15.
洞窟の中は、朝日が届かない。以前来た時と同じように、暗い暗い穴がぽっかりと開いていた。中に誰がいて、おおよそどんな光景が広がっているか想像ができる今となっては、入口すら威圧的な恐怖をおぼえる。まるで、巨大な魔物が口を開けて、獲物を待ち構えているような気がするのだ。
中も相変わらず真っ暗だ。前回と同じように土壁の感触を確かめながら、カナールは一歩一歩と奥へ進んでいった。
そうする必要はあまりないのだろうが、なるべく足音と息の音を殺し、慎重に進んだ。耳が拾う音ひとつひとつを敏感に拾い、前を警戒しながら一歩を踏みしめる。
研ぎ澄ましていたカナールの耳が、道半ばで音を掴んだ。肉が千切れる様な、ぐちゅりとした生々しい音。そして、微かに漂う、鉄臭い匂い。
それは、まぎれもなくフォティアとセリーニが戦闘していることを示唆していた。
――フォティア!
生きている。少なくとも、彼は戦えている。確信した瞬間、カナールは顔を上げて走り出した。もう、慎重に進むことなどできなかった。一刻も早く、彼と合流したい。
走り出してからすぐに、視界が明るさを取り戻していった。すぐ目の前が最奥部なのだろう。
自身の瞳孔が、急速に飛び込んだ光に慣れるまで数秒。羞明感に顔をしかめたそのとき、がつんと大きな鈍い音が奥から聞こえた。
「フォティ……」
面を上げて名を呼ぶ。しかし、言葉の途中で息が詰まるほど、カナールの眼前に広がる光景は凄惨なものであった。
切断された、夥しい数の蚯蚓。断面から鉄の臭気を伴って飛散する、赤紫の体液。
じっとりと肌にまとわりつく湿度と温度、そして鮮紅色と赤紫が入り混じった暴力的な色彩の中央で、フォティアはセリーニに捕縛されていた。
白い骨格は、返り血でまだらに汚れている。肋骨と頭骨を十数本の蚯蚓で掴まれ、なすすべもなく持ち上げられていた。だらりと垂れ下がった腕は指一本も動く様子がない。
肋骨の中を、頭骨の中を、蚯蚓が行き交い撫でまわす。空の眼窩を外へ突き破りながら、遊戯するように這いまわる蚯蚓たち。フォティアの醜態を見下ろし、セリーニは中空で嘲笑を浮かべていた。
「フォティア……」
カナールは呆然と立ち尽くす。フォティアが、負けた。セリーニに勝てなかった。
「馬鹿な子供だ」
セリーニは、フォティアを掴んだままカナールへ言い放つ。
「何故、フォティアが単独で此処へ来たのか。彼の意図を読み取れなかったのか? 君は、何の作戦も練らずにここへ戻ってきたのか」
くく、と細い唇が歪む。
「まさか、フォティア一人で私の生命を断てるだろうと? 君はそう計算したのか」
「……違う」
「では、約束通り……ここで縊り殺されに来たというんだね」
ずるり、と数本の蚯蚓が頸をもたげる。かなりの本数が切断されているように見えるが、まだ相当な割合が残っているようだ。
彼らは徐にカナールへ伸びてくる。獲物を己の射程に捉え、こちらが隙を見せるのを窺うように。
――違う。ここで、殺されるもんか。
カナールは深呼吸し、息を整える。
ゆっくりと瞼を閉じ、そして、深紅の瞳をきっと見開いた。
瞬間、床を蹴る。
蚯蚓達から遠ざかるように全力で駆け出した。頸をもたげた蚯蚓達も、こちらを捕まえようと一目散に後ろを追ってくる。
前回の遭遇で、相手の動きは把握している。次々に迫りくる蚯蚓達をかがんでかいくぐり、方向を転換し、距離を詰められまいと走り回る。
「無駄だ」
遠くから、セリーニの冷ややかな声が聞こえた。
――そんなこと、分かってる。
この密室に近しい空間では、単なる逃走はその場しのぎでしかないことなど。
これは単純な逃走では無い。時間が稼げれば、十分だ。
腰の鞄に手をかけ、魔導書を取り出す。開くべきページは、すでに決まっている。
すぐに取り出せるように、先ほどの草を挟んで栞代わりにしておいたから、開くのは一瞬だ。目的の魔法は、詠唱が短く済み、それでいて魔物の機動を削ぐような効果があるもの。本文に目を落とし、意識を集中し、詠唱を始める。
三秒。それだけあれば、この呪文なら詠唱できる。カナールではなく、自分なら。
偉大な魔導師を目指す、自分なら、絶対にできる。
「――よくも。よくも〈僕〉の仲間たちを侮辱したね!」
呪いが身体に伸し掛かる。顔まで侵食してきている紋様を相手に見せ、深紅に染まってしまっている両の瞳で、モルテはセリーニを睨みつけた。
『真空波!』
魔導書が、淡い緑の光を帯びる。生み出された不可視の刃は、夥しい数の蚯蚓を切断し、彼らの主へと飛んでいく。
赤紫の体液が飛び散る中、真空波はセリーニの腰から伸びる蚯蚓の一塊をもぎ取って消えた。
どさ、と重たい音が響く。すべてを切断するには至らなかったが、フォティアを拘束していた蚯蚓も切断することができたようだ。いまだ失神したままのフォティアごと、切り離された蚯蚓が床に落ちた。
「……いいのか? その作戦は、君に負荷がかかるだろうに」
下半身の殆どを喪っても尚、セリーニは不敵な笑みを崩さなかった。まるで効いていないとでも言わんばかりに、人を食ったような口調はそのままだ。
負荷がかかるのは承知のうえだ。それを見越して、自分がカナールへ提案したのだから。
二度も派手に転びながら、セリーニの棲家へ向かうカナールを、モルテは微睡みの中でぼんやりと見つめていた。
遠く離れた事象を知る能力の持ち主、セリーニ。声を介した会話も、文字を介した筆談も盗み見られてしまう可能性があるのなら、こうすればよい。
――心の中で会話をすれば、セリーニには聞かれない。
カナールからモルテへの切り替え、そして魔法の発動。モルテが如何に呪いに耐え、魔法を発動できるかが鍵だったが、問題はない。
だって自分は、最強を目指す魔導師なのだから。レネの、そしてカナールの力になると決めた、仲間なのだから。
「余計なお世話だよ、セリーニ。……君は、ここで死ぬんだ」
魔導書をいったん閉じ、モルテは挑発した。そして、二枚目の栞を開く。
残りの蚯蚓は数本だ。それも先ほどの真空波で傷がついている。もう敵ではない。
次の標的は、蚯蚓を束ねる主である、セリーニ本体だ。
16.
