話したのは、イスキオス・アネモスを討った直後だ。そこで目撃した相棒の紋様は、胸元だけだった。カナールが肉体の主導権を握っていた今日の昼間でも、紋様は鎖骨のすぐ上にとどまっていたと記憶している。
だが、主導権がモルテに切り替わった途端、紋様が顔まで手を伸ばした。つい数日前まで何のかわりもなく王国を歩いていた小さい相棒。その身体は、瞬く間に蝕まれてしまったのだ。

レネは口を引き結んで、モルテの双眸と対峙する。固く組まれた両手を、深く腰掛けた太腿の上に乗せて。紫と黒で塗りつぶされた相棒の顔を、視界に焼き付ける。

予想はできていた。セリーニに促されて魔導書モルテの中身を垣間見たときから、遅かれ早かれこうなるだろうと思っていた。
今考えれば、フォスを倒した後から始まった咳も、呪いが浸潤することによる影響だったのだろう。呪いという毒は、小さい身体を瞬く間に駆け巡り、冒していく。自分よりもずっと重く、ずっと急速に、呪いはモルテたちをいざなった。

その終着点は、異質で異形な、醜い魔物だ。

3.

「……モルテ」
「謝ったって無駄だからね。そういうのを聞くために喋ってるわけじゃない」
相棒の眼差しは、したたかで真っ直ぐだ。恐怖も焦燥も感じられない、強い意志を秘めている。
「僕がこの国に来た理由、忘れたわけじゃないでしょ? レネの呪いを一緒に解くためじゃない。僕はもともと、希少鉱石オウルムを求めてここへ来たんだ。だから、これは僕の過失だ。レネのせいじゃないよ」

その言葉に、レネは少しだけ気圧けおされた。てっきりなじられでもするかと思っていたのに、予想外の優しさに返す言葉を見失う。
「なんだ、お前らしくないな。この数日でずいぶん丸くなったんじゃないのか」
「はあ? 僕はもともと優しいですけど? 熊に襲われて相棒を放り投げたどっかの誰かさんとは違って!」
「おい、根に持ちすぎだろう……! どれだけ擦るつもりだ!」
「こうなったら一生擦ってやりますよーだ」
目を閉じ、舌を突き出す。今にも「べーっ!」という擬態語が聞こえてきそうな、完璧な仕草。生意気な悪ガキに、レネは思わず噴き出した。
「おい、お前本当に魔導書なのか? カナールのほうがよほど大人だぞ」
「あーっ! また子供扱いした! 前にも言ったけど、僕は実年齢三ケタで、レネよりもずーっと大人なんですー!」
「嘘つけ!」

腹を抱えて、レネは大笑いした。モルテとの舌戦が可笑しくて、どこか懐かしくてたまらない。そうだ。リヴァーディアに入る前は、俺たちはずっとこんな調子だった。くだらないことで言い合いになって、口喧嘩をして、なのに三十分後にはなぜか仲直りしていて。
ずっと、こうしていたい。こうなっていてほしい。モルテと、カナールと、三人で。これからも、この先の旅路だって――
顔をあげ、ほころんだ表情で、ふとモルテを見る。その表情を見て、レネは現実へと引き戻された。

「……よかった。レネはやっぱり、こうでなくちゃ」
安堵して、慈愛に満ちた微笑みがそこにはあった。カナールが浮かべていた優しい表情と通ずる、柔和で温かい眼差しが、こちらを見守っている。

ああ、目の前で座っているのは、確かに〈相棒〉なのだ。レネは実感した。
時に隣に立って支えてくれて、時に前を歩いて導いてくれて、時に後ろから背中を押してくれるような、そんな存在。モルテは確かに、自分の相棒なのだ。
何が子供か。モルテは、この魔導書は、確かに自分よりずっと大人じゃないか。

不意に目頭が熱くなって、咄嗟にレネは顔を伏せた。こんな顔、さすがに見られたくない。今はモルテが望む、平時の冷静な自分でいたい。
ひと呼吸だけ間をあける。息を吸うとともに顔をあげて、普段通りの顔でモルテに応答する。
「――お子様は早く寝ろ。明日には王城に行くぞ」
「だから、子供扱いしないでってば」
頬を膨らませ、むくれている。何度かこの面を見たことはあるが、見るたびに焼き立てのパンのようだと、レネは思う。

