
1.
フォティアの反応は早かった。竜骨の足が瓦礫を蹴ったかと思うと、次の瞬間にはレネ達の目の前に着地し、素早く拳を叩きつけてきた。
レネはカナールを突き飛ばしながら横に避け、フォティアの攻撃をかわす。
「っフォティア!」
体勢を整えながらカナールが叫ぶ。その叫びが届いてほしい、という望みも叶わず、赤々と光る魔物の眼光は少しも衰えない。
再び、咆哮が轟く。少年の声質から、否、ヒトの声から遠くかけ離れた、〈竜〉そのものの咆哮。まるで骨が肉を取り戻し、生前の畏怖と尊厳を奪還したかのように、その声は雨天の空に遠く響いていく。
理性のない挙動。ヒトの魂を取り払われてしまった獣が、いま、目の前にいる。
――すまない。
一瞬だけ瞼を閉じて、レネは鞘から剣を抜き去った。
「カナール」
「レネ、でも」
「お前だって分かっているだろう。あれはもうフォティアじゃ無い」
逃走の手段は残されていない。二メートル近い巨大な竜骨は、軽やかに地面を蹴って人間よりもずっと早く移動できることをレネ達は知っている。
ここで倒すほか、道は無いのだ。
すでに泣き腫らしている瞼をこすり、カナールは小さく頷いた。
「……ごめんね、フォティア」
再び、竜骨が地面を蹴る。拳を握り、己の自重を加えた重たい一撃がレネめがけて飛んでくる。
咄嗟に剣を横に構え、拳を刃で受け止めた。脚を前後に開いて、全身で衝撃を受け流す――はずだった。
――重い!
想定以上の衝撃を感じた刹那、己の体が容易く跳躍するのをレネは感じた。ふわりと嫌な浮遊感ののち、背中が瓦礫に激突する。
「レネ!!」
瓦礫と小さい礫の群れに放り出される。しかし、すぐに身を起こす。大丈夫だ、鬣の時と違って頭は打っていない。動ける。
剣を握ったままの右手に力を込め、敵を視界に捕らえる。向こうはこちらへ四つ足で飛びかかり、立ち上がる暇も与えないままにがっちりと肩を掴まれた。
骨の手が、両肩に食い込む。硬質な骨は肉を潰し、容赦なく筋肉を破壊しようと力がこもる。閉じられた獣の口から、グルルルル、と声が漏れた。これでは竜どころか、まるで猟犬だ。
あえて動かさなかった右腕で狙いをつけ、レネは切っ先を魔物の左目に突き刺した。感触こそ空の眼窩だが、ぼうと浮いていた赤色光が切っ先に乱反射して潰れた。
「ガアアアア!!」
効いたようだ。もともと右目はセリーニ戦で破壊されている。これで敵の視界を奪えたはずだ。
『――隆起!』
カナールの魔法が、下から魔物をとらえた。隆起する地面が彼を飲み込み、つま先から大腿骨までを包み込む。半身の自由を制限され、さすがに敵は動けないようだ。必死に抜け出そうともがいている。
カナールも覚悟を決めているらしい。詠唱が終了したのもつかの間、再び瞳を閉じて次の詠唱を開始している。
聞き覚えのある呪文。フォスと対峙した際にモルテが放っていた、牽制用の魔法に用いられた呪文。記憶に残っているフレーズから、後半は新しい呪文を。牽制ではなく、より強固でより威力のあるスペルを唱え、カナールは放つ。
『投石!』
礫がフォティアへ飛んでくる。フォス戦よりもずっと大きくて質量のある、巨大な岩石が次々に竜骨を砕く。岩は骨よりも脆い。幾ばくの罅をいれただけにとどまったが、レネにとってはそれで十分だった。
剣を構え、レネは地面を蹴る。狙うは、亀裂の入った左顔面。
すでに自分たちに未来は無い。アルカが死んだ今となっては、祝福も加護も残されていない。
じきに二人とも魔物になり、理性も記憶も心も棄てられてしまうのだろう。
王城も最早残っていない。自分たちが立っていたバルコニーはかろうじて残っているが、上階は悉くを瓦礫の山に押しつぶされている。城の影はそこに無い。僅かな基礎と下階の上に、岩の山が盛り付けられているだけの無残な廃墟だ。
だが、たとえ何も残っていなくとも。明日すら残されていなくても、自分たちはまだ人間として生きている。
カナールと、共に生きる。その決心は揺らいでいない。二人で共に生きる時間が一日だとしても、数時間だとしても、それでも。
――俺は、カナールと生きると決めた。
剣の切っ先を水平に保ち、敵へ目掛けて。
その剣は、フォティアの頭蓋を貫いた。
2.