『萌芽!』
モルテの短い詠唱は、瞬く間に完了した。今度はセリーニの下から緑の光が浮かび、直後にメキメキと音を立てて幹が姿を現す。
幹は瞬く間に太さを増し、鋭利な先端をセリーニの背中めがけて急速に伸ばしていく。しかし、その様相はモルテの想定から外れていた。
「……え……!?」
一言だけ声を漏らし、モルテは自分が召喚した樹木を呆然と見つめる。
本来、『萌芽』は草木を召喚する呪文だ。太さや本数はある程度呪文によってコントロールができる。しかし、今召喚した樹木は、モルテの制御から外れていた。
幹は黒い炎を帯び、その身を脆く焦がしながらセリーニの身体へ伸びていった。
セリーニも、モルテの魔法を見逃していないようだ。接触の直前で身体を逸らし、迫りくる鋭利な先端から回避しようとする。
結果、セリーニの身体を貫くはずの樹木は、彼の右腰を抉る程度にとどまった。中途半端な長さの樹木は、黒い炎によって瞬時に燃え尽き、床に一塊の灰となって消滅した。
「なに……今の……」
「呪いの影響だ。意志を持つ魔導書よ。そこに記されている変わり果てた呪文が齎した、変質と変性の結果だよ。……自覚するんだ。もう、君は君ではない」
セリーニの口角が、僅かに持ち上がる。それと同時に、生き残っている数本の蚯蚓がモルテの小さな身体を殴り飛ばした。
僅か数本の蚯蚓による、力のない殴打。しかし、すでに消耗しきっているモルテを転倒させるには十分だった。
どさ、とバランスを崩してモルテは床に倒れ込む。反動で魔導書が手を離れる。無防備に舞い飛ぶそれを、一本の蚯蚓がキャッチした。
「返せ!」
モルテが叫ぶ。しかし蚯蚓はあっという間に高々とモルテの頭上を通過し、セリーニに魔導書を渡した。
「蚯蚓のすべてを切らなかった。……それが君の敗因だよ」
セリーニは魔導書を乱暴に開き、細長い指でページを勢いよく掴んだ。
モルテは息をのむ。ページを掴んだセリーニの指に、力が入るのが見える。
――やめて。だめだ、それだけは。
必至の想いで身体を起こす。なんとしても止めないと。それをされたら、僕は。
セリーニの細い口元から、悦に入った嘲笑が漏れる。
「……さあ、」
セリーニは躊躇することなく、魔導書のページ数枚を勢いよく破り取った。
***
主人格をモルテに交代し、意識の奥底から、カナールは戦況を見守っていた。この作戦を遂行するには、モルテに耐えてもらうしかない。だけど、こうしないと自分たちだけではセリーニに勝てない。
そう確信したから、洞窟のすぐ近くで自分が転んだとき、モルテから提案された作戦を受け入れた。もし呪いの負荷が強くて意識を保っていられないときは、必ず主導権をカナールに戻すという約束付きで。
カナールは両手を組み、祈る形でモルテの動作を見ていた。だから、セリーニが魔導書のページを破り取ったその光景も、カナールはしっかりと見つめていた。
――モルテ!
想像を絶する光景に、カナールは目を見開く。途端に、鼓膜を突き破るような音が聞こえた。
「ぎゃああああああ!!!」
およそ、子供の声帯から発せられたとは思えない。それはモルテの悲鳴だった。

自分の本体を破り取られ、モルテは膝をついて蹲っているようだ。視界が床一面のみを映し、弱弱しいモルテの嗚咽がカナールの耳に届く。
――モルテ、交替して! ぼくなら……
カナールの語り掛けが終わる前に、モルテの身体がびくんと跳ね上がる。
二度目の攻撃が来たらしい。再びモルテの悲鳴が聞こえ、カナールは思わず耳を塞いだ。
――モルテ、モルテ! もういいよ、お願いだから替わって!