「あまり口ごたえすると、今度は絵本扱いするぞ」
「そんなに調子に乗ってると、今度は攻撃魔法あててやるから」
相棒はふっと微笑んで、再びベッドに身体を横たえた。掛け布を口元まで引き寄せて、大きな瞳でこちらを見る。
「……レネ。お休み」
「お休み。また明日」


挨拶をかわし、数分。
再び壁の方を向いて横になったモルテの後ろ姿を、レネは見守った。薪の音にそっとモルテの寝息が加わったのを聞き届け、なるべく音を立てないようにゆっくりと立ち上がる。

たしか隣室に揺り椅子があったはずだ。この簡素な椅子よりも、いくばくかは寝心地がいいだろう。
ドアに手をかけ、肩越しに相棒の顔を振り返る。まだモルテのままなのか、纏う魔力も顔の紋様も先ほどの光景と変わりない。ただ、やわらかく閉じられた瞼と薔薇色の頬が、心地よい夢の中にいることを示唆していた。

明日はどちらの相棒が先に挨拶するだろう。できるのならば、カナールとモルテの会話も聞いてみたいものだ。
まだ明けぬ明日のことを想像しながら、レネはモルテの前髪を軽く撫ぜた。

***

皿が割れる音で、目が覚めた。
けたたましい、叩きつけられるような音だ。レネは反射的に揺り椅子から立ち上がり、立てかけてあった長剣を利き手に掴む。

あれから数時間は眠っていたらしい。墨を流したような帳は深い青へと色彩を変え、室内にわずかながらの光をもたらしていた。夜明けが近いのだろう。
だが、窓辺の様子を気にする暇はない。音は隣の居間、モルテが眠る部屋からしたのだから。
「どうした!」
左手でドアを開け放つ。居間の暖炉はまだ炎を抱えていて、室内をありありと照らしていた。その中央に、相棒が立ちすくんでいる。

「や……やめ……て……」
カナールだ。モルテではない。顔の紋様は引いており、纏う魔力も赤色になっている。通常の白目に大きな赤い瞳は、カナールのすぐ手前を凝視していた。呼吸は荒く、歯はかみ合わずにガタガタと震えている。
カナールの視線の先は、カナール自身の手だった。小さい両手が握りしめているそれが、暖炉に宿る炎を反射しきらりと輝く。


抜き身の短剣だ・・・・・・・
切っ先はカナール自身を向き、今にも自刃しようと首筋を狙っている。両手だけがカナールの意志に反して凶器を握り、主を殺害せんと刃を向けている。そうとしか思えない光景だった。

手がいうことを聞かない恐怖に、カナールは喘いでいる。しかし、荒い呼吸から懸命に吐き出したその一言で、レネは事態の全容を理解した。

「レネ! モルテを止めて!!」

4.

抜刀している暇は無い。
レネは握った長剣を鞘ごと振りかざし、カナールが持つ短剣めがけて振り払った。切っ先の部分が短剣の刃へ当たる――はずだった。
カナールは身をひらりとかわし、レネから間合いをとるように後ろへ飛び退いた。あまりの俊敏さに、目を疑う。消極的で内気なカナールの所作とは思えなかった。
予想に反して空を切った長剣を正眼へ戻し、レネは相棒の顔を見る。

それは、すでにカナールでは無かった。

数秒前まで何事も無かった顔の皮膚には、紫の紋様が走る。大きな瞳は白目の部分が瞬く間に黒変し、黒地に赤の色彩へと変貌する。
纏う魔力も色が変わる。それは紛れもない、モルテが放つ波動だ。

「……どういうつもりだ、モルテ」
モルテとカナール、どちらが意識の表層に出るか。そのせめぎ合いに、どうやらカナールは敗北したらしい。
モルテはカナールを押しのけて、小さい身体を支配した。両手にレネの短剣を握り、カナールを自刃させようと、渾身の力を込めて。

それにしても、相棒の様子がおかしい。
その眼差しは本来の理知的で力のこもった目線では無く、うつろで精彩を欠いている。こちらを睨み付けるような、それとも茫洋と眺めているだけのような、妙な表情を浮かべていた。

おかしい。明らかに、普通では無い。
「モルテ、答えろ! どうしてこんなことをした!」

レネの問いかけに、モルテは応えない。剣を握ったまま、無言で立っている。
空虚な視線が僅かに揺れた、と思った、その瞬間だった。
小さい足が、居間の床を蹴る。小さく跳躍した身体はこちらへ迫り、モルテは短剣を振りかざしてレネへと斬りかかった。