重たく、しかし確実に。レネの両腕に、硬質なものを砕く感触が届いた 。それは間違いなく、フォティアの頭蓋だった。
罅は致命的な亀裂となり、大きな破片と化した骨が零れ落ちる。半分ほど――下顎や側頭骨、右側の角――は辛うじて頸椎に乗っかっているが、頭部はすでに原型が判別できないほどに崩れていた。
自分たちの攻撃が通じたのを確認し、レネは剣を引き戻す。敵は動きを止めた。カナールが放った岩石の魔法に下半身を囚われたまま、がっくりと項垂れている。無力化することは、できたようだ。
――まだだ。
レネは知っている。絶命した魔物は、身体を黒い炎に焦がされて元の姿に戻ることを。彼はまだ竜骨の様相を保っている。死んでいない。
呪いを解く手段は無い。失われた彼の心は、もう戻ることはない。ならば、ここで楽にしてやったほうが良いのだろう。ひと呼吸おいて、再び剣を水平に構えなおした、その時だった。
フォティアの右手が、こちらに伸びた。剣の切っ先を掴み、乱暴に振り上げる。こちらの腕ごと持っていかれる寸前で、レネは手を離した。主のいなくなった剣は容易にフォティアの頭上へと持ち上がり、そのまま彼の得物となる。
棒で遊ぶ子供の遊戯のように、彼は剣を下方へと叩きつけた。両足を抑え込んでいる岩とぶつかって、激しい金属音が響く。二度、三度と叩くうちに、打撃音の音程が変わった。
――割れる!
予感したと同時、レネは相棒のほうへ走った。カナールはフォティアの抵抗を、唖然とした様子で見ている。相棒の手をとっさに掴んで、レネはそのままフォティアへ背を向けて上り階段のほうへ走る。
瓦礫に埋め尽くされてはいるが、階段はまだ崩落していなかった。上階がどうなっているのか分からないが、とにかく今はフォティアの傍から逃れる必要がある。
階段の一段目に足をかけた瞬間、背後で岩が割れる音がした。振り返る余裕はない。相棒の足に合わせる余裕もない。小さい身体を両腕で抱え、階段を駆け上がる。
上階は数多の瓦礫が散乱していた。倒壊している柱の裏にかがんで、カナールの口を抑える。足元に転がっていた手ごろな大きさの石を拾うと、レネは部屋の反対側の方角へ投げた。
敵の足音はすぐに追ってきた。階段を駆け上がったかと思うと、先ほど投げた石の方向へと走り去っていく。
――どうする。
息を殺しながら、考える。
あいつの両目は潰れている。今の様子から見ても、音で周囲を判別しているのだろう。音を立てなければ、見つかることはないはず。この雨が、かすかな衣擦れと呼吸音をかき消すのにちょうどいい。
だが、これからどうする? こちらは丸腰。魔法は詠唱が要る。カナールに持たせておいた弓は、いま背中にかかっていない。おそらく図書室に置いたまま,城の崩落に巻き込まれたのだろう。
そもそも、どこまで壊せばあいつは死ぬ? 頭の半分以上を失ってもなお動けるやつを、どうしたら確実に倒せる?