聞いていられない。こんな光景、もう見たくない。自分が交替したら、この苦しみをすこしは緩和できるかもしれない。お願い、お願いだから……
そう思った瞬間、身体の感覚が入れ替わった。カナールは自分が蚯蚓の床に蹲っていることに気が付き、モルテと交代したことを理解する。
「モルテ……?」
返事はない。交代ではない。これは、モルテが失神したんだ。
そう理解した瞬間、カナールの頭からさっと血の気が引いた。
頭上で、三度目の音がする。ゆっくりと顔を上げると、魔導書のページがくしゃくしゃになって上から降ってきた。
「おや、もう音を上げたのか。つまらないな」
「……ひどい」
悔しさと怒りを込めて、カナールはセリーニを睨みつけた。彼はカナールの遙か頭上でほくそ笑んでいる。
「もう少し持ち堪えるものだと思っていたが。思いつきでやってみるものだな」
では、と言葉を続け、セリーニは魔導書の持ち方を変える。左手で魔導書の表紙を掴み、下から支えていた右手を裏表紙へ滑らせる。
右手と左手が魔導書の対極を掴んだ。そのまま、じりじりと左右へ引くように力がこもる。
「……! だめ!!」
――魔導書を引き裂く気だ!
17.
反射で立ち上がり、カナールは手を伸ばす。取り返さないと。完全に魔導書を引き裂かれたら、モルテはこのまま死んでしまう!
蚯蚓の妨害はない。妨害されるまでも無かった。カナールの小さい体躯は、遙か上に漂うセリーニには届かない。つま先立ちで手をあげるも、セリーニへかすりもしなかった。あまりにも、あまりにも遠い。蚯蚓たちは、こちらを嘲笑うように静止していた。
頭上で小さく、ぴり、と裂ける音がした。背表紙へ亀裂が入る。
――モルテ……!
焦燥が限界に達したとき、背後で物音がした。
肉塊と化した、切断された蚯蚓たち。それらを踏みつけ、白い骨格が跳躍しカナールの頭上に一瞬の影を落とした。
フォティアが中空を飛び、勢いで魔導書を蹴り落とす。セリーニの両手から解放された魔導書をキャッチし、カナールの隣へと着地した。
「ちゃんと持っていろ」
と、魔導書が差し出される。本は無事だ。背に亀裂はあるが、引き裂かれる前だった。カナールは両手で受け取り、しっかりと胸に抱きとめた。
「……ありがとう」
涙をぬぐって、魔導書を鞄へ仕舞う。傍らで、フォティアが身をかがめて囁いた。
「おれがセリーニの相手をする。お前は、レネを見つけてここから出るんだ」
カナールが返答する間もなく、フォティアは再び蚯蚓の床を蹴った。
「待って、フォティア!」
セリーニは、先ほどのモルテの攻撃で大量に出血している。残された体力は、そう多くないだろう。
だけど、フォティアだって今さっきまで失神していたのだ。もしも自分がレネを見つけて、フォティアを置いて脱出したら。それで、フォティアが完全に負けてしまったら――彼はどうなる?
「フォティア……どうして?」
分からない。なぜ、そこまで執着するのか。同じ騎士仲間であったはずなのに、なぜ、彼はセリーニへ強い怨嗟を抱くのだろう?
***
竜骨の魔物は数多の蚯蚓を引きちぎり、彼らを束ねる主の双肩を掴んだ。妨害してくる蚯蚓の胴をうまく足場にして、敵の眼前に己の巨躯を固定する。
至近距離で、セリーニの顔を見る。血色を失った肌。元来あった切れ長の眼差しと金色の瞳は、魔物化の段階で失われてしまったのだろう。青黒い亀裂で目許は見えないが、フォティアにはわかる。
彼は――セリーニは今も、こちらを嘲笑うような視線で見つめている。
魔物化する前と何も変わっていない。気怠げに低く響く声も、人を小馬鹿にする口調も、相手のことを何とも思わない精神も、何も変わっていない。
――そうだ。こいつには、改心など期待するだけ無駄だったんだ。
ならば、それで構わない。そちらのほうが、心置きなく殺せるから。
セリーニの肩を掴む両手に、フォティアは力を込めた。薄く小さい肩へ、指が食い込んでいく。
「――あの時聞けなかった答えを、今、ここで聞かせてもらおうか」
「……何のことだ?」
「とぼけるな。アルカを……どうしてアルカにあんなことをした」
「今更。理由を知ったところで、彼女の純血が戻るわけでも無い」
フォティアは息を吐いて、セリーニを殴りつけようと拳を振り上げる。しかし蚯蚓が絡まり、振り上げた腕を下ろすことができない。
「純粋で、高貴なるアスプロ族。最も清廉な存在で、尊ぶべき姫巫女様。……馬鹿馬鹿しい。其れが何だと言うんだ。あの日、我々は彼女から祝福を受け取った。与えられたから、欲した。ただそれだけだ」
「あれが祝福だと? ふざけるな! あれはお前が一方的にアルカを痛めつけただけだ!」
――そうだ。アルカは何も悪くない。あれは、あの日起きたことは、すべてセリーニがやったことだ。セリーニが、一方的にアルカを切りつけたんだ。
今でも、あの日の光景はフォティアの脳内にはっきりと焼き付いている。
凱旋の日。アルカから祝福を受け取った日。あの日の夜、セリーニは、アルカを侮辱した。彼女を切り刻んだ。蹂躙した。搾取した。
忘れない。リヴァーディア城内、セリーニの私室。乱雑に物が散らばる室内を、数本の蠟燭と深夜の月明りだけが照らしていた。