「……!」
間一髪。後ろへと上体を反らしたので、短剣の切っ先は何もとらえずに弧を描く。
「モルテ! やめろ!!」
それでもモルテは踏み込み、レネの間合いへ食らいつく。空振りの切っ先を戻し、レネの肉を切り裂こうと何度も刃を振り下ろす。
鞘で受け止めて、時には身を翻し、レネはモルテの攻撃を防いだ。一歩、また一歩と後退し、やがて背が壁についたと同時、それは起こった。

「……あああああああ!!」
聞いたことの無い雄叫びだった。
モルテは腹の底から憤怒の声を上げ、高々とレネへ剣を振りかざした。
かわす余裕は無い。鞘を横一文字に構え、渾身の一撃を受け止めた。轟くような金属音が、狭い居間にこだまする。

相手は退かなかった。鞘を折らんばかりの力を込め、ギリギリと体重をかけている。
数秒の力勝負。そのさなか、レネは相対するモルテの目を見た。


――殺意。
怒りに満ちた、獣性。論理をすべて取り払い、欲のままに食らいつく。その目はまさに、獣。

――まさか。呪いが、こんなにも早く?
背筋に嫌な汗が流れるのを、レネは感じた。頭から血の気が引く感覚をおぼえる。
このモルテは、モルテでは無い。おそらく呪いに魂を蝕まれ、正気を失っている。

どうする――
逡巡した。単純な力なら、レネの方が上だ。理性を失った人間はたがが外れて全力を出すというが、相手は子供だ。おそらく自分なら、力づくで拘束することも出来るだろう。
だが、その後はどうする? モルテに内包されている、カナールの身は?

――それよりも、まずは、この鍔迫り合いを。

レネは足を一歩踏みしめ、力でモルテの刃を押し返した。そのままの勢いで鞘を振り上げ、モルテを後ろのめりに転倒させる。
尻餅をついた相手から短剣を奪い取ろうと、手を伸ばす。
しかし、それよりもモルテの行動の方が早かった。すばやく上体を起こしたモルテは、右手の短剣を己の首筋に構えた。

鋭利な刃が、白い皮膚へぎりぎり触れる。その下に走るのは、頸動脈。

一連の行動に、一切のためらいが無かった。あまりにも計算され、動作に淀みが無い。躊躇や恐怖を微塵も感じない「無」の表情。眉も、目も、口元も、何もかもの色が消え、ただ機械的に己の命を奪おうとしている。

レネは、そこで伸ばした腕を止めた。そのままお互いの時が止まったかのように、しんと室内に沈黙が流れた。

暖炉の炎がささやかに燃える音だけが、レネの鼓膜へと届く。モルテの刃に炎のきらめきが反射した。
「……頼む」
レネは、震える声で、沈黙を破る。
「目を醒ましてくれ」

このまま動いたら、モルテはきっと頸動脈を切り裂くだろう。それは、肉体の持ち主であるカナールの死を意味する。
モルテ自身は依り代を失い、魔導書に戻るのかもしれないが、呪いに冒されているという点は対処のしようがない。レネが魔導書を拾った瞬間、レネの精神がモルテに塗りつぶされ――それで終わりだ。

魔導書が――

――魔導書?

5.

体勢はそのままで、視線だけ横を見る。
ちょうどレネの左側。ベッドのそばに置いてあるサイドテーブルの上に、魔導書はそのままの状態で置かれていた。
近い。手を伸ばせば、すぐに掴める。

嫌な考えが浮かび、レネは心の中でかぶりを振った。
――そんなことを考えるな。三人で旅をすると決めたばかりなんだ。ありえない。それは、絶対に駄目だ……!

だが、眼前のモルテは表情を崩さない。己の首に刃をあてがったまま、微塵も動かずに静止している。
完全なる膠着状態。このままでは、カナールすら――

レネは、僅かに視線を伏せた。逡巡の視線がモルテにも見えているのかもしれないが、構わない。
今のモルテに僅かでも理性が残っているのなら。こちらが起こした行動を、理解する心が残っているのなら。

大丈夫だ。剣さえ置いてくれれば、あとは俺自身がどうにかする。
首に構えた剣を、置いてくれれば……!