ふと気が付くと、カナールの口を抑えている手に、小さい手が添えられていた。力が強すぎただろうかと思い手を放すが、相棒はそれでもこちらに手を重ねている。
小さく震えていた。自分の腕の中で、相棒は俯いて肩を小刻みに震わせている。
無理もない。つい十数分前まで頼もしい味方だった命の恩人の心が、壊れてしまったのだ。元に戻す手段はない。無いということを、自分たちが証明してしまった。
王城も崩壊し、この雨を凌ぐことすらかなわない。周囲を見渡せば、色とりどりの花弁が散って雨に打たれていた。上階のバルコニーに植わっていた、屋上庭園の花だろう。
白い星形の花弁――希望の名前を冠したその花は、アルカのお気に入りだった。はにかんだ声で優しく教えてくれた彼の面影は、もう、二度と戻ってこない。土に汚れて、石に引き裂かれ、白い花弁は見るも無残な姿で横たわっている。
絶望。この言葉は、まさにこの状況のために在るのかもしれない。
希望は堕ちた。自分たちもこのまま、堕ちるしかない――
――堕ちる?
「……そうか」
口元に手を当て、雨音にかき消されるような小声でつぶやいた。
気づいたカナールが、腕の中で訝しげに顔を上げる。
「走りながら説明するぞ」
カナールの耳に辛うじて届くくらいの声量でささやいた。そして再びカナールの肩と膝を抱き、レネはゆっくりと立ちあがる。
――上手くいくかは、五分だ。だが、あいつを倒す方法はこれしかない。
武器がなくとも、フォティアを倒す方法。頭部の半分以上を失ってもなお動ける相手を、確実に壊す方法。
成功するかは、己の脚とカナールの魔法の精度にかかっている。でも――
賭けるしかない。
レネはカナールを抱えたまま、地面を蹴った。
3.
雨水が張られた床を蹴る。
荒々しく水を打つ音は、敵まで届いているだろう。部屋の反対側からすぐに硬質な足音が向かってきた。
「レネ、どうするの!?」
「足場が欲しい! なるべく上へ行けるような道を作れるか!?」
「上って……」
カナールは見上げる。そこには天井などない。瓦礫の山が鎮座しているだけだ。柱や天井の一部だったものがバラバラに引き裂かれて高く積みあがっている。寄せ集めで出来た山は雲へと腕を伸ばし、助けてほしいとばかりに雨を零す。
「高さが欲しい。あの上へ行けるか」
あの山の頂点へ。できるのなら、さらに上へ。この山をそのまま上ったところで、フォティアに追いつかれるか自分が足を滑らせるだけだ。上へ行くには、どうしても足場が必要だ。そして、それを作れるのはカナールの魔法だけ。
「……やってみる」
腕の中で、カナールは目を閉じる。すぐに詠唱は始まった。
あとは相棒の魔法を信じるしかない。自分が今できることは、相棒の集中を切らさないように、時間を稼ぐこと。
巨大な竜骨が迫る。さっきは投石の音である程度の攪乱が狙えたが、カナールの魔法を使うには詠唱が必須だ。声が発生する以上、敵の耳を騙すことはもうできない。詠唱が完了するまで、己の足で彼から逃げおおせるしかない。
崩壊前はあんなにも広く感じた王城は、魔物との逃亡劇を繰り広げるにはあまりにも狭かった。散らばった瓦礫が障害物になり、ここではろくに走れない。
レネはカナールを左腕で強く抱き寄せ、右手を空ける。下り階段の手すりを支点にして、階下へと飛び降りた。落下の瞬間、詠唱の声色が少しだけ上擦る。大丈夫だ、という代わりに、しっかりと右腕でも体を包み込む。