乱れたシーツは赤く染まり、セリーニの黒い長髪とアルカの白い長髪が絡み合う。
黒、白、赤。三色が織りなす光景の中央で、アルカはベッドの上にぐったりと横たわっていて。
セリーニは彼女の上から覆いかぶさり、左手に小さいナイフを持っていて――
「お前が奪った。お前がアルカを穢した。だからお前は騎士の資格を剥奪されて、牢の中で一度死んだんだ。……枢密院とイードル隊長は、判決を誤った。お前なんか……。お前なんか、牢にぶち込まれる前に死ねばよかった!」
フォティアの上腕骨を拘束していた蚯蚓は彼の腕力に負け、赤紫の体液をまき散らして離断した。蚯蚓を力ずくで引きちぎったフォティアは、そのまま拳を振りかざし、セリーニの顔面を殴りつけた。
鈍い殴打の音が二度、三度と響く。
「言え! 話せ! どうして、どうしてアルカなんだ!」
守り抜きたい。そう思っていたのに。助けられた、救えた。そう思っていたのに。
この恋が叶わないのなら。せめて、大切に、傷がつかないように。触れたら散ってしまう花を、そっと眺めて愛していられたら、それでよかった。
なのに、この男はそれを踏み潰した。白くて可憐で脆い花を、分かったうえで踏みにじった。生かさず、殺さず、命に別条がない個所をわざわざ選んで、もてあそんでいたぶった。
どうして。どうしてアルカだったんだ。ほかの女じゃなくて、どうして、よりにもよって、アルカを。
――許せない!
フォティアの片手が、セリーニの顔を覆う。胴体を反対の手で掴み、セリーニの首をへし折ろうと全力で力を込めた。
「……話す気がないのなら、ここで死ね」
しかし、セリーニも抵抗した。フォティアの全身を蚯蚓で覆い、顔も蚯蚓の胴体で目隠しする。
「――君に話したところで、理解できないさ」
白い、骨の体躯。
鮮紅色の、蚯蚓の体躯。
赤紫に濡れた二つの魔物が、互いを押しつぶそうと膠着していた。
18.
蚯蚓の大きさはさまざまだ。細いものでは自分の指ほど、太いものでは胴体ほどのものまである。壁も床も大小の蚯蚓が複雑に絡み合い、障害物としてカナールの前に立ちふさがる。下をくぐり、時には壁をよじ登りながら、カナールは相棒を探した。
――レネ……!
上では、フォティアがセリーニと交戦している。心配で時々頭上を確認しているが、彼は激しく叫びながらセリーニを殴りつけていた。今のところ、フォティアのほうが優勢そうだ。
ふと、床の隙間から緑の布が垣間見えた。見慣れた色彩に息をのむ。無我夢中で蚯蚓たちをどかすと布はすぐに表れた。背にまとっていたマントを掛け布のようにして、目を閉じ横たわっている相棒の姿と対面した。
「レネ!」
蚯蚓の群れから、レネの上半身を引き起こす。身体は温かい。呼吸も問題ない。
気を失っているだけのようだ。
「レネ、起きて……!」
服の上から身体をゆする。しびれを切らし、軽く頬を叩いてみる。しかし、何もしても彼の瞼は動かなかった。セリーニに捕まってから一日以上経過している。その間、殆どずっと彼から痛めつけられていたのだとしたら――
「ごめんね……遅くなって……」
引き起こした上半身を戻し、彼の足に絡みついている蚯蚓をほどいた。そういえば、腰から提げていたはずの二本の剣が鞘ごと外されている。あたりを見渡すと、少し離れたところに二本揃えて置いてあった。
取りに行こうと腰を上げた瞬間、頭上からフォティアの叫ぶ声が轟いた。断末魔に近い、かすれた絶叫がカナールの鼓膜を震わす。
視線を上げると、フォティアの頭に絡みついた蚯蚓が彼の頭骨を砕いていた。
ばきり、と、いやな鈍い音をたて、竜骨の頭蓋に罅が入る。
「フォティア!」
カナールが叫んだ瞬間、砕かれた頭骨の破片が隣へ墜落した。破片というにはあまりにも大きい。真っ二つに砕かれた顔面の右半分がそこにあった。からっぽの眼窩が、カナールの瞳と視線を交わす。
「……!」
絶句した瞬間、カナールの身体がふわりと浮いた。
切断を免れた蚯蚓が、カナールを持ち上げたのだ。蚯蚓たちは器用に矢筒を開け、矢をカナールの眼下へばらばら落とす。
「だ、だめ!」
鞄に手を当て、モルテだけは必死に奪われまいと抵抗した。そうしてもがくうちに、あっという間にセリーニと同じ目線の高さまで持ち上げられていた。
セリーニより先に、フォティアを見る。自分と同様に隣で持ち上げられているフォティアは、意識をかろうじて繋ぎとめていた。左半分だけになってしまった頭を抱え、小さく呻いている。
――レネも、フォティアも、モルテも。三人とも、もう限界だ。
――残っているのは、ぼくだけ。
残っている自分も、たった今、矢を失った。攻撃手段が何も残っていない。
乱れた黒髪を手で掻きあげ、セリーニは嗤う。
「――もう十分だ。君たちに興味はない。私が欲しいのは、彼女の忘れ形見だけ」
忘れ形見。おそらく、レネのことだろう。彼には、最初からレネしか眼中にない。自分も、魔導書も、レネをおびき寄せるための道具としか思っていない。
もう用は済んでいる。あとは、棄てられるだけ。
「……仲間に告げる別れの言葉は決まったか?」
終わる。ここで、ぼくが何もしなければ、皆……みんな、終わってしまう。
――どうすれば、どうすればいい?