覚悟を決めた。
一瞬の瞬きののち、レネは左手で魔導書を掴み取った。勢いで腕だけ背後へ回し、本をかざす。視線はモルテを離さない。眉根を寄せ、かつての相棒を敵視するように眼前へ捉えたままだ。

レネの背後。魔導書をかざしているすぐ後ろに、暖炉があった。薄明けの室内で煌めく灼熱の舌が、じりじりと背表紙を舐めている。
左手で熱を感じた。このまま指を離せば、魔導書は炎の中に沈んでしまうだろう。
その焼失は、モルテの――相棒の精神の消滅を、意味する。

「剣を降ろせ。……降ろしてくれ」
――頼む。
――この方法しか無い。お願いだから、届いてくれ……!!

懇願するように、瞼をきつく閉じた。次に目を開けたら、剣を降ろしてくれているように。
それは祈りだった。
届いてほしい。誰も、何も、傷をつけずにこの場を収束させるには、この方法しか思い浮かばなかった。こんなことはしたくない。
魔導書モルテを燃やすなんて、そんな残酷なこと、できない。だから……!

レネは瞼を開けた。相対する相棒の表情は、レネの希望とは大きく外れていた。

微笑。
すがるような、諦めるような、それでいて、こちらの背中を押すような、肯定の笑み。先ほどの獣性を帯びたものではない、人としての情がこもった、柔和な悲哀。

モルテは確かに、そんな笑みを浮かべていた。
手は短剣を構えたまま、己の首筋にあてがっている。だが、その姿勢に相反するように、モルテの表情は僅かに、しかし確実に、魔導書を炎へかざす前から変化していた。

――ああ、そういうことか。
脳裏で「どうして」を言い終える前に、レネは理解した。微笑を浮かべた理由を。レネの脅迫行為を、止めない理由を。

――モルテ。間に合わなかったんだな。
レネは再び、視線を伏せた。長く静かに息を吐き、僅かに項垂うなだれる。

呪いがモルテの魂を蝕んでいるのは、紛れもない事実だ。だが、魂の髄は、まだ人の理性をぎりぎり保っている。
もう、保たないのだろう。残り時間がないのだろう。モルテは解っているのだ。レネ達と旅する時間も。もう朝日を見る時間すら、ないことを。
だからこそ、獣に落ちる前に。カナールを魔物へ道連れにする前に。

――モルテ。お前は、人のまま死にたいんだな。

わざと、俺とカナールに襲いかかった。呪いで正気を失った振りをして、あえて俺を切りつける振りをした。そうすることで、モルテを排する他ない状況を作り上げた。俺が魔導書を破壊することに気がつくように。モルテだけを壊してくれるように。カナールを残して、自分だけが逝くように。

レネは視線を上げた。赤い瞳と交差する。正面でしっかりと相棒の眼差しをとらえ、己が感じた意図に間違いが無いことを、もう一度確認した。

――俺は、お前の相棒だ。
――だから、お前がそう言うのなら。

――俺は……

魔導書を掴む左腕を、軽く手前に戻す。視線は正面をとらえたまま。身体も、相棒の方へ向いたまま。

そして勢いをつけて、レネは、

魔導書を背後の暖炉へ放り投げた。

6.

モルテの反応は、すぐに表れた。

手から短剣が滑り、床に落ちる。支えられなくなった小さい上体が、再び床へ倒れこむ――寸前で、レネの両腕が下から受け止めた。
相棒の表情は苦痛に歪んでいた。顔をしかめ、強く食いしばった歯からうめき声が漏れている。セリーニに数ページ破り取られただけで失神に至った、カナールからそう聞いている。本体を炎にくべられ、魂を髄から焦がされる。その痛みは筆舌に尽くしがたい筈だ。

気休めにもならないことは百も承知だ。しかし、レネはモルテを抱きしめずにいられなかった。濃紺の後頭部に手をまわし、せめて己の胸にしがみつけるように、強く引き寄せる。

「どうして、こんなことをした」
レネを襲撃した理由は、理解できた。魔導書を、破壊してもらうため。呪いに窮する自分モルテを、殺してもらうため。カナールを生かし、自分だけが旅立つため。
だが、理解できない部分もあった。
「お前ひとりだけで、やれたはずだ。俺が起きる前に、魔導書を火にくべれば良かったんだ。なのに、どうして」

――どうして、俺に?
この作戦は〈賭け〉だ。もしも、モルテがカナールとの主導権争いに敗れれば。一連の襲撃が演技だと見破られたら。レネが魔導書を破壊するという発想に至らなければ。モルテを見捨てるという選択肢を、断固として拒否したら。どれか一つが欠けても、この状況は起こせなかった。
モルテが独りで魔導書を暖炉に放り投げれば、こんな賭けよりもずっと容易で確実に遂行できたはずだ。なぜレネを巻き込んで、危険な作戦を立てたのか。