元々レネたちが居た階層に着地した瞬間、足元が大きな影に覆われた。嫌な予感がして、咄嗟に左へ飛びのく。
柱が降ってきた。轟音を立て、一秒前まで自分たちがいた地面に突き刺さる。息をのんで階上を見ると、フォティアがさらに大きな瓦礫を頭上へ持ち上げていた。
「……なんて奴だ」
腰を上げ、蛇行するように走る。敵の狙いは正確だ。こちらの軌道を追うようにして、一発、二発、三発と地鳴りが背後から轟く。
この階層も広くはない。そして、上階ほどではないが激しく損傷している。どちらにせよ、カナールの詠唱が完成したら上へ向かう足場を形成してもらうのだから、上階には戻らないといけない。蛇行しながらも弧を描くような軌道で走り、再び階段を駆け上がる。
五発目の投擲を避けた瞬間、カナールの声が途切れた。
終わったのか、と視線を投げる。大きな赤い瞳と目が合い、相棒は頷いた。
精悍な、決意に満ちた顔つきだ。腕の中の相棒は視線を上へ向けると、左腕を天へ突き出した。
『――萌芽!』
イスキオス戦で見た光景だ。瓦礫の山の麓から、太い根が天へと伸びる。幾本もの根はらせんを描くように瓦礫を覆って、梢を高く、高く押し上げる。積みあがった瓦礫の山の斜面を這うようにして、幹は斜め上へと伸びた。
雨に打たれながらも力強く。即席にしてはあまりも剛健な、天へと続く大樹の階段がそこにあった。
「時間がかかってごめん」
「いや、完璧だ」
カナールを床におろして、頭を撫でる。カナールは赤面しながら、くしゃくしゃになった濃紺の髪を撫でおろした。照れを隠すような眼差しにどことなくモルテの面影を感じ、レネは顔をほころばせる。
「もう一つだけ、頼めるか」
「なあに?」
レネは少しだけかがんだ。フォティアに声が届かないよう、そっと耳打ちする。
「もう一つだけ魔法を使ってほしい。俺が――」
***
「レネ、でもそれは――」
「お前ならできる。頼んだぞ!」
カナールが呼び止める声を振り切って、レネは走る。『萌芽』で召喚された大樹の根に足をかけ、らせん状に組まれた幹を駆け上がる。
「来い、フォティア! お前の相手はこっちだ!」
挑発に呼応するかのように、敵が足場を駆け上がる。さすがに〈木登り〉は苦手なようで、四つ足を繰ってこちらに迫ってきた。
――そうだ。それでいい。
上るうちに左右の視界がひらけた。王城から斜め方向に突き出された大樹は、天然の階段となって空へとレネを導く。
梢までもう少し。すぐ後ろには、フォティアがついてきている。獣性をむき出しにして、人の面影を一片たりとも残さず、竜の咆哮をあげてこちらを執拗に追いかける。
走りながら、既視感をおぼえた。
そうだ。そういえば、リヴァーディアに入る直前もこうして獣に追いかけられたな。
あれは子熊だったか。
あの時は腕を噛ませ、血を使ってやり過ごした。今考えれば、よくあんな無謀なことができたものだ。もう少し熊の体格が大きかったら、腕ごと持っていかれていたかもしれない。まあ、作戦がいつも無謀なのは今も変わらないか。
苦笑が漏れた。あの時はモルテの手当てを無下に突っぱねた。絶対に相棒を触れさせなかった。なのに、今となっては抱きかかえもするしキスだってしようとした。
己の変化に自分でも驚くばかりだ。
「……感謝しないといけないな。モルテ、カナール、」
――有難う。
梢に達した。
レネはそのまま幹を蹴り、
宙へと飛び降りた。
4.