ぼくは何もできない。レネのような力はない。モルテは意識が戻らない。
弓矢は使えない。魔法だって……
血まみれの家鴨小屋が、脳裏によみがえる。魔法をろくに制御できないのに、今、ここで使うなんて出来ない。……使えっこない。
細い蚯蚓が、カナールの目許に絡みついた。視界を奪われ、暗闇に落ちる。胴を支える蚯蚓が、徐々にきつく締めあげてくる。腹部と肺を外側から拘束され、居場所を追われた空気が口から漏れ出た。
――終わる? ここで?
もがくうちに、右手が魔導書の鞄へと触れた。自分が絞め殺され、フォティアも殺され、そうしたら、モルテはびりびりに引き裂かれるのか。レネは二度と自由を許されず、蚯蚓の巣の中で、魔物になる時を待つのか。
「……いや、だ……」
――嫌だ。
だって、まだレネに自分の名前すら伝えてないのに。
このまま、ここで終わるなんて、いやだ……!
レネと二人でもう一度、景色を見たい。
二人で食べた果実の味も。
レネの過去を聞いて流した涙も。
雨の中、ぼくを背負って歩いたレネの体温も。
満天の星空も。
全部、全部ぼくだって大切にしたい記憶だから。
――ちゃんと、魔法を使いたい。
――人を傷つけるんじゃなくて、守るために。
――三人で旅を続けるために、前へ進むために。
――魔法を。セリーニを討つために、魔法を使いたい……!
「カナール」

カナールの心に、モルテの声が響いた。
それは微かな、けれどしっかりと届いた、優しい声だった。
『――燎火』
モルテが囁くままに。魔導書が導くままに、カナールは意識を集中し、精神を研ぎ澄ませた。声帯が紡ぐ言葉は魔力を帯び、セリーニの根元に赤い魔方陣を呼び出す。
カナールの魔力は熱量を伴った風を生み出し、魔方陣が赤く煌めく。中央から一陣の火の粉が舞い上がった、その瞬間だった。
轟音とともに灼熱の炎が立ち上り、セリーニの身体を包み込む。
カナールは火炎の召喚に成功し、セリーニを――眼前の敵を、焼き尽くした。
19.
セリーニの根元から立ち上がった爆炎は、やがて収束した。鮮烈な光を伴った熱風がやみ、カナールはゆっくりと瞼をあける。
目の前は黒煙に包まれ、あたりに灰が舞っていた。主の腰から伸びて部屋を支配していたはずの蚯蚓たちも、ちりぢりに焼き切れて小さく燻っている。
持ち上げられていた筈の自身の体は、床に座り込んでいた。拘束は解かれている。
――助かった。
危機を脱したことを理解した瞬間、カナールの肺が一気に空気を吐き出した。
『燎火』を発動してから今までの間、呼吸を止めていたようだ。欠乏している酸素を欲して、深く荒い呼吸に頭がくらくらする。
数秒ほど息を整え、あらためて、カナールは己の両手と眼前の光景を見比べた。
魔法を使った。自分が。モルテではなくて、自分が。
「……ありがとう。モルテ」
手を胸の前で握りしめ、呟いた。自分の中のモルテは再び眠ってしまったようで、反応は無い。しかし、魔法を発動する前の内なるささやき。あれは、確かにモルテだった。
――モルテが導いてくれた。だからこうして、勝てたんだ。
涙を拭い、仲間の無事を確認しようと見渡す。すぐ隣で、フォティアが床に横たわっていた。
「……フォティア、大丈夫?」
肩に――正確には鎖骨に触る。触った後で、竜骨の魔物なのだから体温も脈も無いことに気づく。
最悪の事態に一瞬青ざめたが、さらに思い出した。今までの魔物は、死んだら身体が燃えて元の姿に戻っていた。骨の姿のままということは、まだ彼は生きているのではないか?