荒い息をどうにか整えて、モルテはレネの腕の中から顔を上げた。
「……それはね……レネ」
顔を見れば、びっしりと刻まれていた紋様がとぎれとぎれになっている。黒変した白目も元の色彩に戻りつつあった。

いま、炎から魔導書を救い出せば。
まだ、間に合う――!
振り返ろうとした頬を、小さい両手が包み込む。恐ろしいほど冷え切っている相棒の温度に驚いて、逸らしかけた視線を再び戻した。
「聞いて」
相棒は息を吸って、微笑む。紅い、否、紅く染まってしまった瞳を、穏やかに細めた。

「僕は……君の呪いに、なりたかったのかもしれない」

レネは息をのんだ。相棒の、モルテの覚悟と決意に、言葉を失う。

「俺の……呪い?」
ようやく紡ぎだせた言葉は、鸚鵡おうむ返しのような音にしかならなかった。
呪い。その語句が心に突き刺さり、射止められてしまう。
呆然とした表情のレネを見て、モルテは幼気いたいけな顔をして笑った。

「はは。……変だよね。人間なんてただの器だと思ってたのにさ。最初は、君も怪しい素振りがあったら魔法でぶっとばしてやろうなんて、思ってたのに」
ささやかな笑い声のあと、モルテは視線を伏せる。

「僕は、君の呪いにはなれないみたい。でも、それでいいし、それがいいんだ」
「それは、どういう……」

言葉の途中で、ふいにモルテが大きく呻いた。苦痛にあえぐ声がレネの耳へ響く。
「モルテ……!」
再び、モルテの上体を強く抱き寄せる。しかし、向こうが体を押し返すので、寄せた身体を離した。
視線がぶつかる。モルテの瞳は、出会った頃の夕焼け色へと戻っていた。

そうだ。最初は、こんな色彩だった。魔法を使う時は金色に輝いて、その煌めきもとても綺麗だった。
「レネ。……残された時間を、カナールと大事に使ってね。あの子のこと、よろしく」
目を閉じて、力なく笑う。

その言葉に、レネもどうにか微笑を返した。
「勿論だ。……モルテも、カナールも、二人とも俺の大事な相棒だ」
声が震えているのが、自分でもわかる。喉の震えを、止める術が見つからない。

目頭に何かがこみあげて、頬に一筋つたった。口角の横を通って下顎へと落ちるところへ、細い指が添えられる。口元の涙をすくい、金色の瞳が何かを訴えかけている。
ためらいの色を含んだ視線が、揺れる。やがて、あきらめたように瞼を閉じた。
「レネ。カナール。……君たちが何になっても、僕は……」

――僕は、きみたちを、忘れないからね。


その言葉を遺して、相棒は腕の中でがくりと脱力した。
「……モルテ!」
我を忘れて、意識を手放した相棒の体をゆする。利き手を空けて肩を叩こうと手を伸ばしたその時、相棒の身体がぴくりと動いた。

うっすらと開いたその目は、赤い瞳だった。みるみるうちに瞼から涙がこぼれ、両手で覆った隙間からぽろぽろとこぼれだす。
「やだ……いやだ、モルテ……!! 置いていかないで……!」

カナールだ。モルテが消滅し、主導権がカナールへと戻ったのだ。レネの右目が捉える魔力も、カナールの色彩へと変わっていた。
レネはカナールを抱きしめ、背後の暖炉を振り返る。


先ほどよりも勢いを失った炎が、一塊の灰を、飲み込んでいた。

7.

薄雲に隠れた朝日が、王城の庭園を照らす。
フォティアは柵から身を乗り出し、下を確認した。昨日の朝レネ達と約束した南門の向こう側に、見慣れた魔力の波動が現れる。少し安堵して、フォティアは柵を跳び越え下へと降りた。

地面に着地し、門へ足を進める。階段を上ってくる二人の姿を確認して、彼らの様子がおかしいことに、フォティアはすぐ気がついた。
無い。カナールが持っていた魔導書の魔力が、視えない。それどころか、魔導書そのものも見当たらない。カナールは魔導書を右腰の鞄へしまっていたはずだが、今その鞄は寂しそうに潰れている。レネの波動と、カナールの波動。三つあったはずの魔力が、二つに減っている。