風を受ける。
冷気と湿度を孕んだ空気が頬を撫ぜ、気持ちいいとすら感じた。鼓膜の傍には風切りの音と、耳飾りが揺れる金属音が鳴っている。
仰向けに飛び降りた。空が見えるように飛びたかった。視界には涙をこぼす鈍色の空。そして、レネの後を追って足を滑らせたフォティアの姿があった。
――成功だ。
自分とフォティアが、共に落ちる。この高さなら、確実に死ぬだろう。骨も関節も砕けて、跡形も残らない。痛みを感じるのも一瞬で済む。これが、この方法が、一番確実なやり方だ。
「……アルカのところに、行ってやってくれ」
天国など信じていない。だが、もしも向こう側があるのならば、今度こそ彼女を支えてやってほしい。
――そう祈ることしか、俺たちはお前にしてやれなかった。
目を閉じた瞬間、背中が何かにぶつかる感覚がした。刹那、無数の葉が下からせりあがってきた。風切り音は木の葉が擦れる音に変わり、腕を、頬を、後頭部を、葉と細枝が擽ってくる。内臓が感じていた自由落下の感覚は次第に減衰し、枝葉の途中で引っかかるようにしてレネの身体は完全に停止した。
それとほぼ同時、雨音に混じって、はるか下から鈍い衝突音がした。おそらく、後に落ちたフォティアのものだろう。
しばらく息を殺して聴覚に集中する。万一あの墜落ですらフォティアが死を免れていたら、下から咆哮や足音がするはずだ。
……しかし、耳に届く音は雨音だけだった。永遠とも思える張り詰めた静寂を、かすかに聞こえる炎の音が破った。
遺体が燃えた。他の騎士と同じく、死んで元の姿に戻ったのだろう。
終わったんだ。騎士は全員、死んだ。
長いため息をついて、背を枝葉に預ける。同時、小さい足音が聞こえた。
「ばか!」
相棒の声だ。上下左右は葉で埋め尽くされて視認できないが、確かにこの声はカナールだ。
「ばか、レネの……レネのばかあ!! ぼくの魔法がちょっとでも遅かったら……し、死んじゃうところだったんだよ!!」
珍しい。相棒が涙声を張り上げている。あまり相手を罵倒する性分を持っているように見えなかったが、こういう一面もあるのか。
「そうだな」
「『そうだな』じゃないよ! もうやだ、知らない! 降ろしてあげない! 自分で降りてきて!」
「案外、梢も快適だぞ?」
「何言ってるの!! ばか!」
「そんなにバカバカ言っていると降りてきてやらないぞ」
「やだぁ!!」
カナールはそのまま、声をあげて泣き始めた。こういうところは子供らしい。あまり揶揄いすぎても大人気が無い。そろそろ降りてやろう。
二本目の樹から降りる。カナールは一階の、王城西門近辺の地面から魔法を使ったようだ。自分の着弾点を予測して、正確な位置に樹木を生やす。魔法の才に秀でていないととてもできない芸当だ。
カナールは肩を震わせていた。さんざん擦った瞼は赤く腫れあがっている。戦闘前も戦闘後も大泣きしていたから当然だろう。
「よく、頑張ったな」
頭を撫でる。雨に濡れながら、小さい体で必死に戦った。レネだけでは勝てなかった。自分だけでは、瞬く間にフォティアの暴力に倒れていただろう。
二人いたから――否、カナールをここまで導いたモルテがいたから。
三人がいたから、生き残れた。
頭を撫でられたカナールは、涙を拭う手をレネの背へ回した。細い体がいきなりこちらへしがみつくから、思わず撫でる手が止まる。
冷たく静かな雨の中、相棒の体温がじんわりと伝わる。レネはそっと相棒の後頭部へと手を回し、小さく震える身体にやさしく添えた。
瓦礫の山を背に、二人はいつまでも抱きあっていた。
5.
フォティアの遺体はすぐに見つかった。レネが着地したところから十数メートル離れたところに、仰向けで横たわっていた。
かなりの高さから転落したから遺体も崩壊しているかもしれない。そう危惧していたが、存外に他の騎士と変わらずに身体が残っていたことに安堵した。
黒髪の少年。カナールよりも数歳上のように見えるが、まだ幼い面影も残っていた。
レネは手を差し出し、薄く開かれたフォティアの瞼を閉じる。二十年以上のあいだ一人の少女を守り抜いた騎士に哀悼と敬意を込め、黙祷を捧げた。
リヴァーディアが侵略された日に、七人の騎士がどんな思いで城に立っていたのか、レネは知らない。だが、彼らの誰もが、この地に生きていたのだ。