だが、カナールにはフォティアを背負って洞窟を脱する自信が無かった。まして、レネも連れて行かなければいけない。それはどう考えても無理だ。せめてフォティアには目を覚ましてもらわなければ。
「フォティア、起き――」
言い終わる前に。
何者かに突き飛ばされ、カナールの言葉は途切れた。
視界の上下がひっくり返る。
一瞬のうちに姿勢を崩され、座っていたはずの自分の身体は床に押し倒されていた。必然的に、天井の方へ顔が向く。真正面から自分の顔をのぞき込むように、セリーニが覆い被さっていた。
「なん、で……」
起き上がれない。両肩をしっかりと押さえつけられ、そこにセリーニの体重が乗り、自分の力では押し返すことが出来ない。
セリーニの目許に走る、青い亀裂と視線が合う。深い夜のような、濁った深海のような、底の見えない不気味な青が、カナールの視界を覆ってくる。
『燎火』は、確かに致命傷を与えていたらしい。セリーニの上半身は焼け爛れ、喉笛が腫れてひゅうひゅうと喘鳴を漏らしている。腰より先へ視線を下ると、モルテの真空波を免れた蚯蚓は一本残らず焼き切れていた。
それでも、セリーニはこちらを諦めなかった。彼は最早、執念だけで動いている。
「――獣になるんだ」
「けもの……?」
「次の雨の日だ。祝福は途絶える。加護は途絶し、魂はみな、獣へと成り果てる」
「何を言ってるの……」
理解できなかった。獣、加護。そして何故「雨」の日なのか。
セリーニの口元は、三日月のような薄ら笑いを崩さない。こちらの言葉には、はなから耳を傾けてなどいなかった。彼はぶつぶつと、何かに妄執するかのように同じ台詞を繰り返している。
「はな、して……!」
身をよじって、抵抗する。彼の細い身体のどこにそんな力があるのか知らないが、セリーニの両手はがっちりとカナールを固定して離さない。
そうしているうちに、黒煙のにおいが鼻をついてきた。『燎火』発動の瞬間に感じた熱を、足下からじりじりと感じてくる。
消火はしていない。この洞窟が焼け落ちる前に脱出しないと、このまま焼け死んでしまう。
「いや……いやだ!」
セリーニの腕を掴もうと、必死にもがく。カナールの細くて小さな指先は空を切り、熱風に靡くセリーニの髪をかすめていく。
――ここまで、ここまで来たのに……!!
低い嘲笑が降ってきた。薄い唇から歯をのぞかせ、セリーニが嗤っている。
「獣だ……私も、君も、リヴァーディアに脚を踏み入れたものは、すべて」
両肩に、指先が食い込んでいる。
痛みに顔をしかめ、セリーニを睨み付けた。しかし、彼は動じない。
「道連れだ。獣に堕ちるより、このまま人として、共に果て――
そこで、彼の表情が止まった。
嘲笑の熱が消え、水をかけられたような、無。
情感を含んだ言葉が途絶え、思考を一瞬にして奪われたかのような、静止。
その中で唯一、彼の胸から流れる赤紫の血液だけが、セリーニの刻がまだ止まっていないことを明示していた。
肋骨の隙間を縫い、水平に差し込まれた切っ先。セリーニの左胸から生え出た剣の先端は、ぽたぽたとカナールの胸へ雫を垂らしている。
「は……??」
小さく、セリーニがうつむく。おそらく、視線を己の胸へと降ろしているのだろう。背後から何者かに刺されたことを、彼自身も理解していないようだ。
そのとき、セリーニの背後から声がした。
「俺の仲間を放してもらおうか」
――聞き間違いじゃない。

聞き覚えのある声だった。ずっと聞きたかった声が、たしかにセリーニの後ろで響いた。芯の通った、凜と響く声が――
20.
セリーニに突き刺した剣をすっと引き抜き、レネは眼前の敵を横に蹴飛ばした。カナールを縛り付けていた両手は容易く肩から離れ、上半身だけの痩躯が床に転がる。長い黒髪を広げて仰向けになったセリーニは、剣を構えるレネと視線を交わした。
――寒い。
体内から、熱が引いていく。先ほどの『真空波』で蚯蚓たちの殆どを引き剥がされ、かなりの血液を失った。そして今は、心臓を貫かれた。循環機能が破綻し、脳に行くべき血液は体外へどくどく流れ出ていく。
身体が、冷えていく。
左手を持ち上げて、胸から流れる血液を、セリーニは指先で掬い取った。
冷たい指先から、赤紫が伝って滴る。それだけが、唯一あたたかさを持っていた。
身体の感覚が麻痺していく。視界がちらつき、色があせていく。指先が痺れ、力が抜けていく。
臓器が、体組織が、ひとつひとつの細胞が、乾いていく。
飢えていく。足りないと、叫んでいる。
足りない。
足りない。
足りない。
「イリ、オス……」
――もう一度。
――もう一度、この指に、
***
「ごめん」
桃色の長髪を揺らし、イリオスは視線を伏せた。
「ごめん……セリーニのこと、そうは考えられない、かな」
夜の帳はとうに降りている。廊下の燭台による僅かな光が、イリオスの目許に深い影を落としていた。
一、二秒の間を置いて、彼女が取り繕うように顔を上げる。
「ああ、でも勘違いしないで! セリーニのこと、ちゃんと仲間だって思ってるし。これで嫌いになったとか、そういうんじゃないから」
両手を前に軽く振って、無理矢理に笑顔を作っている。
「今までとおんなじように、お互い〈仲間〉でいよ?」

ね?と小さく続け、イリオスは目を開いた。屈託のない、しかし普段よりもぎこちない笑顔が、こちらの了承を求めている。「はい」か「いいえ」で答えられる――否、「はい」しか選択肢を与えられていないような、そんな笑みだ。
彼女の青い瞳が、こちらへ訴えている。
――この告白は聞かなかったことにしてやるから、そちらも了承しろ――
そういうことなのだろう。
向こうにとっては、これはただの告白。思慕の感情を伝えただけの、取るに足らないもの。撤回しようと思えば撤回できる。無かったことに出来る。そんな些細なもの。イリオスは、そう捉えている。
――ふざけるな。
21.