会話ができる距離まで近づいて、フォティアは二人に尋ねた。
「モルテに、何があった」
また奪われた訳では無さそうだ。それならば、こんなに悔恨と悲哀の表情を浮かべてここへやってくるわけが無い。一晩の間に何が起こってしまったか、おおよその予想はつく。

レネが重々しく口を開いた。
「間に合わなかった」
悔恨の視線が落ち、俯く。
「魔導書を破壊した。モルテは……あいつは、俺が」「モルテは、」
レネの言葉を遮り、カナールが声を上げた。
「モルテは、理性が残っているうちに……旅立った。レネに見守られて、自分で炎の中に、飛び込んだんだ」
こぼれ落ちそうな震える声で、カナールはレネの言葉を訂正した。続けて、鞄から小さい瓶を取り出す。

日の光を反射して、ガラスがきらりと輝く。中身をよく見てみると、黒く焦げた灰が入っていた。小さくなった紙片の燃えかすが、いくつか埋もれている。

これは〈遺体〉だ。魔導書モルテの遺体が詰められた、棺だ。

「これくらいしか、残らなかった……」
カナールは瓶を握りしめる。その指先は、灰でわずかに黒く染まっていた。顔を伏せ、さめざめと涙を零す。

モルテ。人の肉体を利用して己に刻まれた魔法を行使する、〈意志を持つ魔導書〉。しっかりと言葉を交わしたことはなかったが、レネに見守られて旅立ち、人の心を残して自ら生命を絶ったというのなら。

きっと、モルテは。
確固たる意志と、崇高な心を持った、偉大な魔導書だったのだ。

***

フォティアの後ろを歩きながら、レネはリヴァーディア王城の中を見渡した。
かつて父と母が過ごし、これまで殺してきた騎士達が生活の拠点にしていた場所。ここも昔は緑豊かな自然に包まれ、白亜の壁と天井が彼らの暮らしを見守っていたのだろう。
本当ならば、自分もここで育っていた。今は亀裂と蔦と瓦礫に囲まれた無残な城だが、侵略前は瀟洒で平和な光景が広がっていたに違いない。

前方に視線を戻すと、フォティアが両開きのドアを押し開けていた。外側からの陽光が、埃だらけの薄暗い室内へ一筋差し込める。
図書室だ。古い木製の本棚が壁一面に並べられている。他の町でもよく見る普通の光景が、ここは焼失を免れた区画であることを示唆していた。
ただし、本棚は半分以上空いていた。空白の箇所に収まっていたと思われる本達が、床にうずたかく積み上がっている。

レネは、昨日のフォティアとの会話を思い出す。査読。呪いを解くための鍵が眠っているかもしれない文献たちが、ここに集約されている。
「フォティア。対象は床にあるやつ全部か?」
「これが蔵書の一覧だ。丸がついているものが、床に置いてある。簡単な要約も書いてあるから、関連がありそうなものを選んで読んでくれれば構わない」
そう言って、フォティアは机の上に置いてあった紙の束をレネに手渡した。

題名、著者、要約などが表の形式でびっしりまとめられている。筆跡は複数だ。何人もの手で、この一覧を作成したことが分かる。表の左側には空欄が設けられており、いくつかの文献に丸がつけられていた。
丸を数える。二十を超えたところで、嫌な予感がして数えるのをやめた。

「予想以上にあるな……。カナール、この字は読めそうか?」
そう言って、紙束をカナールに渡す。リヴァーディアの排他的な歴史を考えると、王国内の本はすべて同一の言語で執筆されているはずだ。この言語が読めるのであれば、おそらく部屋の文献も読むことができる。

カナールは小さい手で紙を顔の前にもち、眉間にしわを寄せて凝視している。
……これは、厳しいかもしれない。
「えっと、読めるけど、ゆっくりになると思う……」
「そうか。無理せずで構わない」
そう返答しつつも、レネの胸中は不安一色だった。この場にモルテがいてくれたのなら、査読にそう日数はかからなかっただろう。まして、「忘れる」ということがないのは文献調査では最大の強みだ。

だが、モルテはもういない。
カナールも読み書きが不得手な方なら、査読を主に進めるのは自分自身ということになる。しかし、この地方の言語はレネの母国語では無い。読めないわけでは無いが、母国語よりも時間がかかる。
この分厚い文献達を読み終えるまでに、一体何日かかるのか。正直に言うと計算するのも怖い。

……果たして、自分たちは、「間に合う」のだろうか?