父と母は、自分に逢える日を楽しみにしていた。フォスは治癒の知識と技術を使い、より多くの人を助けるために尽力していたはずだ。アネモスとイスキオスはお互いを思いやり、時に共闘していたのかもしれない。セリーニとフォティアの間にどんな確執があったのか今となってはもう分からないが、かつて二人とも武器をとって国を守るために戦っていたのは真実だ。アルカは花と小鳥を愛でる、純粋で無垢な少女だった。
できることなら、彼らにもっと違う形で出会いたかった。隊長と副隊長の息子として、皆の背中を追いながら誰かを守るような生き方をしたかった。
自分の過去を歪め、七人の騎士と姫巫女の未来を壊し、モルテの心を限界まで追いつめて、カナールの存在すら巻き込んだ。
そんな呪いを、術者を。特定することすら、できなかった。
***
「父さんたちは、俺を嗤うだろうか」
墓前に跪く。白い花を添えて、レネは呟いた。
フォティアとアルカの埋葬は完了した。墓石はカナールが魔法で作り出したものだ。名も何も刻んでいない簡素なものだが、それでも無いよりはましだろう。
さすがに王城の屋上庭園ほどの規模は無理だったが、花を数本植え替えてみた。奇跡的に損傷を免れていた花を拾い集め、一本一本墓石を取り囲むように植えてある。
花々は柔らかい日差しを受けて、二人の周りで懸命に咲いている。
二人に喜んでほしい。そう思っての装飾だが、ほんの少しだけ罪滅ぼしの念も含まれている。
呪いは解けなかった。フォティアもあれだけ協力してくれたにも関わらず。もとから解除法など存在しなかった。それほどまでに強固で強大な呪いが、自分たちを今も蝕んでいる。
残りの時間は多くない。レネの呪いの紋様は右目から始まり、右半身を蝕んで左腕へと至る。フォティアを殺したあとも紋様の侵食は進み、左の肘まで到達していた。
カナールの紋様は胸から始まり、放射状に広がる。顔を埋め尽くし、額が僅かに残るだけだ。二人とも、もってあと二、三日だろう。
もう、時間はない。魔法障壁の外側へ出ることすら、この残り時間では不可能だ。
自分たちはリヴァーディアに至り、リヴァーディアで死ぬ。二人ともその覚悟はできていた。
父は嗤うだろうか。母は怒るだろうか。解呪を求めて故郷へと至ったのに、無関係の仲間を巻き込んで騎士を殺し、最悪の結末へと辿り着いてしまった。そんな自分を、父と母は詰るだろうか。
「そんなことないよ」
カナールはゆるくかぶりを振って、隣に座るレネへ微笑みかけた。
「きっと、誇りに思うよ。真実に迫ろうとしたレネのことを。レネのお父さんもお母さんも、ここで誰かを守って、敵に抗って、戦い抜いた。二人はそんな立派な騎士さんだったってこと、解き明かしたんだもの。それに――」
レネはぼくのこと、守り抜いてくれたでしょ?
と続けて、にっこりと笑った。幼さが残る屈託のない笑みが、こちらを見る。
「俺は、お前を守ってなんかいない」
「守ったよ。そして、目覚めさせてくれた」
根がつぶれたものを、いつのまにか摘んでいたらしい。手に持つ花へ視線を落として、相棒は続ける。
「レネはぼくに〈愛〉を教えてくれた。死にたかったぼくを愛してくれた。愛して、愛されるようになりたかったぼくを、モルテと一緒に導いてくれた」
「愛……」
呪いが解けたら、やりたかったこと。愛し、愛されるような自分になりたかった。
愛なんていらないと、愛を否定したかつての自分から、変わりたかった。
カナールが教えてくれた。モルテが伝えてくれた。愛することを。
――俺がカナールを導いたんじゃない。むしろ導かれたのは……俺の方だ。
カナールは手元の花を、すっとレネに差し出した。
「レネ。大好き」
ほんのりと薔薇色に赤らんだ頬。優しく柔和に細められた目。風になびき、藍色の光彩を反射するたおやかな髪。甘くて、そして精悍で、心を溶かすような声。
そのどれもが愛おしい。びっしりと呪いの紋様に埋めつくされていても尚、直向きに、したたかに咲く命。
呪いは解けなかった。けれど、その先で欲したものを、今確かに掴んだ気がする。
――愛している。俺は、カナールのことを。
花を受け取る。薄桃色に染まる花弁は、まるで今の相棒ようだ。
頬に手を当てた後、腰へと滑らせた。
薄くて細い体躯を支え、己の上半身を近づける。
相棒の瞼がすっと閉じ、こちらを待った。かすかな呼吸を頬に感じる。
少しだけ顔を傾けて、レネは、
カナールへ口づけた。

〈了〉