「君にとっては、その程度か」
「え?」
承服できない。こちらが、どんな思いでイリオスに話しかけたか、どんな思いで何年も耐えたのか、知らないくせに。
「なに、どういうこと……?」
「頼む。たのむよ、イリオス……あの時のように、触れてくれ。薔薇園で私の傷口に触れたように、もう一度」
「薔薇園? ……ああ、あれ。すごいね、そんな昔のこと覚えてくれてたんだ……。駄目だよ、あの時は私も小さかったから分かってなかったけど、傷口に唾つけたら余計に悪化するって」
「そんなことはどうでもいい!」
激昂した。その勢いで、セリーニはイリオスの両腕を掴む。
分かっていない。イリオスは、全く分かっていない。彼女は当時、こちらの傷の手当てをしただけだ。けれど、それがこちらにどんな意味をもたらしたか。
薔薇の棘で切り裂かれた皮膚。流れる血液。露出した傷口。そこに彼女の唇が触れ、唾液が侵入し、毛細血管から静脈を辿って全身を駆け巡る――
それが、どんなに幸せだったか。理性で縛り付けていた自分の衝動を、解き放ってしまったのか。分かっていない。イリオスは知ろうともしていない!
「私がどんな気持ちで、耐えてきたと思ってる。君に触れたい気持ちを抑えてきたと思ってる。駄目なんだ、もう耐えられない。乾いて仕方が無い」
「セリーニ、痛い!」
「混ぜてほしい。この血の中に。君の唾液が、完全に消えてしまう前に。純血に戻る前に、もう一度、ここに。ここに、触れて」
あれから何度も切り裂いた。傷口が消えないように、彼女の証が消えないように。自ら傷を深くして、抉って、化膿させた。どす黒く変色した左手の人差し指は、おそらく一生元の色には戻らない。それでいい。それが、目印になるから。
セリーニは左手だけ放して、人差し指を伸ばす。とうの昔に黒変して変わり果てた切創を、彼女の口元へ徐に差し出した。
「……やだ……放して……放してっ!!」
セリーニの指がイリオスの唇へ接触する前に、彼女は全力でセリーニの右腕を振り払った。片腕のみの拘束はいとも簡単に解かれ、彼女は後ろを向いて駆け出す。
「待って、イリオス!」
「痛っ!」
無意識だった。彼女を引き留めようとしたセリーニの左手は、イリオスの長い髪をとらえ、毛先を意図せず掴んでしまう。
頭頂で高く結ばれた桃色の髪は、ぐいと引っ張られ彼女の足を止めた。姿勢が崩れ、セリーニもイリオスも床にどさりと倒れ込んだ。
もともと、髪に触るつもりは無かった。我にかえり、セリーニは手を放す。
イリオスが身を起こした。信じられないといわんばかりに、青い瞳が動揺で見開かれている。髪に触れてセリーニから解放されていることを確認すると、振り向きざまにこちらの頬へ平手打ちした。
乾いた殴打の音が、リヴァーディアの廊下へ響く。
じんじんと伝わる痛みに、セリーニは茫然とした表情で左頬を押さえた。彼女の顔を見ると、両目から涙が流れていた。顔を伝い、床へぽたりと落ちている。
「触らないで……さわらないでよ!!」
涙声で言い放ち、イリオスは立ち上がった。そのまま彼女は駆け出し、どんどんと後ろ姿が遠ざかる。
宵闇の城内は暗い。彼女の背となびく桃色は、瞬く間に霞んで見えなくなった。
やがて足音の残響も、か細く遠く消えていった。
蝋燭の灯が揺れ、静寂を見守る。セリーニは左頬を抑えて蹲っていた。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
当たり前だ。こうなって当然だ。それくらい、常識の範疇をとうに踏み越えた自分でもわかる。気持ち悪がられて、嫌われて、殴られて、当然だ。
自分の欲しているものが、如何に狂っているか。それくらいは理解できる。だが、自分にはこれしかない。
生物にとっての水が、雨が、自分にはこれなのだ。
ただの水では渇きを満たせない。これしか、ない。これしか、なかったのに。
頭を垂れる。蹲ったまま、額を床につける。項垂れて俯せに臥床する。
そのまま、嗚咽するように笑った。セリーニは嗤い続けた。横隔膜と咽頭の悲鳴に任せ、セリーニは、夜の廊下で一人、わらいつづけた。
***
渇いていく。
身体から、臓器から、組織から、細胞から、体液が流れ出る。
ずっと、満たされなかった。
誰の体液に触れようとも、戦で獣の血を浴びようとも、イリオスの忘れ形見から搾取しても。それでも、足りなかった。
――足りないんだ。
――イリオス。もう一度。
――もう一度、この指に、ここに、
「ここに、口づけて」
***
セリーニが差し出した左手の指はカタカタと震え、やがて脱力し床に落ちた。レネは彼の指先を見つめた後、ふいと視線を伏せる。
セリーニは、確かに絶命した。
左胸と下半身から流れ出る赤紫は夥しく、小さい池となって彼の背中を浸す。
目許の青黒い亀裂が漆黒に退色した瞬間、彼の亡骸がごうと音を立てて燃え上がる。黒い炎の中から姿を現したのは、魔物の時とよく似たやせぎすの青年だった。
「――ここを出るぞ」
レネは剣を鞘に仕舞い、傍らで倒れている竜骨の魔物を背負う。レネの背丈よりもはるかに大きい竜骨の魔物は、レネの肩を借りる形で項垂れている。
レネの相棒は赤い瞳を揺らし、小さく頷いて立ち上がった。二人と一体は、洞窟の出口へと歩き出す。
床や壁に這っている蚯蚓たちもまた、黒い炎に身を焦がしている。
蚯蚓の魔物の棲家は、いま、完全に焼け落ちようとしていた。
22.
心地の良い風を感じながら、レネはゆっくりと瞼を上げる。
久しぶりに、開けた景色を見た気がする。朝の光を透かして揺れる木の葉。髪を優しく靡かせる、冷涼なそよ風。草木はさわさわと穏やかに囁いている。
洞窟を脱し、一行はリヴァーディアの森へ戻っていた。
いくら骨だけといえど、竜骨の魔物の身体は重い。肩から下ろし、洞窟の入口より少し離れた壁にもたれかかるように座らせた。
顔の右側が欠けた、竜と人の骨格を持つ魔物。レネが意識を取り戻した時には、すでにこのような相貌だった。セリーニと対峙しているから味方と判断して連れ帰ってきたが、こいつは一体――
まじまじと魔物の顔を覗き込んでいると、背後でがさりと音がする。
振り返ると、相棒が地面にへたり込んでいた。
「大丈夫か?」
咄嗟に駆け寄り、顔色を確認する。セリーニとの戦闘を終えた直後だ。そして、その戦闘の大半を自分は目撃できていない。もしや、身体のどこかに大怪我を負っていたのか?
「だい、じょうぶ……。安心したら気が抜けちゃって」
えへへ、と、相棒が力なく笑う。顔色は悪くない。服にいくばくかの血痕はあるが、どれも色は赤紫だ。おそらくセリーニの返り血だろう。ひとまず、大丈夫そうだ。
レネは眼帯を外している。赤い右目が、相棒の魔力をとらえる。今までのモルテの波動とは明らかに違う。この喋り方も、自信に満ちたモルテのものではない。
目の前の相棒は「モルテ」ではない。本来の肉体の持ち主……まだ名前も知らない、もう一人の魂だ。
相棒は、傍らにしっかりと魔導書を抱えている。あれがモルテの本体だというのなら、この子は、モルテと協力して自分を助けてくれたことになる。
赤い瞳の、小さい魔導師。レネが己の過去と夢を打ち明け自己否定してしまったあの夜に、「自分の夢を否定しないで」と涙ながらに諭してくれた、あの赤い瞳がこちらを見ている。
モルテよりも繊細で、涙もろくて、人の痛みに敏感な、もう一人の仲間。この子の存在を、いままで気づけなかった。
けれど、今は違う。今まで気づくことができなかったとしても。今こうしてこの子の存在を認識できたのなら、ここから始めればいい。自分と、モルテと、今対面している三人目。この三人で、始めればいい。
「……今まで、気づけなくて……すまない」
「レネ……? 何、言ってるの……?」
赤い大きな瞳を瞬きさせて、驚いたように相棒はこちらを見つめている。
――初めまして。
――助けてくれて有難う。
――無事でよかった。
――呪いは大丈夫なのか?
話したいことが山ほどある。聴きたいことが沢山ある。
けれど、ゆっくりと、最初から、始めてみよう。
「……俺は、レネ。名前を、教えてくれるか?」
不思議そうに瞬きしていた相棒の瞳が、一瞬大きく見開いて。次の瞬間には、泣きだしそうになるのを懸命に堪えて。
けれど涙を止められず、伏せた睫からボロボロと溢れて止まらない。
安堵したような優しい笑みを浮かべて、相棒は言った。
「……カナール。ぼくは、カナール」
「カナール、だな」
レネは復唱する。
右手を伸ばし、「カナール」と名乗った相棒の涙をそっと拭う。そのまま掌を頬に添えた。カナールの温かい体温が、掌を通して伝わってくる。

今まで相棒を遠ざけて、傷つけないように守ってきた。しかし、今はお互いに呪われている。もう避ける必要はない。
それに。
触れたかった。この手でしっかりと触れて、体温を感じて、二人の相棒のことを、理解したかった。だから、もう遠ざけるのは、遠ざかるのは、やめだ。
レネが微笑んだその瞬間、カナールは小さい手をこちらへ伸ばし、レネの胸元に抱き着いた。
「レネ、ごめんなさい……遅くなって」
胸に顔をうずめたまま、カナールはさめざめと泣いている。
「遅くなんかない。お前と話せてよかった」
レネは右手でカナールの頭を撫でながら、尋ねる。
「モルテは無事か? 二人とも……よく頑張ったな」
「ぼくを優先させて……モルテは眠ってる。三人で会うために、モルテも支えてくれたんだ」
カナールは胸元から顔を上げた。
それは、晴れやかな笑顔だった。
「ねえ、レネ。話したいことが、たくさんあるんだ」

